2025年03月09日「逆風の中で」

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聖句のアイコン聖書の言葉

14:22 それからすぐに、イエスは弟子たちを舟に乗り込ませ、自分より先に向こう岸に向かわせ、その間に群衆を解散させられた。
14:23 群衆を解散させてから、イエスは祈るために一人で山に登られた。夕方になっても一人でそこにおられた。
14:24 舟はすでに陸から何スタディオンも離れていて、向かい風だったので波に悩まされていた。
14:25 夜明けが近づいたころ、イエスは湖の上を歩いて弟子たちのところに来られた。
14:26 イエスが湖の上を歩いておられるのを見た弟子たちは「あれは幽霊だ」と言っておびえ、恐ろしさのあまり叫んだ。
14:27 イエスはすぐに彼らに話しかけ、「しっかりしなさい。私だ。恐れることはない」と言われた。
14:28 するとペテロが答えて、「主よ。あなたでしたら、私に命じて、水の上を歩いてあなたのところに行かせてください」と言った。
14:29 イエスは「来なさい」と言われた。そこでペテロは舟から出て、水の上を歩いてイエスの方に行った。
14:30 ところが逆風を見て怖くなり、沈みかけたので、「主よ、助けて下さい」と叫んだ。
14:31 イエスはすぐに手を伸ばし、彼をつかんで言われた。「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか。」
14:32 そして二人が舟に乗り込むと、風はやんだ。
14:33 舟の中にいた弟子たちは「まことに、あなたは神の子です」と言って、イエスを礼拝した。マタイによる福音書 14章22節~33節

原稿のアイコンメッセージ

 今朝の聖書箇所は、主イエスが全知全能の神の御子であることを示す所の一つですが、今日はペテロが失敗したことから大切なことを学びたいと思います。

 ペテロは勇敢に行動し始めました。しかし、そのすぐ後、惨めな姿を露呈しました。最初は信仰に満ちていましたが、すぐ悲鳴を上げ、イエスに助けを叫び求めました。ガリラヤ湖は時々突風で荒れるそうですが、状況を正確に見ておきたいと思います。

 同じようなことが8:23以降にも伝えられ、そこでは弟子たちは最初からイエスと共に舟に乗り、途中から嵐になり、彼らは恐れました。今回、イエスはおられず、逆風の中、イエスが現れられ、ペテロは舟から足を踏み出しました。その後、風も水面も何も変化していません。ただペテロに途中から変化が起り、惨めな姿になりました。問題は専らペテロにあります。

 ここに大切な教訓があると思います。一つは、私たちの気質の問題です。

 私たちは回心してクリスチャンになっても特定の気質を持ち続けるため、弱さや陥りやすい誘惑があります。他の人には殆ど問題とならないのですが、私たち自身、特定の問題に悩まされるということがあります。例えば、感情が豊かなのは素晴らしいことですが、一方で私たちは自分の感情をよく支配する必要があります。すぐ気持が沈みやすい人も注意する必要があります。人には夫々特有の弱さがあり、多くの場合、それは生れつきの気質から来ています。

 特に注意したいことは、人は自分の長所によって失敗しやすいことです。ペテロの特徴は非常に活動的であることです。決断が素早いですね。これは良い点です。けれども、これが原因でペテロはしばしば失敗しました。

 こういう特徴を持つ人は、信仰生活がどうしても不安定でバランスを失いがちです。ペテロは嵐の中でイエスを認めますと、28節「主よ。あなたでしたら、私に命じて、水の上を歩いてあなたの所に行かせて下さい」と言い、実際に舟の外に足を踏み出しました。何と大胆で勇敢でしょうか。ところが、その僅か後には悲鳴を上げました。これがペテロです。

 イエスの十字架の時も、彼は、自分は絶対に躓かないと言いました。でも、すぐ後には「そんな人は知らない」と誓って、イエスを強く否定しました。これがペテロ的気質です。自信に溢れていたかと思えば、すぐ絶望のどん底に陥る。熱心で何でもやってくれそうな時もあれば、ドーンと落ち込んで回りの人が近づけないような雰囲気の時がある。原因は何でしょう。気質です。よく考えずに行動し、信仰が十分な思考に基づいていないため、信仰生活において極端に走りやすいのです。人のことではなく、夫々自分の気質をよく弁えて(わきまえて)おきたいと思います。

 第二は懐疑心(かいぎしん)の問題です。

 1節「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」と、イエスはペテロの疑いを問われました。ペテロは波と風を見て怖くなりました。起る必要のなかった問題に自ら飛び込んだためです。人は、しなくて良いことや避けるべきことに手を出し、疑いと不信仰を自分で自分に招くことがあります。私たちも、同じ失敗をしないように十分注意したいと思います。

 但し、疑いは必ずしも信仰と相容れないのではありません。一旦、クリスチャンになれば、疑いは起らないというのではありません。ペテロは信仰を持ち続けていました。イエスはペテロに「信仰のない者よ」ではなく、「信仰の薄い者よ」と言われました。つまり、信仰があっても懐疑心に悩まされることがあり、疑いを持ちながらも信仰を保ち続けているのです。

 しかし、それは弱くて薄い信仰であることを知っておく必要があります。懐疑心に振り回されてしまうならば、それは明らかに信仰の弱さを示しています。ペテロがそうですね。信仰がなくなったのではありませんが、信仰が弱いために不信仰が強くなり、振り回されました。ペテロはこの時、不信仰に負けていました。疑いと不信仰に振り回され、信仰が弱くなっていました。これは放っていてはなりません。

