2025年09月04日「神が味方であるなら」
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神が味方であるなら
- 日付
- 説教
- 田村英典 牧師
- 聖書
ローマの信徒への手紙 8章31節~39節
聖書の言葉
8:31 では、これらのことについて、どのように言えるでしょうか。神が私たちの味方であるなら、誰が私たちに敵対できるでしょう。
8:32 私たち全てのために、ご自分の御子さえも惜しむことなく死に渡された神が、どうして、御子と共に全てのものを、私たちに恵んで下さらないことがあるでしょうか。
8:33 誰が、神に選ばれた者たちを訴えるのですか。神が義と認めて下さるのです。
8:34 誰が、私たちを罪ありとするのですか。死んで下さった方、いや、甦られた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、しかも私たちのために、執り成していて下さるのです。
8:35 誰が、私たちをキリストの愛から引き離すのですか。苦難ですか、苦悩ですが、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。
8:36 こう書かれています。
「あなたのために、私たちは休みなく殺され、
屠られる羊とみなされています。」
8:37 しかし、これら全てにおいても、私たちを愛して下さった方によって、私たちは圧倒的な勝利者です。
8:38 私はこう確信しています。死も、命も、御使いたちも、支配者たちも、今あるものも、後に来るものも、力あるものも、
8:39 高いところにあるものも、深いところにあるものも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。ローマの信徒への手紙 8章31節~39節
メッセージ
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人生を振り返りますと、私たちには夫々かなり危機的な時があったと思います。「今度ばかりはもう駄目だ」と、大袈裟にではなく、本当にそう思った時も何度かあったのではないでしょうか。しかし、その都度、私たちは努力し、人にも助けられ、状況も思いがけなく好転するなどして、今まで何とかやって来られたというのが、私たちの人生だと思います。
しかし、今後はどうでしょうか。一度も体験したことのない非常に重い病気やけが、またトラブルに襲われたなら、どうでしょう。そして最後には当然死が待っています。誰も死を避けて通ることはできません。私たちはこれらの全てに耐えられるでしょうか。
こうしてみますと、私たちの存在を根底から脅かし、私たちを押し潰し、あるいは呑み込み、私たちを滅ぼそうとする恐ろしい力を持つ敵が、色々な形でこれからもあることが分ります。
それと、私たちに生れつき染み着いている自己中心の罪の性質も、この世界と人間の造り主であられ、全ての人の公平な審判者、かつ救い主であられる生ける真(まこと)の神から私たちを引き離し、永遠に滅ぼす敵でしかありません。
そして、私たちのそういう罪の性質を利用し、私たちを罪と悪と不信仰へ誘い、一層私たちを神から引き離そうとして働いている目に見えない恐ろしい悪魔・サタンの存在を、聖書は教える。一体これらの敵に私たちはどう対処すれば良いのでしょうか。
先程お読みしましたローマ8:31で、使徒パウロは神の御霊の導きの下、力強くこう述べます。「神が私たちの味方であるなら、誰が私たちに敵対できるでしょう。」
そうなのです!何かが如何に恐るべき力を持ち、私たちを押し潰し、あるいは私たちを永遠の滅びへ引き摺り込もうとして全力を挙げて働いても、もし神が私たちの味方であるなら、私たちもパウロと共に31節「誰が私たちに敵対できるでしょう」と言うことができるのです。
実際、万物の造り主なる全知全能の神以上に強いものなど、宇宙広しと言えども、どこに存在するでしょう。神が私たちの味方であるなら、如何に巧妙で恐るべきサタンや死の力、また私たち自身の罪と弱ささえも、私たちを神の愛から引き離して滅ぼすことはできません。ですから、パウロは8:37~39 でこう語ります。「しかし、これら全てにおいても、私たちを愛して下さった方によって、私たちは圧倒的な勝利者です。私はこう確信しています。死も、命も、御使いたちも、支配者たちも、今あるものも、後に来るものも、力あるものも、高い所にあるものも、深い所にあるものも、その他のどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。」
では、どうすれば、神は私たちの味方となって下さるのでしょうか。私たちは、不信仰で利己的な罪人です。私たちは、全く正しく清い神の前に、本当は顔も上げられない罪人です。それなのに、神はこんな私たちの味方になられ、味方であり続けて下さるのでしょう。
無論、そうであって下さいます!私たちが、自分の犯した数えきれない恥ずかしい情けない罪を心底悔い改め、神の独り子イエスを救い主として、ただ心から信じ、受け入れ、寄り頼むなら、今までの私たちが、どんな者で、どんな生活をして来たとしても、神は私たちの罪を全てお赦し下さいます。紀元前8世紀のユダ王国のヒゼキヤ王の表現を借りるならば、神は私たちの罪を全て私たちの後ろに投げ捨てて下さいます。ヒゼキヤは主なる神にこう言いました。イザヤ書38:17「ああ、私の味わった苦い苦しみは、平安のためでした。あなたは私の魂を慕い、滅びの穴から引き離されました。あなたは私の全ての罪を、あなたの後ろに投げやられました。」
また神は、御子イエスの故に信仰者を赦し、永遠の命を与え、ご自分の子となさり、永遠に信仰者の味方であられます!神の愛故に、本当に御子を信じる信仰だけで十分なのです。
この信仰に立ち、ヘブル人への手紙13:5、6は力強く告白します。「主御自身が『私は決してあなたを見放さず、あなたを見捨てない』と言われたからです。ですから、私たちは確信をもって言います。『主は私の助け手。私は恐れない。人が私に何ができるだろうか。』」
罪と不信仰を日毎に悔い改め、主イエスを心から信じ、イエス・キリストから離れないなら、今後何が私たちを襲おうとも、神は私たちの最強かつ永遠に変らない味方であり続けて下さいます!
神の無限の知恵と力、愛と真実を覚え、感謝と確信、また厳しい試練から事実助けられた古代イスラエルの信仰者の歌、詩篇124:8の「私たちの助けは、天地を造られた主の御名にある」という賛美に私たちの賛美を重ねつつ、福音に堅く生きて行きたいと思います。