教会役員の資質-柱-
- 日付
- 説教
- 田村英典 牧師
- 聖書 ガラテヤの信徒への手紙 2章9節~10節
2:9 そして、私に与えられたこの恵みを認め、柱として重んじられているヤコブとケファとヨハネが、私とバルナバに、交わりのしるしとして右手を差し伸べました。それは、私たちが異邦人のところへ行き、彼らが割礼を受けている人々のところへ行くためでした。
2:10 ただ、私たちが貧しい人たちのことを心に留めるようにとのことでしたが、そのことなら私も大いに努めて来ました。
(新改訳聖書2017年度版)ガラテヤの信徒への手紙 2章9節~10節
今朝は、教会役員について、聖書から少し自由に瞑想しながら学びます。教会設立を目指している当伝道所の私たちも、心に留めておきたいと思います。
聖書には、御言葉を教える牧師、信徒を治め指導する長老、愛の業(わざ)を推進する執事という教会役員に関する教えが沢山見られます。教会役員について学ぶことは、実は教会員一人一人のあり方をも学ぶことになります。教会役員の務めは、イエス・キリストから「教会全体」が頂いている尊い賜物と光栄ある奉仕の代表、或いはエッセンスだからです。ということは、彼らの資質や務めを知ることは、主から期待されている全信徒の役割や奉仕を知ることにも繋がります。従って、信徒は、教会役員を自分とは異質で特別な存在と見るのではなく、自分との密接な関係において認識していることが、とても大切です。
今朝は、牧師、長老、執事などの教会役員に必要な資質を学びます。伝道所委員は厳密には教会役員ではありませんが、伝道所委員をイメージすると分りやすいでしょう。
さて、ガラテヤ2:9で、パウロは初代教会で重要な働きをしたヤコブとケファ(ペテロ)とヨハネを「柱として重んじられている」と述べます。興味深いことに、彼らを「柱」に喩えています。
聖書は教会を様々な比喩で表現します。イエス・キリストとの生きた交わりとキリストの意志に従う点を強調する時は、教会を「キリストの体」と呼びます。Ⅰコリント12:27は「あなた方はキリストの体であって、一人一人はその部分です」と言います。しかし、このガラテヤ2章では、家に喩えられています。他にも、例えば、Ⅰコリント3:16は教会を「神の宮」、エペソ2:22は「神の住まい」、Ⅰテモテ3:15は「神の家」と呼び、その光栄が述べられています。従って、教会員は、神が御霊と御言葉によって住まわれ、働かれ、栄光を表されるその神の家を構成する一つ一つのとても大切な建築資材と言えます。
では、教会役員は何でしょうか。ガラテヤ2:9によれば、神の家を支え形作る重要な柱なのです。そして教会役員が柱に例えられていることは興味深く、様々な示唆を与えられます。そこで、余り思弁的にならない範囲で幾つかの点を心に留めたいと思います。教会役員として主に召された者が一層自らを顧み、必要な資質を祈り求め、また全教会員が自分で選び受け入れた教会役員とその務めを覚え、彼らに一層、名誉と励ましと従順を与えるためです。更に将来、主が誰かを教会役員に召される時、相応しい人が与えられるためでもあります。
さて、柱は第一に真直ぐであることが必要です。時々、美的観点から曲った柱も使われますが、家の骨組みをしっかり形成する柱は、基本的に真直ぐでないといけません。
教会役員も同じです。その信仰は何といっても真直ぐで、聖書的・歴史的・正統的信仰を持ち、またそれに基づき、クリスチャンとして真直ぐな考え方と姿勢を持っていることが重要です。聖書知識が豊富で色々なことに通じ、他にも優れた賜物、能力のあることは、無論、感謝なことですが、万一信仰そのものが真直ぐでなく、歪(ひず)んでいるなら、教会役員としては相応しくありません。優れた力が色々ありつつも、「教会の柱」として教会役員に求められることは、何といっても神信仰と考え方が真直ぐ正統的で明解!歪(ゆが)みがない!これが第一の特徴です。
ヴァイオリンなど木でできた楽器もそうですが、時間をかけて十分乾かした材料を使いませんと、時間の経過と共に段々歪(ひず)みが出てきます。その意味でも、監督、すなわち長老について、Ⅰテモテ3:6が「信者になったばかりの人であってはいけません」と言う意味がよく分ります。
第二に、柱は強くて固くないといけません。教会の柱、教会役員の信仰も同じです。強い堅固な信仰の持ち主であることが大切です。
強いとはどういうことでしょうか。何をもって強いというのでしょうか。極(ごく)常識的に考えて、例えば、信仰に大きな浮き沈みのないことが上げられるでしょう。無論、信仰の浮き沈みは誰にもあり、常に山の尾根ばかりを歩いているような強い信仰者などいません。いくら教会役員であっても、信仰に全く浮き沈みがないことを求めるのは無理です。しかし、大きな浮き沈みがなく、信仰がいつも比較的安定し、コンスタントであることは大切です。そうでないと、信徒の信仰と生活を導き、教会を支えることは困難です。
また、色々な困難や試練に、ひどく脆(もろ)くないことも大切でしょう。
神の家・教会を破壊しようとする内と外からの危険な誘惑や力に対し、問題点を適確に見抜き、聖書の真理に堅く立ってよく戦えることや粘り強さも大切でしょう。
