2025年07月06日「まことの救い主」

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聖句のアイコン聖書の言葉

16:20 その時イエスは弟子たちに、ご自分がキリストであることを誰にも言ってはならない、と命じられた。
16:21 その時からイエスは、ご自分がエルサレムに行って、長老たち、祭司長たち、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、三日目によみがえらなければならないことを、弟子たちに示し始められた。
16:22 すると、ペテロはイエスを脇にお連れして、いさめ始めた。『主よ、とんでもないことです。そんなことがあなたに起こるはずがありません。』
16:23 しかし、イエスは振り向いてペテロに言われた。『下がれ、サタン。あなたは、私をつまずかせるものだ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。』マタイによる福音書 16章20節~23節

原稿のアイコンメッセージ

 前に学びましたように、ペテロは弟子たちを代表してイエスに16節「あなたは生ける神の子キリストです」と大変重要な信仰告白をし、イエスはこれを受け、18、19節でこれまた大切な教会について語られました。キリストとはギリシア語で救い主を意味し、教会は神の御子イエスを救い主・キリストと信じ、告白する人々の信仰共同体です。

 ところで、救い主は救い主でも、今朝は「真(まこと)の救い主」について、大切な点を二つ確認致します。何でしょうか。

 第一に、真の救い主は魂の救い主であり、言い換えると、天地の創り主なる生ける真の神との関係において、人間を罪そのものと、神による永遠の裁きを初めとする諸々の悲惨から救って下さる救い主だ、ということです。

 救い主と言っても、実際には色々な考えがあります。16~19節で、ご自分が生ける神の子キリストであることとご自分の教会についてイエスが確認された後、20節は伝えます。「その時イエスは弟子たちに、ご自分がキリストであることを誰にも言ってはならない、と命じられた。」

 では、何故イエスはこのように弟子たちに命じられたのでしょうか。それは、当時のユダヤでは政治的・軍事的な意味での救い主への期待が高まっていたからです。

 ご存じのように、当時、ユダヤはローマ帝国に支配され、ローマの総督やローマ兵がいつもいて、ユダヤ人は通行税を取られ、ローマ兵に馬鹿にされ、こき使われることもよくあったそうです。そのため、多くのユダヤ人は反感を覚え、ユダヤをローマから救ってくれる政治的・軍事的救い主を求める傾向が強く見られました。実際、そういう人たちも何人か現れたことが、使徒の働き5:36、37などから分ります。

 こういう中、イエスの弟子たちが得意げに「我々の主イエスは、神の許(もと)から来られた偉大な救い主・キリストだ」と言い回れば、どうなるでしょうか。「ローマ軍を倒せ!ユダヤを解放するのだ!」と言って、ユダヤ人が大勢イエスの周りに集結し、武装蜂起するかも知れません。しかし、そうなれば、ローマ軍はその何倍もの力でユダヤ人を徹底的に攻撃し、流血の大惨事となることは目に見えています。

 こういうことに限らず、間違った救い主理解、その最たるものは、最近の表現で言えば、いわゆるカルト宗教における救い主理解でしょうが、それは悲惨な結末しかなく、歴史はそれを示しています。ですから、先のことも全てお分りのイエスは、弟子たちに、今はご自分について沈黙を命じられたのでした。

 旧約聖書の伝道者の書3:1~8が<全てのことに時がある>と言うように、何事にも時があります。ですから、やがて神の時が来て、聖霊を受けた弟子たちは、驚くほど大胆に救い主イエスを宣べ伝えました。

 話を戻します。真の救い主は、軍事的・政治的解放者でも世間のさもしいご利益宗教に見られるような単に人間の欲望を満たすための救い主でもありません。魂の救い主、すなわち、天地の創り主なる生ける真の神との関係において、人間を罪そのものと、永遠の地獄を初め、罪の結果である諸々の悲惨から救う永遠の救い主なのです。

 魂の救い主という正しい救い主信仰を自分では持っているつもりでも、実際には、かなり世俗的で、低俗なご利益主義的な信仰や考えが混じっている場合もあります。今朝、改めて夫々が自分の救い主理解をよく吟味したいと思います。

