2025年05月11日「信仰が成長するために」

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信仰が成長するために

日付
説教
田村英典 牧師
聖書
マタイによる福音書 16章5節~12節

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聖句のアイコン聖書の言葉

16: 5 さて、向こう岸に渡ったとき、弟子たちはパンを持って来るのを忘れてしまっていた。
16: 6 イエスは彼らに言われた。「パリサイ人たちやサドカイ人たちのパン種に、くれぐれも用心しなさい。」
16: 7 すると彼らは、「私たちがパンを持って来なかったからだ」と言って、自分たちの間で議論を始めた。
16: 8 イエスはそれに気がついて言われた。「信仰の薄い人たち。パンがないからだなどと、なぜ論じ合っているのですか。
16: 9 まだ分らないのですか。五つのパンを五千人に分けて何かご集めたか、覚えていないのですか。
16:10 七つのパンを四千人に分けて何かご集めたか、覚えていないのですか。
16:11 私が言ったのはパンのことではないと、どうして分からないのですか。パリサイ人たちとサドカイ人たちのパン種に用心しなさい。」
16:12 そのとき彼らは、用心するようにとイエスが言われたのはパン種ではなく、パリサイ人たちやサドカイ人たちの教えであることを悟った。マタイによる福音書 16章5節~12節

原稿のアイコンメッセージ

 イエスは弟子たちに8節「信仰の薄い人たち」と言われ、彼らの信仰を問われました。そこで私たちも今日、信仰に関する大切なことをいくらか学びたいと思います。

 最初にこの時の状況を見ておきます。14:15以降は、五つのパンと二匹の魚を元に、男だけでも五千人に食べさせるといういわゆるイエスの五千人養いの奇跡を伝え、15:32以降は四千人養いの奇跡も伝えました。またイエスは大勢の病人を癒され、尊い教えもなさいました。

 これらのことに、当時のユダヤ教指導者であったパリサイ人やサドカイ人は大変驚きました。しかし、傲慢で不信仰な彼らはイエスを妬みました。目を見張るような、それも愛と憐みに満ちた奇跡をイエスがされても、彼らは決してイエスを神からの約束の救い主とは認めず、もっとすごい「天からの徴」(16:1)を見せろと迫りました。イエスを試し、陥れるためです。しかし、頭から信じる気のない頑なな人は、何を見、何を聞いても信じません。ですから、16:4「イエスは彼らを残して去って行かれ」ました。イエスの方から彼らを拒まれたのです。これは大きな警告です。ですから、私たちも自分自身を本当によく見つめたいと思います。

 さて5節を見ます。イエスと弟子たちが「向こう岸」、つまり、ガリラヤ湖の東に舟で渡った時、「弟子たちはパンを持って来るのを忘れて」いました。並行箇所のマルコ8:14によりますと、パンは一つしかなく、彼らは慌てたでしょうね。

 パンの話が出ました。そこでイエスは6節「パリサイ人たちやサドカイ人たちのパン種に、くれぐれも用心しなさい」と言われます。12節から分りますように、パリサイ人やサドカイ人のパン種とは、彼らの教えのことです。パン種(イースト菌)は小麦粉に混ぜられますと、たちまち全体を発酵させ、つまり変質させ、大きく膨らませます。それと同じように、宗教指導者であった彼らの教えは、一般のユダヤ人に非常に大きな悪い影響を与えたのでした。

 では、彼らパリサイ人はどういう教えをしていたのでしょうか。あとの23章は、パリサイ人の問題を指摘されたイエスの厳しい言葉を伝えています。その通り、神の前で自らを吟味して偽善的な自分と戦うどころか、自己満足していた彼らの教えは、神が喜ばれるきよい愛と真実なあり方から人々を遠ざけました。ですから、イエスは弟子たちに、彼らの教えに用心し警戒しなさい、と強く警告されたのです。

 実際、彼ら自身もそうですが、彼らに学んだ当時の多くのユダヤ人たちも、自分では神を信じている積りでしたが、知らない内に神から離れ、神が旧約時代の長い歴史を通じて約束して来られた救い主・神の御子イエスが来られても、そのことを認識できず、イエスを拒み、自分を救いから遠ざけました。何と重大な問題でしょうか。

 ところが、弟子たちもイエスの言葉の真意が分らず、7節「『私たちがパンを持って来なかったからだ』と言って、自分達の内で議論を始めた」のでした。パンを持って来なかった責任を追及し合ったのでしょうね。

 それに気付かれたイエスは、8節「信仰の薄い人たち」と言って、彼らの信仰の薄さ、小ささを嘆かれました。情けなく思われたことでしょう。

 彼らに信仰がなかったのではありません。彼らはずっとイエスに従って来ました。「主のおそばにいたい。離れたくない」と思うそういう信仰はありました。しかし、イエスが語られた大切な真意をまだ悟れない信仰でした。

 信仰は、初歩的で薄く小さいままでなく、成長すべきものです。前回も申しましたが、信仰は聖書に基づき、例えば、神と世界と人間という三つの点をキチンと正しく持つ有神論的世界観といった知的な能力を高めますし、御言葉に刺激され養われて私たちの感性を清め豊かにし、美しいものや真実なものへのきよい喜びや感動など感情を培います。更に信仰は、生れながらに自己中心的な私たちを作り変え、神中心に物事を考え、選び、行動する者へと、私たちの意志を強めます。

