2025年03月30日「イエスにほめられた信仰」
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イエスにほめられた信仰
- 日付
- 説教
- 田村英典 牧師
- 聖書
マタイによる福音書 15章21節~28節
聖書の言葉
15:21 イエスはそこを去ってツロとシドンの地方に退かれた。
15:22 すると見よ、その地方のカナン人の女が出て来て、「主よ、ダビデの子よ。私を憐れんで下さい。娘が悪霊につかれて、ひどく苦しんでいます」と言って叫び続けた。
15:23 しかし、イエスは彼女に一言もお答えにならなかった。弟子たちはみもとに来て、イエスに願った。「あの女を去らせて下さい。後について来て叫んでいます。」
15:24 イエスは答えられた。「私は、イスラエルの家の失われた羊たち以外のところには、遣わされていません。」
15:25 しかし彼女は来て、イエスの前にひれ伏して言った。「主よ、私をお助け下さい。」
15:26 すると、イエスは答えられた。「子どもたちのパンを取り上げた、小犬に投げてやるのは良くないことです。」
15:27 しかし、彼女は言った。「主よ、そのとおりです。ただ、小犬でも主人の食卓から落ちるパン屑はいただきます。」
15:28 その時、イエスは彼女に答えられた。「女の方、あなたの信仰は立派です。あなたが願うとおりになるように。」彼女の娘は、すぐに癒された。マタイによる福音書 15章21節~28節
メッセージ
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今朝は、先程の聖書箇所から「イエスにほめられた信仰」について学びたいと思います。
まず、この時の状況を見ておきます。既に見て来ましたように、当時のユダヤ教指導者のパリサイ人たちはイエスに敵意を抱き、都のエルサレムからもイエスを倒し潰すために仲間が派遣されて来ました(15:1)。イエスは15:7「偽善者たちよ」と言って彼らの問題を指摘され、険しい空気になっていました。
そこでイエスは21節「そこ(=ガリラヤ)を去ってツロとシドンの地方に退かれ」ました。ツロとシドンは、ガリラヤ湖から北西に何十kmも離れた地中海沿いの異邦人の町でした。ガリラヤでは、パリサイ人たちとの軋轢(あつれき)があり、群衆も絶えずイエスを追いかけて来ましたので、イエスは弟子たちと少し休むために異邦人の地域へ行かれたのでした。
ところが、22節「その地方のカナン人の女が出て来て」イエスに助けを願います。並行箇所のマルコ福音書7:24は、イエスが「家に入って誰にも知られたくないと思っておられたが、隠れていることはできなかった」と伝えています。神の御子イエスは、私たち罪人を救うために人間となられ、私たちと全く同じ人間の性質をまとっておられました。ですから、朝から晩まで連日働き通しで、どんなにお疲れだったことでしょう。
ところが、今回の出来事が起こります。かつて神に選ばれ神の民とされたイスラエル人ではなく、カナン人、つまり異邦人であったこの女性は、悪霊につかれた自分の娘の救いをイエスに求め、暫くのやり取りの後、幸いなことに娘は癒されました。
今朝、学びたいのは、28節「あなたの信仰は立派です。あなたの願う通りになるように」とイエスにほめられた彼女の信仰がどういうものかです。どういうものだったでしょうか。
第一に、それは大変粘り強く、忍耐強い信仰でした。彼女はイエスに22節「叫び続け」ました。イエスは23節「彼女に一言もお答えにならなかった。」すると弟子たちは23節「あの女を去らせて下さい。後について来て叫んでいます」と言いました。「叫んでいる」は、元のギリシア語のニュアンスでは「叫び続けている」です。イエスは、彼女の信仰を試すために敢えてお答えにならなかったのですが、彼女は尚もイエスに願い続けたのでした。
そこで次にイエスは24節「私は、イスラエルの家の失われた羊たち以外の所には、遣わされてはいません」と言われました。神の御子イエス・キリストへのただ信仰による罪と永遠の滅びからの救いは、無論、全人類に向けられた神の恵みです。ただそれには時間的、歴史的順序があり、まず旧約時代に神の民とされたイスラエル人にイエスはお働きになり、異邦人はその次になるということです。しかし、それを聞いても彼女は25節「主よ、私をお助け下さい」と言い、諦めませんでした。
そこでイエスは更に26節「子供たちのパンを取り上げて、小犬に投げてやるのは良くないことです」と言われました。「子供たち」はイスラエル人を指し、「パン」は救いの恵みを、「小犬」はここでは異邦人を指します。さすがの彼女ももうこれで諦めたかといいますと、何と彼女は27節「主よ、その通りです。ただ、小犬でも主人の食卓からパン屑は頂きます」と言いました。見事な信仰です。これ以上、説明は不要でしょう。
ついにイエスは彼女に28節「あなたの信仰は立派です」とおほめになり、彼女の願いは聞かれました。やんわりとイエスに三度断られても諦めません!何と忍耐強い信仰でしょうか!これがイエスにほめられる信仰の第一の特徴です。
翻って私たちはどうでしょうか。大切なことを神に祈り求めますが、答らしきものがありませんと、私たちは気落ちします。それでも、再度信仰を奮い起し、一層真剣に神に祈る。しかし、やはり答がありません。すると私たちは「これは主の御心ではないのかも知れない」と考え、早々と諦めることはないでしょうか。
