揺るがない
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- 田村英典 牧師
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詩編 46篇1節~11節
聖書の言葉
新改訳聖書2017年度版
46:1 神は、われらの避け所、また力。
苦しむ時、そこにある強き助け。
46:2 それゆえ、われらは恐れない。
たとえ地が変わり
山々が揺れ、海のただ中に移るとも。
46:3 たとえその水が立ち騒ぎ、泡立っても
その水かさが増し、山々が揺れ動いても。
46:4 川がある。その豊かな流れは、神の都を喜ばせる。
いと高き方のおられる その聖なる所を。
46:5 神はそのただ中におられ、その都は揺るがない。
神は朝明けまでに、これを助けられる。
46:6 国々は立ち騒ぎ
諸方の王国は揺らぐ。
神が御声を発せられると、地は溶ける。
46:7 万軍の主はわれらと共におられる。
ヤコブの神はわれらの砦である。
46:8 来て、見よ。主のみわざを。
主は地で恐るべきことをなされた。
46:9 主は、地の果てまでも戦いをやめさせる。
弓をへし折り、槍を断ち切り、
戦車を火で焼かれる。
46:10 「やめよ、知れ。
私こそ神。
私は国々の間で崇められ、
地の上で崇められる。」
46:11 万軍の主はわれらとともにおられる。
ヤコブの神はわれらの砦である。詩編 46篇1節~11節
メッセージ
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今週の金曜日、1月17日は、阪神淡路大震災のあった日から25年目になります。5年前、私が北神戸キリスト伝道所で働いていた時には、西部中会議長書記団から「祈りへの招き-阪神淡路大震災20年を覚えて-」という訴えがあり、西部中会全体で祈ったものでした。
今ではあの地震を知らない世代の方も多いですが、1995年1月17日、午前5:46、淡路島のすぐ南、明石海峡の地下16kmを震源地とするマグニチュード7.3の大地震で、6434名が亡くなりました。当時、宝塚教会の牧師館に住んでいました私は、2階の書斎で寝ていました。物凄い揺れで、少し明るくなってから回りを見ますと、私の顔のすぐ横にはスチール机の引出が飛び出し、足の方には大きな本棚が、幸いにも机により途中で止っていましたが、私の上に倒れかかっていました。食器も沢山壊れ、会堂玄関前や裏の土台にひびが入り、外では漏れたガスが臭っていました。近くの関西学院大学のすぐ北では大きな地滑りがあり、知合いを含め34名が亡くなりました。教会員であった学生のアパートも壊れ、男子学生の1人は下敷きになり、僅かに残った空間で奇跡的に助かりました。しかし、手のひらに深い傷を負って血が止まらず、病院へ連れて行きました。彼は後に牧師になりました。四国のSH教会で牧師をしておられたTY先生です。教会員の他の女子学生たちも我が家で数日寝泊りしました。
その後、2011月3月11日には東日本大震災がありました。体験者には色々なことが思い出されると思います。
大切なことは、私たちは何を教えられたかです。神は、聖書を通して直接お教え下さっていることがあります。特別啓示ですね。もう一つは、自然や社会の様々な事象や色々な人を通してお教え下さっていることで、いわゆる一般啓示とか自然啓示と呼ばれるものです。この両方から、私たちはどんなことを教えられたでしょうか。
一つは、物質文明の限界と物質に頼ることへの反省です。多くのものが壊れて失われ、不便で困ることが沢山ありました。しかし同時に、誰もが思ったのは、形ある物は必ず失われるという物質文明の限界と、生きる上でどうしても必要な物は、実はそれ程多くはないということでした。心底そう思いました。
しかし、人間は何と忘れやすいでしょう。「喉元過ぎれば熱さ忘れる」で、時間が経つにつれ、あの時の思いは薄れ、再び物質的豊かさに幸せを感じ、沢山の物を作り、消費する社会に戻っています。阪神淡路大震災から25年、東日本大震災から間もなく9年が経とうとする今朝、私たちは、神の前に地震で教えられた今申し上げた大事なことを、再度、心に留めたいと思います。物質的なことに以上に、霊的なこと、魂のことに触れ、かつて主イエスがマルタに言われた言葉、ルカ福音書10:41、42「マルタ、マルタ、あなたは色々なことを思い煩って、心を乱しています。しかし、必要なことは一つだけです」、同12:15「どんな貪欲にも気をつけ、警戒しなさい。人があり余るほど物を持っていても、その人の命は財産(或いは、持ち物)にあるのではないからです」などの教えを、改めて深く心に刻みたいと思います。
二つ目は何でしょうか。共に助け合い、支え合って生きること、愛です。
電気・ガス・水道・電話・交通手段などライフラインが絶たれ、物がなくなる中、多くの人が、助け合って生きることの尊さを学びました。
