イエスの豊かな憐れみ
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- 説教
- 田村英典 牧師
- 聖書 マタイによる福音書 15章29節~39節
15:29 それから、イエスはそこを去ってガリラヤ湖のほとりに行かれた。そして山に登り、そこに座っておられた。
15:30 すると大勢の群衆が、脚の不自由な人たち、目の見えない人たち、手足の曲がった人たち、口のきけない人たち、そのほか多くの人をみもとに連れて来て、イエスの足もとに置いたので、イエスは彼らを癒された。
15:31 群衆は、口のきけない人たちがものを言い、手足の曲がった人たちが治り、足の不自由な人たちが歩き、目の見えない人たちが見えるようになるのを見て驚いた。そしてイスラエルの神をあがめた。
15:32 イエスは弟子たちを呼んで言われた。「かわいそうに、この群衆はすでに三日間わたしと共にいて、食べる物を持っていないのです。空腹のまま帰らせたくはありません。途中で動けなくなるといけないから。」
15:33 弟子たちは言った。「この人里離れたところで、こんなに大勢の人に十分食べさせるほどたくさんのパンを、どこで手に入れることができるでしょう。」
15:34 すると、イエスは彼らに言われた。「パンはいくつありますか。」彼らは言った。「七つです。それに、小さい魚が少しあります。」
15:35 そこで、イエスは群衆を地面に座るように命じられた。
15:36 そして七つのパンと魚を取り、感謝の祈りをささげてからそれを裂き、弟子たちにお与えになったので、弟子たちは群衆に配った。
15:37 人々はみな、食べて満腹した。そして余ったパン切れを集めると、七つのかごがいっぱいになった。
15:38 食べた者は、女と子どもを除いて男四千人であった。
15:39 それから、イエスは群衆を解散させて舟に乗り、マガダン地方に行かれた。マタイによる福音書 15章29節~39節
私たちの罪と永遠の滅びからの救い主イエス・キリストのどんな教えも御業(みわざ)も、私たちには大変興味深いですし、とても大切ですね。今朝は、マタイ福音書15:29~39を「イエスの豊かな憐れみ」という大きな観点から見てみたいと思います。
では、イエスのどういう豊かな憐れみがここに伝えられているでしょうか。
第一に、イスラエル人以外の異邦人にも豊かな憐みを与えられたことです。
前回学びました15:21~28で、イエスがガリラヤ湖から北西数十kmの所にあるツロなど地中海沿いの異邦人の町へ行かれた時のことを伝えたマタイは、その続きを伝えます。29節「それから、イエスはそこを去ってガリラヤ湖のほとりに行かれた。そして山に登り、そこに座っておられた。」並行箇所のマルコ福音書7:31は、イエスがツロから更に北のシドンへ行かれ、次に東へ移られ、更に南へ下られ、ガリラヤ湖南東のデカポリス地方へと大きく移動され、その近くのガリラヤ湖へ来られたことを伝えています。デカポリスには異邦人が大勢住んでいました。ですから、29節以降が伝えていることは、異邦人に与えられたイエスの恵みと言えます。
ご承知のように、神の救いの恵みは、旧約時代に神が選ばれましたアブラハムの子孫であるイスラエル民族にまず与えられ、彼らは神の契約の民とされました。しかし、やがて神の救いの恵みは全世界の異邦人にも広げられます。それが本格的に始まるのは、イエスの死と復活と昇天の後、聖霊が弟子たちに強く臨まれたペンテコステ以降ですが、イエスはもう今のこの時点で異邦人の地域へ行かれ、彼らにも神による救いの恵みの時が近づいていることを示されたのでした。ここにイエスの豊かな憐みがよく現れていると思います。
イエスの豊かな憐みは、第二に、30、31節から分りますように、イエスが彼ら異邦人の特に苦しみや痛みを完全に癒されたことによく現れています。
30節は「足の不自由な人たち、目の見えない人たち、手足の曲がった人たち、口のきけない人たち、そのほか多くの人」と、結構詳しく彼らの辛い状態を伝え、イエスがそれらを癒されたことを伝えます。
ところが、マタイは31節でも、彼らの苦しみ、痛みなどの辛い状態を殆ど同じように一々繰り返して伝えています。何故ここまで詳しく、同じようにもう一度伝えるのでしょうか。それは苦しみや痛みの程度や種類が多岐に亘っていても、イエスがそれらを全部引き受け、完全に癒やされたことを、この時、そこに一緒にいた弟子のマタイは是非伝えたかったのだと思います。
イエスの余りにも完全な癒しの力を目の前で見て、31節、群衆は「…驚いた。そしてイスラエルの神を崇め」ました。わざわざ「イスラエルの神を」とあるのは、癒された人たちも群衆もイスラエル人ではなく、異邦人だったからです。
とにかく、罪の赦しと素晴らしい永遠の命を中心とする神の御子イエスの豊かな憐みは、創り主なる真(まこと)の神を知らず、そのままだと永遠に滅ぶほかありませんでした全世界の異邦人にも、もうすぐ分け隔てなく大きく開かれ、与えられることを、イエスは示されたのでした。
第三に、イエスの豊かな憐みは、32節以降が伝えます四千人養いとか四千人給食と呼ばれる奇跡の御業にもよく表われています。
イエスは弟子たち呼んで、32節「かわいそうに、この群衆は既に三日間も私と共にいて、食べる物を持っていないのです」と言われました。「かわいそうに」と訳されているギリシア語は、前に五千人養いが行われた時、イエスが群衆を14:14「深く憐れんで」とあったのと同じギリシア語であり、内臓が揺さぶられるという位の深い憐みの気持、憐みの情を表わします。神の御子イエスは、本当にそれぐらい憐み深いお方なのです!