確かに、私たちが仲保者イエス・キリストを通して父なる神に祈っても、御心でない場合があります。しかし、御心でないかどうかは、すぐ分るものではありません。それ以上に、むしろ私たち自身が気が短くて、すぐしびれを切らし、諦めてしまいやすいと思います。
この女性は異邦人であり、真(まこと)の神と救い主についての知識は限られていました。しかし、その僅かな知識を土台にして彼女はイエスに食らいつきました。ここに私たちは、イエスにほめられ、願いを聞かれる信仰がどんなものかを教えられます。ルカ福音書18:1に「いつでも祈るべきで、失望してはいけないことを教えるために、イエスは弟子たちに譬えを教えられた」とあります。そのあとに続く譬えも是非、参考にして、私たちは本当に忍耐強く、粘り強く、神に祈り求める者でありたいと思います。
第二点に進みます。何でしょうか。私たち罪人に対する神の、また主イエス・キリストの救いの恵みと憐みの豊かさを知る故の信頼が強いこと、大きいことです。
彼女は三度イエスに断られても諦めず、忍耐強く、しぶとく願い続けました。何故そのようにできたのでしょう。真の神ご自身、また神の御許(みもと)から来られた御子イエスの救いの恵みと憐みの豊かさを信じ、本当に信頼したからです。その大きな信頼がなければ、ここまでできなかったでしょう。
これは私たちにとっても大変重要なことです。クリスチャンは、万物を創られた真の神を、また特にイエス・キリストを通して現された神の豊かな愛を知り、信じています。しかし、その認識とそれ故の神への信頼はどの程度でしょうか。神の豊かな愛、その恵みと憐みが本当に分って信頼していませんと、諦めずに食らいつくように神に祈り願い続けることはできません。初めは熱心でも、段々諦めモード、諦めムードの自分になって行きます。
従って、私たちも今現在の自分の神知識と神信頼の程度で良しとせず、神をとことん信頼する更に大きな信仰に、是非、成長させられたいと思います。イエスが女性に言われた28節「あなたの信仰は立派です」の「立派」は、「大きい」というのが元の意味です。
三つ目の点を学んで終ります。何でしょうか。謙虚さです。
彼女は決して諦めず、粘り強くイエスに求めました。しかし決して傲慢な気持からではありませんでした。彼女は22節「私を憐れんで下さい」と謙虚にお願いし、娘の癒しは、あくまでも主イエスの憐みによることが分っていました。
24節が伝えますように、イエスに二度目に断られても、彼女は決して苛立って怒ったり暴言を吐いたりせず、イエスの前に平伏し、「主よ、私をお助け下さい」と頼むのでした(25節)。「平伏す」と訳されているギリシア語は「礼拝する」とも訳せます。それ位、謙虚でした。
三度目にイエスにやんわり断られても(26節)、彼女の言葉は実に謙虚なものでした(27節)。
ところで、彼女は非常に忍耐強く、その忍耐強さは、主イエスの愛、特に恵みと憐みをよく知る故の信頼が根底にあったからであることを、先程、確認しました。実はこれは彼女の謙虚さと大いに関係があります。
旧約聖書でご自分を自己紹介しておられる真(まこと)の神のことも、その神の遣わされた救い主キリストのこともあまり知らなかった彼女は、いわばまだ求道者でした。その彼女に、どうしてイエスにほめられるほどの神への大きな信頼という信仰があったのでしょうか。それは、彼女の姿勢と言葉遣いから分りますように、謙虚さから来ていました。自分が本当は神に何も求める資格のない罪人だという自覚が根底にあって、謙虚だったのでした。
私がかつてある病院でチャプレン(病院牧師)をしていた時のことを思い出します。ある患者さんが私を病室に呼び、いきなり「自分にすぐ洗礼を授けてほしい」と願いました。私は洗礼を受けるために必要なことをホンの少し彼に話しました。ところが彼は「そんなことはどうでもいいから、早く洗礼を授けてくれればいい」と高飛車に迫りました。その強引さに驚き、私はご家族の方を見ました。ご家族も下を向いて困った顔をしておられました。体の辛さから来る苛々もあったと思いますが、ご家族の様子から見て、恐らく彼は普段から自分の思い通りにならないとすぐ苛々し、怒り散らす傲慢な人だったのでしょう。そののち、彼から私は呼ばれることはなく、とても残念でした。
傲慢さは私たちを、大切な神知識からも神による大切な救いと恵みからも遠ざけ、滅ぼします。一方、謙虚さは、僅かな知識からも神をよく理解でき、知ることができ、そうしてより強く大きく神を信頼できる者に致します。
私たちは、決して高慢な気持で神に、また主イエス・キリストに願ってはなりません。カナン人のこの女性は少々のことでは引き下がらない忍耐強くて粘り強い人でしたが、決して傲慢ではなく、むしろ自分が本来、神またイエス・キリストに何かを求める資格のない罪人であることをよく弁え(わきまえ)、謙虚でした。何と大切なことでしょうか。主の祈りの第四の祈願(文語訳では「我らの日用の糧を、きょうも与えたまえ」)を扱いました先週の木曜日、3月27日の聖書研究祈祷会の奨励が丁度この点を扱っていますので、当教会のホームページで読んで頂ければと思います。
私たちは今朝、主イエスにほめられ、願いを聞かれたカナン人の一人の女性の信仰から学びました。今日から始まる新しい一週間も、大切なことを神に、彼女のように、第一に忍耐強く祈り願い、第二に御子を賜ったほどに私たちを愛して下さっている天の父なる神に本当に大きく信頼し、第三に真に謙虚な信仰によって、願い求めたいと思います。