神に喜ばれる価値観
- 日付
- 説教
- 田村英典 牧師
- 聖書 マタイによる福音書 18章1節~5節
18:1 その時、弟子たちがイエスの所に来て言った。「天の御国(みくに)では、一体誰が一番偉いのですか。」
18:2 イエスは一人の子供を呼び寄せ、彼らの真ん中に立たせて、
18:3 こう言われた。「まことに、あなた方に言います。向きを変えて子供たちのようにならなければ、決して天の御国に入れません。
18:4 ですから、誰でもこの子供のように自分を低くする人が、天の御国で一番偉いのです。
18:5 また、誰でもこのような子供の一人を、私の名の故に受け入れる人は、私を受け入れるのです。
マタイによる福音書 18章1節~5節
今朝も、私たちを造り主なる真(まこと)の神に喜ばれる者として真(しん)に生かす魂の食べ物、すなわち、聖書の御言葉に耳を傾けたいと思います。
18:1は伝えます。「その時、弟子たちがイエスの所に来て言った。『天の御国(みくに)では、一体誰が一番偉いのですか。』」
ここと同じ出来事を、マルコの福音書9:33、34はこう伝えます。「一行はカペナウムに着いた。イエスは家に入ってから、弟子たちにお尋ねになった。『来る途中、何を論じ合っていたのですか。』」彼らは黙っていた。来る途中、誰が一番偉いか論じ合っていたからである。」
マタイは省いていますが、天の国で誰が一番偉いか、従って、また自分たちの中で誰が一番偉いかという議論も彼らはし続け、これが結構気になっていたのでした。これが気になるということは、このことにいわば彼らの価値観があったわけです。
彼らは主イエスの尊い御言葉にも数々の偉大な御業(みわざ)にも、これまで沢山触れて来ました。それどころか、イエスのきよいご人格に、極近くで親しく接して来ました。それなのに、彼らはいまだに誰が一番偉いかといったこの世的価値観に捉われ、左右されていたのです。弟子たちのこういう点に私たちは少々驚きますが、これが現実でした。そしてこれは今の私たちとも無関係ではありません。
そこでイエスの答えに注目します。2~4節「イエスは一人の子供を呼び寄せ、彼らの真ん中に立たせて、こう言われた。『まことに、あなた方に言います。向きを変えて子供たちのようにならなければ、決して天の御国に入れません。ですから、誰でもこの子供のように自分を低くする人が、天の御国で一番偉いのです。』」
3節でイエスは「まことに」と言われます。元のギリシア語聖書では「アーメン」という言葉であり、大切な真理を語る時に言われます。従って、私たちも襟(えり)を正してイエスの言われることを受け止めたいと思います。
そこで結論を先に言いますと、神に喜ばれる価値観の一つは、私たち自身にとって最も尊いことは、へりくだりであり、謙虚さだということです。
イエスはこれを教えるために、2節、一人の子供を彼らの真ん中に立たせられました。ここの「子供」は、幼児をも意味するギリシア語です。この子は、柔和なお顔のイエスに呼ばれて嬉しかったことでしょうね。ところが、来てみますと、大勢の大人の真ん中に立たされました。急に不安になり、緊張して小さくなり、おどおどしたかも知れませんね。
子供は無邪気で可愛いというのが一般的な受け止め方ですが、聖書では、子供は未熟で色々な点でまだまだ足りないという点がよく取り上げられます。ですから、箴言3:11、12は「わが子よ、主の懲らしめを拒むな。その叱責を嫌うな。父が愛しい子を叱るように、主は愛する者を叱る」と教えますし、Ⅰコリント14:20は「兄弟たち、考え方において子供になってはいけません」と注意します。
実際、子供は色々な点で未熟です。よく分っていません。感情でとっさに動きます。ちょっとしたことにもひどく恐れ、おびえ、泣いて親にしがみつきます。
子供が自分の足りなさを自覚して謙遜だということはありません。しかし、どんなに強がったり偉ぶっても、大人には色々な点でかなわないことは、本能的に分っています。その意味で、自分の弱さ、足りなさを知っています。イエスが取り上げられるのは、そういう点や不安や怯えを隠さない子供の素直さであり、これを何かと自分を大きく、強く、賢く、偉い者であるかのように見せ、そういうことに価値があると考える大人のこの世的価値観と比べられるのです。
イエスは言われます。3、4節「向きを変えて(すなわち、悔い改めて)子供のようにならなければ、決して天の御国に入れません。ですから、誰でもこの子供のように自分を低くする人が、天の御国で一番偉いのです。」