更に言うなら、御言葉の様々な約束と命令、特に主イエスへの信頼と服従における強さ、その意味で常に希望と責任感を失わない信仰の強さが、教会役員には大切と思われます。
第三に、柱は太いことも大切です。家の場合、目的があって時には細い柱も使われます。けれども、しっかり家を支え形作るという機能を果たす点では、やはり柱はある程度太さを要求されます。細くてもそれなりの太さが必要です。
では、教会役員の場合の太さとは何でしょうか。勿論、信仰の太さ、豊かさにほかなりません。
信仰が真直ぐであるべきことは既に見ましたが、それに加えてある太さも必要だと思われます。というのは、教会には色々な人がいますし、外からも入って来るからです。若者、高齢者は当然ですが、性格、育ち、経歴、教養、職業、趣味、癖(くせ)も実に多種多様です。
教会役員は、聖書という信仰と生活の唯一・無謬(むびゅう)の基準に従い、また歴史的に教会が霊の戦いの中で告白してきた信条に従い、教会員と共に歩みます。また、そうしながら、教会役員は皆と共に神の御前(みまえ)に霊的成長と完成を自らも許されます。しかし、先程申し上げた教会員の色々な状態を考慮しますと、信仰の太さと豊かさも大事です。
ガラテヤ5:22、23に「御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制」とあります。太い信仰とは、まさしくそれらの「御霊の実」をしっかり有するものと言えるでしょう。特に「愛、寛容、親切、善意、誠実、柔和」などは、色々な信徒をしっかり受け止め、支え、まとめ、神の家・教会を建て上げる上で、とても大切な資質だと思います。
第四に、良い柱には変な所にフシがありません。フシの目立つ柱を敢えて用いることもありますが、一般的には、フシのある柱を、家を支える中心的な所に使うことはありません。そこから曲がりや狂いが生じやすいからです。フシをどう巧く(うまく)扱うかが大工さんの腕の見せ所でもありますが、フシはやはり扱いが難しいですね。
教会役員におけるフシとは何でしょうか。何か特定の偏った癖のようなものが挙げられるでしょう。勿論、癖の全くない人などいません。牧師、長老、執事など、教会役員も例外ではありません。信仰を持っても、人は皆、罪の残り滓を持っています。聖化の完成は、私たちが天に召される時にしか実現しません。でも、やはり教会役員は、フシのように妙に難しい、そして罪深い頑なさは、より少ないことが大切です。なくせないそのフシのために、いつの間にか自分の信仰と生活や発言に曲がりや狂いが生じ、ひいては神の家をも歪(ゆが)めてしまいかねないからです。
第五に、柱は外からの見栄え以上に、中身に虫食いや腐った所がなく、全体がキッチリ詰まっていることが大切です。外見がきれいで、あるいは外見が面白い柱も重宝されることがありますが、柱の命は、基本的には中に空洞がなく、中身がビッシリ詰まっていることにあります。そうでないと、やがて家を壊します。
教会役員も同じと言えます。外見ではなく、中身が重要です。仮にその人をスパッと切ったなら、どこもかしこも神への真実で忠実な信仰、そして主イエスと人への愛で詰まっている!それを理想論だといって片づけるのではなく、これを真摯に求めていきたいと思います。復活された主イエスが、教会役員の代表とも言えるペテロに三度も次のようにお尋ねになったことの意味は深いです。ヨハネ21:15以降「ヨハネの子シモン、あなたは私を愛していますか。」
最後、六番目は、他の柱や壁などと組み合わさってやっていけることです。家は特定の柱だけで出来ているのではありません。柱は、他の柱や板や壁など他の資材との組み合わせや支え合いの中で家を構成します。
教会役員も同じと言えます。互いに支え、支えられ、協力し合って、神の家、教会を建て上げます。その時、一人一人も能力や賜物を良く、また美しく発揮できる!これは良い意味での協調性であり、最も聖書的な意味での愛であり謙虚さです。
見えない所で、柱は他のものを支え、柱同志でも繋がって全体を支えることが多いですね。教会役員も表面に出なければならない時もありますが、隠れた縁の下の力持ち的な務めが、実は多く、また単独行動ではなく、他の役員や教会員との協力、連携の中で行なう能力が必要とされます。
以上、私たちは、興味深い柱の比喩により、教会役員に期待される様々な資質について思いを導かれました。最初に申しましたが、これは重責を担って大切な教会形成の奉仕に携わる教会役員を全信徒が十分理解し、また主が選ばれた彼らに名誉と励ましと従順を与えるためです。こういう中で、初めて教会は、真に神の家、神の神殿、神の住まいとして、健やかで豊かな成長を許されます。
現実の教会役員は、牧師を筆頭に皆、欠けだらけです。しかし、彼らを召されたのは主イエス・キリスト御自身です。主はかつてペテロを初めとする弟子たちに言われました。「あなた方が私を選んだのではなく、私があなた方を選び、あなた方を任命しました。」(ヨハネ15:16)。ただこの理由により、教会役員は存在します。彼らが、主の召しに「柱」として一層忠実に従い、喜んであらゆる賜物を発揮でき、また教会員全員が協力し、応援する!このようにして教会が「神の家」として建ち続ける時、そこに神はご自分の栄光を表わされ、救われる人々をますます起して下さるでしょう。