2020年09月10日「ぶどうの木と枝 2 永遠の命」

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ぶどうの木と枝 2 永遠の命

日付
説教
田村英典 牧師
聖書
ヨハネによる福音書 5章5節

聖句のアイコン聖書の言葉

5節  私はぶどうの木、あなた方は枝です。人が私に留まり、私もその人に留まっているなら、その人は多くの実を結びます。私を離れては、あなた方は何もすることが出来ないのです。
     (2017年度版 新改訳聖書)ヨハネによる福音書 5章5節

原稿のアイコンメッセージ

 前回から、主イエスの語られた葡萄の木と枝の喩を学んでいます。イエスは喩の天才ですね。ユーモアに溢れた喩もあり、神の真理を効果的に教えるために、色々語っておられます。葡萄の木と枝もそうです。

 ご承知のように、ユダヤでは葡萄が大昔から栽培され、親しまれてきました。出来の悪い時は悲しいですが、たわわに稔った実を見る時、農夫はどんなに嬉しいでしょう。

 イエスはご自分と弟子たちの関係を葡萄の木と枝に喩えて言われます。5節「私は葡萄の木、あなた方は枝です。人が私に留まり、私もその人に留まっているなら、その人は多くの実を結びます。私を離れては、あなた方は何もすることが出来ないのです。」人がイエスに留まっているなら、必ず豊かに実を結ぶという約束です。

 私たちは真の神を信じますが、特に大切なのは御子イエスを救い主として心から信じ、依り頼む信仰であり、葡萄の枝が幹に堅く繋がっているような親密なあり方です。ヨハネ8:31と15:7で「私の言葉に留まるなら」とか「私の言葉があなた方の中に留まっているなら」とイエスが言われますように、私たちが特にイエスの言葉を愛し、知恵と聖さに満ちたその教えを喜び、従順であることにおいてイエスに留まっているなら、イエス御自身が実を結んで下さるのです。

 ところで、実とは何でしょうか。色々あります。しかし、今日は<永遠の命>という実に注目したいと思います。主はご自分に留まる者に、全ての祝福の最終形態である永遠の命という実を結ばせて下さいます。

 ヨハネ4:36に「永遠の命に至る実」という表現があります。これは直接には永遠の命に与(あずか)る信仰者を指します。実った葡萄の実が農夫に嬉しいように、イエス・キリストにより永遠の命に至る信仰者も、父なる神には最高に嬉しい実なのです。とにかく永遠の命を、イエスは信仰者に与えられます。イエスは言われます。ヨハネ10:28「私は彼らに永遠の命を与えます。彼らは永遠に、決して滅びることがなく、また、誰も彼らを私の手から奪い去りはしません。」

 ここで私たちは人間の罪深さを振り返りたいと思うのです。一体、人類の歴史に、国が国を暴力で支配し搾取しなかった時があるでしょうか。人間は個々のレベルでも、すぐ己を誇り、傲慢になる。それでいて極僅かなことで失望、落胆しては、人を恨み、社会を呪う。他人には厳しく、すぐ人を裁き、自分には鈍感で甘い。何かあれば神を疑い、呟き、知りもしないことを分ったように言う。これが私たち人間です。ですから、人間についてヘブル9:27は言います。「人間には、ただ一度死ぬことと死後に裁きを受けることが定まっている…。」私たちは死後、必ず神の法廷で裁きを受けます。またローマ6:23は言います。「罪の報酬は死です。」神は私たちの隠れた行い、口にした言葉、心で思った罪深いことも全てご存じです。私たちは、そのままですと、永遠の死、すなわち、神と隔絶した永遠の滅びに至ります。何という悲惨でしょうか。

 ところが、何と神はこんな私たちをなおも憐れみ、御自分の御子を救い主として賜ったのでした!全く罪のない御子は十字架で命を献げ、全世界を贖ってなお余りある絶大な救いを完成され、三日目に甦り、永遠に救い主でいて下さいます。このイエスを心から信じ、受け入れ、依り頼んでも、救われない人など一人もいません!イエスを信じ、イエスに留まる者に、イエス御自身が永遠の命という実を結ばせて下さるのです。何という神の愛でしょうか!

 では、永遠の命とは何でしょう。イエスは言われます。ヨハネ17:3「永遠の命とは、唯一の真の神であるあなたと、あなたが遣わされたイエス・キリストを知ることです。」こういう場合の「知る」とは、親しい交わりを指します。不信仰な罪人の私たちですのに、何とただイエス・キリストの故に、宇宙より偉大な真の神と、永遠に交わることを許されるのです。何という幸せ、また光栄でしょうか!

 私たちはいつか世を去ります。誰もそれは避けられません。しかし、私たちにはイエス・キリストがおられます。そのイエスは言われます。ヨハネ11:25「私は甦りです。命です。私を信じる者は死んでも生きる」と。このイエスを心から信じ、イエスに留まっているなら、いつ、どこで、どのように死んでも、その時こそ、永遠の命という最高の実を自分の内に結ばせて頂いていたことを、クリスチャンはありありと知らされるでしょう。ですから、如何に不条理や矛盾に苦しみ、辛いことだらけの人生であっても、決して空しくありません。 

 かつてヒトラーに抵抗したボンヘッファーが、1945年4月9日の早朝、処刑されるのですが、その前に「これで終りです。私にとっては命の始まりです」と述べたのも、当然と言えます。

 5節「私は葡萄の木、あなた方は枝です。人が私に留まり、私もその人に留まっているなら、その人は多くの実を結びます。」イエスにより永遠の命に確かに与り、また神の目に自分が「永遠の命に至る実」とされているこれ以上ない幸いに、改めて感謝したいと思います。

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