教会はしばしば天国の雛形(ひながた)だと言われています。色々欠けや弱さはありますが、神の御子・救い主イエスを中心とするからです。そうだとするなら、私たちは教会の中でも、自分自身を低くする謙虚さこそが一番尊いのだ、ということをハッキリ心に留め、この世的価値観を持ち込まないようにしたいと思います。
イエスはマタイ5:3、つまり有名な山上の説教の冒頭で、「心の貧しい(すなわち、神と人の前で真(しん)に謙虚な)者は幸いです。天の御国はその人たちのものだからです」とお教えになりました。ですから、私たちは、自分が本当に謙虚でなければ決して天国に入れず、自分を低くすることこそ、神に最も喜ばれ、天国でも教会でも一番尊いことなのだという価値観を、改めてハッキリ自分自身に何度でも教育したいと思います。
神に喜ばれる価値観をもう一つ学びます。今の点とも関りますが、今度は他の人に関する価値観です。それは、どういうものでしょうか。小さな者、弱い人、欠けのある人を決して軽んじたり無視したりせず、受け入れ、大切にする愛を最も尊いとする価値観です。イエスは言われます。5節「誰でもこのような子供の一人を、私の名の故に受け入れる人は、私を受け入れるのです。」
子供は、当然、まだ色々なことがよく分っていません。理解力に欠け、時には愚かですし、手間がかかり、面倒な時もあります。
しかし、ここでよく考えたいと思います。創世記1:26、27が教えますように、神は人間を皆、「神のかたち、神の似姿」に造られました。それは人間が神に人格的に喜んで応答することができ、勿体なくも神のパートナーとして生きることができるためです。
ところが、創世記が伝えますように、人間は神に背いたために堕落しました。それにより、神のかたちは大きく損なわれました。しかし、完全に失われたのではなく、残っています。ですから、人間は何らかの形で神に応答しないではおられません。歴史を振り返りますとよく分りますが、色々な宗教が存在するのは、そのためです。
話を戻します。壊れてはいましても、神のかたちを子供も持っています。そして、時間をかけて私たちがようやく今の自分にまで成長できましたように、子供もまた人格的に成長して行くのであり、それを神は期待しておられます。
このことをよく考えますと、子供を初め、知的能力や理解力にやや欠けるとか、弱く、足りない人たちを、私たちが主イエス・キリストの故に、愛をもって受け入れることが、実はどれほど価値のある尊いことであるかが、よく分ると思います。
イエスは言われます。5節「誰でもこのような子供の一人を、私の名の故に受け入れる人は、私を受け入れるのです。」
主イエスが、愚かなことの多い私たち罪人を分け隔てなく愛し、受け入れて下さったのですから、私たちもまた小さく、弱く、欠けのある人たちを、決して軽んじたり無視することをせず、愛をもって受け入れ、神の救いの恵みと祝福に一緒に与る!このことを尊ぶ価値観は、今日もまたどんなに大切でしょうか。
紀元1世紀も後半の頃、まだ初代教会時代でしたが、教会の中に、この世的価値観にいまだ捉われている人たちがいました。彼らにヤコブは言いました。ヤコブの手紙2:2~4「あなた方の集会に、金の指輪をはめた立派な身なりの人が入って来て、また、みすぼらしい身なりの貧しい人も入って来たとします。あなた方は、立派な身なりをした人に目を留めて、『あなたはこちらの良い席にお座り下さい』と言い、貧しい人には、『あなたは立っていなさい。でなければ、そこに、私の足元に座りなさい』と言うなら、自分たちの間で差別をし、悪い考えで裁く者となったのではありませんか。」
そこの1節が言いますように、教会の中に、いわゆる「えこひいき」が見られたのでした。それは、その人たちの持つ価値観から来ています。価値観が私たち人間の様々な具体的な点にも波及することが、よく分ると思います。
私たちは、自分の意識下に潜んでいて、自分自身のことでも他の人に対することでも、大きな影響を影響を与える自分の価値観を、今日またよく検証したいとお思います。そうして、神に喜ばれる、すなわち、イエス・キリストが一人の幼子を通して現された謙虚さ、また愛に基づく温かい価値観をこそ、是非、選び取り、それに喜んで生きたいと思います。また、そういう教会形成を皆で一層目指したいと思います。