2025年03月16日「何が人を汚すのか」

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聖句のアイコン聖書の言葉

15: 1 そのころ、パリサイ人たちや律法学者たちが、エルサレムからイエスのところに来て言った。
15: 2 「なぜ、あなたの弟子たちは長老たちの言い伝えを破るのですか。パンを食べる時、手を洗っていません。」
15: 3 そこでイエスは彼らに答えられた。「なぜ、あなた方も、自分たちの言い伝えのために神の戒めを破るのですか。
15: 4 神は「父と母を敬え」、また「父や母をののしる者は、必ず殺されなければならない」と言われました。
15: 5 それなのに、あなた方は言っています。「だれでも父または母に向かって、私からあなたに差し上げるはずの物は神へのささげ物になります、と言う人は、
15: 6 その物をもって父を敬ってはならない」と。こうしてあなた方は、自分たちの言い伝えのために神の言葉を無にしてしまいました。
15: 7 偽善者たちよ、イザヤはあなた方について見事に預言しています。
15: 8  「この民は口先で私を敬うが、その心は私から離れている。
15: 9   彼らが私を礼拝しても、むなしい。人間の命令を、教えとして教えるのだから。」
15:10 イエスは群衆を呼び寄せて言われた。「聞いて悟りなさい。
15:11 口に入る物は人を汚しません。口から出るもの、それが人を汚すのです。
15:12 その時、弟子たちが近寄って来てイエスに言った。「パリサイ人たちがお言葉を聞いて腹を立てたのをご存じですか。」
15:13 イエスは答えられた。「私の天の父が植えなかった木は、すべて根こそぎにされます。
15:14 彼らのことは放っておきなさい。彼らは盲人を案内する盲人です。もし盲人が盲人を案内すれば、二人とも穴に落ちます。」
15:15 そこでペテロがイエスに答えた。「私たちにそのたとえを説明して下さい。」
15:16 イエスは言われた。「あなた方も、まだ分らないのですか。
15:17 口に入る物はみな、腹に入り、排泄されて外に出されることが分からないのですか。
15:18 しかし、口から出るものは心から出ます。それが人を汚すのです。
15:19 悪い考え、殺人、姦淫、淫らな行い、盗み、偽証、ののしりは、心から出て来るからです。
15:20 これらのものが人を汚します。しかし、洗わない手で食べることは人を汚しません。」マタイによる福音書 15章1節~20節

原稿のアイコンメッセージ

 15:1節にありますように、紀元1世紀のユダヤ教指導者のパリサイ人たちや律法学者たちとイエスとの議論に始まります今朝の聖書箇所はかなり長く、色々なことが言われています。しかし結局は、人を汚すものは何かという点に尽きるでしょう。「それが人を汚す」と、イエスが11節でも18節でも20節でも繰返し語っておられるからです。

 この時の状況を見ておきます。神の御心を御言葉(みことば)と御業(みわざ)を通して現して来られた主イエスに、パリサイ人たちは安息日の過し方を巡って反発し、12:14にありましたようにイエスを殺そうと思うまでになっていました。そこで15:1、ついに都のエルサレムからパリサイ人や律法学者たちがやって来ました。イエスを打ち負かし、排除するためです。

 彼らが選んだ論点は汚れについてでした。旧約聖書のレビ記11章などから分りますように、宗教的な意味で神は、ユダヤ人たちにきよい物と汚れた物を区別し、特に汚れた物に触れることを強く禁じておられました。

 しかし、時代が下るにつれ、ユダヤの指導者たちは神の戒めに自分たちの解釈を色々付け加え、それが言い伝えられて、元の神の戒め以上に細かいことにまで及んでいました。食前に手を洗うその洗い方一つにしましても、水の量や水の注ぎ方など実に些細なことまで定められていました。2節で彼らが「なぜ、あなたの弟子たちは長老たちの言い伝えを破るのですか。パンを食べる時、手を洗っていません」とイエスに問うたのも、彼らの言い伝えに基づくものにほかなりませんでした。

 このことだけでも本当は問題でしたが、更に問題なのは、3節でイエスが言われますように、自分たちの言い伝えのために神の戒めを破っていたことです。そこでイエスは4~6節で具体的に彼らの矛盾点を突かれます。

 4節「父と母を敬え」は出エジプト記20:12、つまり、神が下さった十戒の第五戒であり、「父や母をののしる者は、必ず殺されなければならない」は出エジプト記21:17の戒めです。親をののしることは親へのひどい冒瀆であり、心の中でいわば親を抹殺することです。そして、人間に親という大切な存在を与えられた神を冒瀆することでもありますので、厳しく禁じられました。

 ところが、パリサイ人たちは、5、6節でイエスが言われますように、要するに、父や母に向って「あなたに差し上げるべき物は神への献げ物にする」言う人は、「父や母を敬わなくても良い」としていたのでした。「献げ物」とある所は、並行箇所のマルコ福音書7:11では「コルバン」というヘブル語になっています。恐らくこのヘブル語「コルバン」がよく使われたのでしょうね。自分の親を嫌い、馬鹿にし、そこでどんな物であれ「これはコルバンです。神への献げ物です」と如何にも信心深そうに言えば、親に渡さなくて良いことになっていたのでした。

 「父と母を敬い、大切にしなさい」というのが、人間社会の秩序と礼節を重んじることの大切さをお教えになる神の御心(みこころ)であり戒めです。ところが彼らは、自分に都合良く言い伝えを利用し、神の戒めをすり抜けていたのでした。ですから、イエスは7節「偽善者たちよ」と言われ、8、9節で旧約聖書のイザヤ書29:13を引用し、イエスの弟子たちを咎めたパリサイ人たちの偽善性を鋭く糾弾されたのでした。