 では、どうすればこれを克服できるでしょうか。強い信仰によってでしかありません。しかし、どうすれば強い信仰を持ち続けることができるのでしょうか。

 第一は、イエス・キリストとその力について十分に知り、しっかり認識することです。

 ペテロは勇敢に行動を開始しました。真実な信仰があったからです。弟子たちは逆風で困難に陥っていました。そこへイエスが突然現れられ、皆は「あれは幽霊だ」と言って怯え(おびえ)、恐怖で叫びました。

 しかし、イエスが27節「しっかりしなさい。私だ。恐れることはない」と言われますと、すぐペテロは28節「主よ。あなたでしたら、私に命じて、水の上を歩いてあなたの所に行かせて下さい」と言いました。彼は主イエスを信頼し、その御力(みちから)とご人格を知り、本当に信じていました。単に頭で知っていただけではなく、実際に舟から出て、水の上を歩き、イエスの方へ行ったのでした。

 ここに重要な点があります。キリスト教信仰とは、単に一般論として神を信じているということではなく、イエス・キリストを知ることに始まり、キリストを知ることに尽きます。信仰の始まりは、キリストを知り、キリストを理解することです。信仰とはキリストが中心であり、キリストに関することを信じ、キリストを知ることです。20世紀最大の説教者の一人、マーティン・ロイドジョンズは「信仰の抑鬱(よくうつ)状態にある人の殆どの原因は、知る必要のあることを知っていないことにある」と言いました。その通りです。大切な教理を十分に知らず、正しく理解していないために、信仰は弱く、疑いに心を支配されるのです。

 これを克服するためには、聖書の教えを十分に知る必要があります。悩み、不安、心配が襲って来たら、その時こそ、聖書の教えを学ぶ絶好の機会です。安易な幸福感を求めるのではなく、真理を知ることが大切です。イエスは言われました。ヨハネ8:31、32「あなた方は、私の言葉に留まるなら、本当に私の弟子です。あなた方は真理を知り、真理はあなた方を自由にします。」

 第二は、懐疑心をもって問題を蒸し返してはならないことです。

 ペテロは折角良いスタートを切りましたのに、失敗しました。彼は風に目を奪われてはなりませんでした。舟から足を踏み出す前に危険性は分っていました。その上で、「主よ。あなたでしたら、私に命じて、水の上を歩いてあなたの所に行かせて下さい」と言いました。強風を分った上で舟から外へ足を出し、水の上を歩きました。風や波に変化はなく、新しいことは一つもありません。ところが、彼は波や風に目を奪われました。外的な原因は何もありません。ただペテロ自身が、解決済みの問題に舞い戻っただけなのです。

 弱い信仰には常にこの問題が付きまとっています。私たちには何故か解決済みの問題を蒸し返そうとするところがあると思います。しかし、神に信頼したならば、疑いを掻き立てるようなことには舞い戻らず、解決済みのことを蒸し返さないことです。これは信仰生活の大原則と言って良いでしょう。

 三つ目は、主イエスだけを仰ぎ続けることです。パウロがピリピ1:6で「あなた方の間で良い働きを始められた方は、キリスト・イエスの日が来るまでにそれを完成させて下さると、私は確信しています」と語っていることを、繰返し信じ直すのです。

 救い主イエス・キリストが共におられないなら、信仰の薄い私たちは絶望的です。どれだけ長く信仰生活をしてきたかは問題ではありません。絶えず新たにイエスに信頼し、一歩一歩進むだけです。疑惑を静めるには、主イエス見上げる他ありません。ですから、何度でも主イエスを新たに仰ぎ続けたいと思います。

 ペテロは強い信仰をもって行動を始めました。しかし、イエスへの信仰の代りに、自分の信仰の勢いに頼ろうとしたのです。いわば、自分の昔の信仰を根拠に、今を生きるという失敗です。そうではなく、日毎に、また全ての瞬間に、主イエスを見上げるのです。Ⅱコリント5:7の言うように、本当に「信仰によって歩」むのです。回心した日に主の恵みを必要としたように、最後の時にも主イエスの恵みが必要です。ですから、是非、イエスと共に一日を始め、イエスと共に一日を閉じたいと思います。

 私たちも世の荒波の上を歩いています。これを歩み続ける唯一の秘訣は、主イエスから目を離さず、何度でもイエスを見上げ、その愛と力を新たに信頼し、従うことです。

 最後に、この出来事から慰めを一つ見て終りたいと思います。

 主イエスは、決して信仰者が溺れ死ぬままに放置されることはないということです。イザヤ43:1が言いますように、クリスチャンは主なる神のもの、主イエスのものだからです。

 ペテロは叫びました。「主よ、助けて下さい。」しかしイエスは、彼を溺れるままに捨て置かれることはありませんでした。ヨハネ10:28でイエスは、ご自分を信じ頼る者について言われました。「彼らは永遠に決して滅びることがなく、また、誰も彼らを私の手から奪い去りはしません。」

 ですから、たとい絶望の淵にいても、私たちは声を上げて主イエスに叫び、絶対に諦めないでいたいと思います。主は、御自分を頼る者の声を聞き、必ず御手を差し伸べ、助けて下さいます。ここに私たちクリスチャンの究極の慰めと希望があります!

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