それだけではありません。五千人養いの奇跡がなされた時には、弟子たちが群衆のことを心配してイエスに話しかけ、イエスの素晴らしい恵みの奇跡が行なわれました。しかし今回は、32節から分りますように、群衆を案じてイエスご自身の方からわざわざ弟子たちをお呼びになり、言われました。
ところが、弟子たちは五千人養いの素晴らしいイエスの恵みと力を体験していたにも関らず、33節の彼らの返事はどうも素っ気ないですね。どうしてでしょうか。今回は群衆が異邦人だったからでしょうね。
しかし今やイエスは、相手がイスラエル人であろうと異邦人であろうと分け隔てなく、憐みに満ちた御業をなさいました。イエスは、国籍や血筋、社会的地位や立場なども関係なく、愛の御業をされる憐れみ豊かな方なのです。
他にもあります。37節は伝えます。「人々は皆、食べて満腹した。そして余ったパン切れを集めると、七つのかごがいっぱいになった。」前回の五千人養いでは、余ったパン切れを集めますと、14:20「12のかごがいっぱいにな」りました。従って、今回の方が、余りが少ないと思われますが、実は14:20のかごと今回の15:37のかごは、元のギリシア語では違っています。14:20のかごは普通サイズのかごですが、15:37の方は、使徒の働き9:25が伝えていますように、のちにユダヤ人に命を狙われたパウロが乗ってダマスコの城壁からつり降ろされて逃げた時のかごと同じギリシア語が使われ、とても大きなものでした。イエスがどんなに惜しみなく恵みを下さり、驚くほど憐れみ豊かな方であることをマタイは伝えたくて、一個一個の単語にも注意を払ったのだと思います。
いいえ、今回の四千人養いの恵みの奇跡に関連して、実はもう一つ、イエスの豊かな憐れみが表されていると思います。何でしょうか。それは弟子たちへの憐れみです。では、それはどんな憐れみでしょうか。
先程申しましたように、この時、弟子たちは、群衆が異邦人でしたので、やや冷たいものでした。今日の箇所の直前の21~28節が伝えていましたが、異邦人であったカナン人の女性の信仰をイエスがおほめになり、彼女の願いを聞いて上げられたにも関らず、弟子たちにはまだイエスの分け隔てない救いの愛の大きさがよく分っていなかったのです。
もう一つ問題があります。五千人養いの驚くべき主イエスの恵みの奇跡を体験していたにも関らず、弟子たちは33節「この人里離れた所で、こんなに大勢の人に十分食べさせるほど、沢山のパンを、どこで手に入れることができるでしょうか」と言い、イエスの偉大な力もまだよく分っていませんでした。
ですから、32節が伝えますように、今回、イエスはご自分の方から弟子たちに呼びかけ、全ての人に対する分け隔てのない愛と憐みの大きさと、神の御子としてのご自分の力を、敢えて表わされたのでした。
実は、弟子たちの理解力の鈍さを指摘されたイエスの言葉を、マルコ福音書が伝えています。7:18「あなた方まで、そんなにも物分りが悪いのですか。分らないのですか。」8:17「まだ分らないのですか。悟らないのですか。心を頑なに(或いは、鈍くして)いるのですか。」
私たちは、神の真理の御言葉や教理を一度教えられ、神の素晴らしい御業を一度味わえば、すぐ分って身に付くかといいますと、そうではありません。神とその真理、その御業について、私たちは鈍くて、なかなか理解できず、身に付きません。ですから、昔から、「繰り返しは、最大の教育方法である」と言われて来たのでした。
これは、イエスの弟子たちも同じでした。けれども、イエスはただ彼らの鈍さを嘆かれ、指摘されただけではありません。ご自分から問いと課題を投げかけ、彼らに同じようなことを追体験させ、忍耐強く彼らの信仰の成長を促されるのでした。彼らも生ける真(まこと)の神をますますよく知り、またイエス・キリストの福音の前進と多くの人たちが救われるために用いられ、最高の幸せに与れるためです。何というイエスの憐れみでしょうか。
今朝、私たちはイエスの豊かな憐れみを様々な観点から学びました。イエスのこの豊かな憐れみに心から感謝し、私たちもまたすぐ批判し合ったり裁き合うのではなく、むしろ互いに忍耐強く支え合い、教え合い、慰め合って、主イエスの豊かな救いの恵みをご一緒に分かち合い、体験し合って、是非、成長を許されたいと思います。