 しかし残念なことに、弟子たちはイエスの言われたパン種の話を表面的にしか理解できず、真意を悟れませんでした。パン種がパンを膨らませ変質させるように、誤った悪い教えはそれを受け取った人たちを変えてしまう危険性のあることを、実は既にイエスは13:33で教えておられました。「天の御国はパン種に似ています。女の人がそれを取って三サトン(=約39リットル)の小麦粉の中に混ぜると、全体が膨らみます」と。ところが、16章が伝える時点になりますと、弟子たちはもうよく覚えておらず、分らなくなっていたのでした。「信仰の薄い人たち」とイエスが嘆かれても仕方がありません。

 では、イエスご自身の教えであれ、聖書の中の他の大切な御言葉であれ、何回か聞き教えられても、なおよく悟れず身につかないという信仰の薄さ、小ささは、何に起因しているのでしょうか。私たち自身の問題として、これはよくよく考えなければなりません。

 実際には多くの要因がありますが、今朝は私たち自身にとって極(ごく)身近なものだけを二つ取り上げて、共に考えたいと思います。

 その一つは、絶えず俗っぽいものに関心を向け、それに没頭し、そこに自分を置いていることです。

 これは、世俗のことや物質的なことを全部遠ざけなくてはならないということではありません。食べること、飲むこと、着ること、住まい、仕事、商売、勉強、人との交流や交際、楽しいことなどに心を傾けるのは、極自然なことであり、それらは本来、神が私たちに下さった良いものです。

 けれども、人類の始祖アダムの堕落とそれに続く全人類の罪は、あらゆる物事に影響を与え、無意味で俗っぽいものに変えたりし、下手をすると私たちを真(まこと)の神と救い主イエス・キリストから遠ざけかねません。それらに絶えず没頭していますと、私たちの心はそれらに占領され、大切なことの入り込む余地がなくなります。従って、御言葉の真理を聞いても新の成長は妨げられ、小さく、薄く、初歩的なままになります。何と不幸なことでしょう。イエスは有名な種蒔きの譬えの中でこう言われました。マタイ13:22「茨の中に蒔かれたものとは、御言葉を聞くが、この世の思い煩いと富の誘惑が御言葉を塞ぐため、実を結ばない」と。

 信仰が成長できるためには、自分をよく見つめ、無意味なものをしっかり取り除き、整理をし、神のための、また主イエス・キリストのためのスペースを、自分の心と生活に確保していることが極めて大切です。

 私たちは実は日々、自分で自分を形作っています。ですから、無自覚に過ごしていますと、いつしか世俗のことだけで一日は終り、段々神のことや真(しん)に大切なことに対する耳と目を、自ら駄目にしてしまいます。イエスはマタイ13:14、15で警告されました。「こうしてイザヤの告げた預言が、彼らにおいて実現したのです。『あなた方は聞くには聞くが、決して悟ることはない。見るには見るが、決して知ることはない。この民の心は鈍くなり、目は閉じているからである』」と。世俗のことにあまりにも取り込まれることがないように、絶えず自分自身を見張っていたいと思います。

 信仰が成長しない第二の要因は、御言葉を行わないことです。

 信仰は聞くだけでは成長せず、行うことを通して成長します。弟子たちは、イエスの奇跡をいくつも見、教えも沢山聞き、イエスが神からの約束の救い主であられ、神の力を持つ救い主だという真理を示され、分かったはずです。しかし、それらを現実の事柄に適用し、生かしませんと、その時だけのことで終ってしまいます。9、10節でイエスが言われるのは、彼らがイエスの御力(みちから)を見たのに、それが新たな状況で適用されず生かされていないことです。イエスの五千人養いの力を知っているのに、どうしてパンがないなどと言って、互いにもめるのでしょうか。

 状況は違いますが、私たちも、例えば御言葉を聞き、しかし、それを自分に引き付け、具体的なことに適用しませんと、信仰はなかなか成長しません。

 私たちは祈りの大切さを聖書に教えられ、よく分っています。実際、ウェストミンスター小教理問答の問88が教えますように、祈りはとても素晴らしい恵みの手段です。

 しかしそうであるなら、朝起きた時、食事を頂く時、仕事や勉強を始める時、夜眠る前などに、実際に祈ることが重要です。そうすると、神とその愛、神のお約束、例えば、苦しい時、祈りを通して神が私たちに慰めや平安、希望、勇気、力を本当に与えて下さることなどが、実際に分ります。

 少し前のことですが、私もあることで大変困り、このままでは人に迷惑をかけてしまうことにもなるため、神に必死になって祈りました。実際、何度も祈りました。でも状況は変りませんでした。私は焦りました。しかしその時、ヨハネ福音書の14、15、16章で、主イエスが何度も「私の名によって祈るなら、父はかなえて下さる。私もかなえてあげる」という主旨のことを教えておられたことを思い出し、「イエス様、そうでした。あなたはこのようにお約束下さっています。私はそのお約束を今、心から信じます。ですから、天の父なる神様。主イエスのお約束の故に、どうか私の祈りをお聞き下さい」と必死になって主にすがりました。その数日後、神は思いがけない方法で、私の祈りをお聞き下さったのでした。私はますます神の素晴らしさが分り、神を思いっきり賛美し、ほめたたえたものでした。

 信仰を何とか守るといった消極的な姿勢ではなく、天に召される時まで私はもっともっと神の素晴らしさが分って、神を賛美できる者に成長させられたいという熱い思いで、御言葉を実際に自分に適用したいと思います。すると信仰は必ず成長させられ、それに伴ってとても大切な新しい気付きや悟りをも与えられ、感謝と喜びを一層体験させられることでしょう。

 箴言4:18は、神の御言葉を実際に自分に適用して生きる人を「正しい人」と呼び、こう述べています。「正しい人の進む道は、あけぼのの光のようだ。いよいよ輝きを増して真昼となる。」

 この祝福に、是非、皆で共に与りたいと思います。

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