 パリサイ人たちには、彼ら自身余り自覚していなかったかも知れません<偽善性>と共に、他にも大きな問題がありました。彼らが非常に熱心であった汚れを避けることに見られる問題です。二つあります。何でしょう。

 第一に、彼らの意識は、自分が汚れないようにという点に殆ど向けられ、自分が他人を汚すことについては殆ど意識が向いていないという自己中心な点です。

 先程申しましたレビ記11章などから分りますように、宗教的な意味でですが、神はユダヤ人にきよい物と汚れた物を区別することと、汚れた物に触れることを強く禁じておられました。従って、自分が汚れないようにすることは当然大切です。しかし、実際にはこの点でも彼らには自己中心的なところがありました。4~6節でイエスが指摘されましたように、彼らは自分の父母に対してでさえ、昔からの言い伝えを利用し、自分が信仰的にも良心的にも苦しまないようにうまく回避する手立てを取ったのです。ここに働いている原理は<自分にとっての得策>であり、<自己中心性>でした。

 しかし、いくら他人と自分をごまかしても、神をごまかすことは決してできません。神は彼らの心を、言い換えれば、彼らの本当の姿を漏らさずご存じです。8、9節でイエスが引用されたイザヤ書29:13の神の言葉が、この点を見事に鋭く突いていますね。ですから、新約聖書のヘブル人への手紙4:12、13もこう言います。「神の言葉は生きていて、力があり、両刃(もろは)の剣よりも鋭く、魂と霊、関節と骨髄を分けるまでに刺し貫き、心の思いやはかりごとを見分けることができます。神の御前(みまえ)にあらわでない被造物はありません。神の目には全てが裸であり、さらけ出されています。この神に対して、私たちは申し開きをするのです。」

 これは他人事(ひとごと)ではありません。私たちも全く同じです。ですから、神の御言葉・聖書によって、私たちは自分の心を自分で鋭く分析し、自己中心な所や偽善に気付くならば、直ちに平伏し、主イエスの十字架を見上げ、罪の赦しと清めを心から求めたいと思います。その時、主は深い憐みをもって私たちを必ずお赦し下さいます。

 問題の二つ目に進みます。それは、何が人を本当に汚すのかという点です。

 パリサイ人たちは<外から自分が汚されること>に神経質でした。しかし、人間の全ての問題とその本質をご存じの神の御子イエスは、問題が人間の内面に、すなわち、人格の座である心にあることをハッキリ指摘なさいます。11節「口に入る物は人を汚しません。口から出るもの、それが人を汚すのです。」

 12節によりますと、彼らはイエスの言葉を聞いて「腹を立て」ました。「腹を立て」と訳されています元のギリシア語は「躓く」という意味の言葉です。すなわち、救い主イエス・キリストを拒否し、自分で自分を滅ぼすことになるということです。

 彼ら自身の頑なさが招いたこの点について、イエスはその悲惨な結末を比喩を使って語られます。13、14節「私の天の父が植えなかった木は、全て根こそぎにされます。彼らのことは放っておきなさい。彼らは盲人を案内する盲人です。もし盲人が盲人を案内すれば、二人とも穴に落ちます。」細かい説明は省きます。

 話を戻します。人間の全ての問題をご存じの神の御子イエスは、問題の源が人格の座、すなわち、<心>にあることを指摘されます。11節「口に入る物は人を汚しません。口から出るもの、それが人を汚すのです。」18節「口から出るものは心から出ます。それが人を汚すのです。」19、20節「…心から出て来るからです。これらのものが人を汚します。」

 聖書全体と主イエスが何より問われるのは、身体的・物質的汚れ以上に、何が私たち人間の<心>を汚すかです。何でしょう。心から出て来る人間の特に<言葉>です。言葉が他の人の人格と信仰を汚し、それだけでなく、先程12節で「躓く」という言葉を説明した時にも言いましたが、その人自身をも汚し、駄目にするのです。

 4節以降で「父と母を敬え」という十戒の第五戒を取り上げられたイエスは、19節「悪い考え、殺人」という言葉で第六戒に触れ、続いて「姦淫、淫らな行い」で第七戒、「盗み」で第八戒、「偽証、ののしり」で第九戒を取り上げ、要するに、対人的な罪の全体を取り上げられます。つまり、私たち人間の罪深い心から出て口にする言葉が、他者と私たち自身をどんなに全体的に汚し、駄目にし、滅ぼすものであるかということです。このことを、よく心に留めたいと思います。ですから詩篇141:3で、神を真に畏れる信仰者は、かつて真剣にこう祈りました。「主よ、私の口に見張りを置き、私の唇の戸を守って下さい。」

 言葉には力があり、人格に必ず影響を与えます。従って、私たちは何より自分の言葉によく注意し、よく見張り、警戒し、よく制御し、神に喜ばれる良いことにこそ用いたいと思います。新約聖書のエペソ4:29は教えます。「悪い言葉を、一切口から出してはいけません。むしろ、必要な時に、人の成長に役立つ言葉を語り、聞く人に恵みを与えなさい。」

 神の御言葉を頂き、御声を聞いた今日・この時から、直ちに私たちは、自分の言葉の源である心に神のご支配を真剣に求め、主イエス・キリストが私たちの体と心と魂の内に住まわれ、御霊により私たちの心と言葉をますますきよめて下さいますように、心から祈りたいと思います。

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