 もう一点確認します。更に根本的なことです。つまり、真の救い主は、私たち罪人に自らを低くし、命まで与えて仕える愛に満ちた救い主だということです。

 21~23節を読みます。「21 その時からイエスは、ご自分がエルサレムに行って、長老たち、祭司長たち、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、三日目によみがえらなければならないことを、弟子たちに示し始められた。22 すると、ペテロはイエスを脇にお連れして、いさめ始めた。『主よ、とんでもないことです。そんなことがあなたに起こるはずがありません。』23 しかし、イエスは振り向いてペテロに言われた。『下がれ、サタン。あなたは、私をつまずかせるものだ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。』」

 ペテロは、21節のイエスのどの言葉に反対したのでしょうか。無論、神の都とされたエルサレムでイエスが救い主として華々しくデビューするどころか、長老たちや祭司長たち、律法学者たちなどから苦しめられ、殺されるという部分でしょう。これはペテロには余りにも意外で、彼は我慢できませんでした。22節の「いさめ始めた」は「とがめ始めた」と訳せる言葉です。

 しかし、イエスは23節が伝えますように、「下がれ、サタン。あなたは、私をつまずかせるものだ」と言われました。「つまずかせる」は「邪魔する」とも訳せます。とにかく「下がれ、サタン」とは、何と厳しい叱責でしょう。

 では、ペテロの何が問題だったのでしょうか。「救い主」についての考え方です。すなわち、ペテロには、天地の創り主なる神の遣わされる救い主は、例えば、美しい馬にまたがって、あるいは装飾したきれいな馬車に乗って、堂々とエルサレムに入り、また悪人たちを次々滅ぼし、人々にかしずかれる王のような存在だったのでしょう。

 しかし、それはどこから来た救い主像なのでしょうか。神がご自分を紹介しておられる旧約聖書が預言し約束していたものでしょうか。

 真の救い主を、例えば旧約聖書のイザヤ書53:7、8は、「彼は痛めつけられ、苦しんだ。だが、口を開かない。屠り場に引かれて行く羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない。虐げと裁きによって、彼は取り去られた。彼の時代の者で、誰が思ったことか。彼が私の民の背きの故に打たれ、生ける者の地から絶たれたのだと」と預言していました。

 真の神を否定し、あるいは無視し、神のきよい戒めを破って自己中心に生きる私たち罪人!やがて世の終りに臨む神の怒りと裁きから、決して自分で自分を救うことのできない惨めな私たち罪人!しかし、神のお遣わしになる真の救い主は、そんな私たち罪人の身代りとなり、何と神の永遠の怒りと裁きを受けて死なれる苦難の救い主だということなのです。言い換えれば、どうしようもなく情けない私たち罪人に、そこまでご自分を低くし、仕えて下さる苦難の、そして愛に満ちた救い主だということなのです。

 のちに、イエスはご自分を「人の子」と呼ばれ、弟子たちが自分を低くして人に仕える者になるようにと、こう言われました。「人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また多くの人のための贖い(あがない)の代価として、自分の命を与えるために来たのと、同じようにしなさい。」(マタイの福音書20:28)

 一体、人間の作ったこの世のどんな宗教や哲学や思想の言う救い主が、自分の命を捧げるほど私たちを、それも罪人の私たちを愛し、極みまで仕えた救い主でしょうか。けれども、神の独り子イエスはまさにそういうお方であり、これが旧約聖書と新約聖書の全体を通して、天地の創り主なる生ける真の神が私たちに指し示し、与えて下さった真の救い主イエス・キリストなのです。

 ですから、私たちも人に仕えられることに慣れ切ることなく、愛と赦し、慈しみと慰めに満ちた真の救い主イエス・キリストに倣い、主イエスに励まされ、全生涯を通じ、人に仕えることを喜びとする真の信仰者、真のクリスチャンへと、全人格に成長を許され、尊い福音の前進と神の国の進展のために用いられたいと思います。

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