教会でも、被災した教会員や客員、求道者を一人一人訪ね、具体的に支援し、改革派教会全体や諸外国の教会から献げられた尊い物資や義援金を、どう分配するのが良いかを色々考え、動き回りました。神戸では、教会堂を避難所として開放し、ある期間、日曜礼拝を被災者と共に持った教会もあり、そこに全国からクリスチャンの若いボランティアが参加し、奉仕しました。今、ボランティアと申しました。今では誰もが知っていますが、この言葉と概念が日本中に広く行き渡ったのも、阪神淡路大震災を契機としてでした。その16年後、2011年3月11日に起った東日本大震災の時には、ボランティアとして奉仕するのは当然と思う大勢の人が東北へ行き、外国からもボランティアが沢山来られ、人が助け合って共に生きる「共生」という言葉と概念も随分広がりました。
東北の多くの教会は、自らも被災していますのに、地域の人々を助け、休息所を設け、避難所を訪問し、愛をもって人々に仕えました。ギリシア語でディアコニアと呼ばれる愛の奉仕・執事活動を普段から教会はしていますので、人々の所へ出向き、親身になって助け、話を聞いてあげることが、割合自然に出来たのでしょう。そのためか、少なからぬ人が東日本大震災の後、クリスチャンになりました。
教会の最大の使命は、人間の究極の問題である罪と永遠の死からの救い主、神の御子イエス・キリストを多くの人に伝え、信じて頂き、罪の赦しと永遠の命に与(あずか)って頂くことです。しかし、それは理屈で人に説明し納得してもらうだけでなく、イエスご自身がそうであられましたように、愛をもって具体的に真摯に一生懸命人に仕えることを抜きにしてではないことを、教会は再確認させられたと思います。
大震災を通して社会も教会も、人が助け合って共に生きる愛の尊さを学びました。しかし、私たちは何と忘れやすいでしょうか。イエスは言われました。マタイ25:40「まことに、あなた方に言います。あなた方が、これらの私の兄弟たち、それも最も小さい者たちの一人にしたことは、私にしたのです。」このイエスの御言葉により、古代教会は貧しい人々や病人によく仕え、その結果、ローマ帝国から猛烈な迫害を2百数十年間受けながらも、クリスチャンになる人は減りませんでした。紀元313年、ミラノ勅令により、コンスタンティヌス大帝は、他の宗教共々、キリスト教を公認しました。しかし、約50年後、キリスト教を捨てて背教者と呼ばれた皇帝ユリアヌスの一時期、キリスト教は再び抑圧されました。けれども、ユリアヌスはクリスチャンを迫害しましたが、クリスチャンの愛の実践には感銘を受けていました。361年、彼は声明書を発布し、「キリスト教徒が我々の神の強力な敵になった理由は、病人や貧困者に対する彼らの兄弟愛のためである」と述べ、全てのローマ市民はこの精神を学ぶようにと命じました。興味深いと思います。私たちも、改めてイエス・キリストに倣い、愛をもって具体的に人に仕え、助け合うことを、心に銘じたいと思います。
最後、三つ目は、一番大切な私たちの魂に関することです。すなわち、いつ何が起り、何が私たちを襲い、何が私たちの命を奪おうとも、揺らぐことのないものに自分が拠って立っていることの大切さを、クリスチャンは大震災から学んだと思います。
では、揺らぐことがないものとは何でしょうか。天地を創られた真の神です。またその神が、ご自分に背く私たち罪人のために与えられた真理の御言葉、救いの福音です。ですから、その福音を語られた神の御子イエスは言われました。マタイ24:35「天地は消え去ります。しかし、私の言葉は決して消え去ることがありません。」十字架の死によって私たちの罪を完全に償い、復活された神の独り子イエス・キリスト、そしてそのイエスを心から信じる者を罪と永遠の死、永遠の死から救う真理の御言葉、福音こそ、揺らぐことがないものです。
先程、詩篇46をお読みしました。聖書から逸脱した面を多く持つようになった中世のローマ・カトリック教会に問題提起をし、そのためにいつ命を失うか分らない危険の中、宗教改革者ルターは、詩篇46や聖書の他の言葉を基に、コラール、つまり会衆賛美歌を作りました。あとで皆で歌います讃美歌267「神はわがやぐら」もその一つです。
宗教改革は当時のヨーロッパ社会に激震を与え、まさに大地震に匹敵することであり、改革者たちには非常に厳しい迫害もありまし。しかし、そういう中で、ルターやカルヴァンなど改革者たちは、聖書の真理に立ち、イエス・キリストを固く信じ、揺らぐことがないようにしました。
そこで詩篇46を読んでみます。
1~3節「神は、われらの避け所、また力。苦しむ時、そこにある強き助け。それゆえ、われらは恐れない。たとえ地が変わり、山々が揺れ、海のただ中に移るとも。たとえその水が立ち騒ぎ、泡立っても、その水かさが増し、山々が揺れ動いても。」
5~7節「神はそのただ中におられ、その都は(今で言いますと、神を愛し、神の真理に立ち、福音に生きる教会のことでもありますね)揺るがない。神は朝明けまでに、これを助けられる。国々は立ち騒ぎ、諸方の王国は揺らぐ。神が御声を発せられると、地は溶ける。万軍の主はわれらと共におられる。ヤコブの神はわれらの砦である。」
そして、いつか必ず神が、神に背く者を全て制圧し、支配されることを知っていますので、8、9節は言います。「来て、見よ。主のみわざを。主は地で恐るべきことをなされた。主は、地の果てまでも戦いをやめさせる。弓をへし折り、槍を断ち切り、戦車を火で焼かれる。」
従って、何が起り、何がどうなろうとも、神は信仰者に言われます。10節「やめよ、知れ。私こそ神。私は国々の間で崇められ、地の上で崇められる。」「やめよ」とある所を新共同訳聖書は「力を捨てよ」と訳しています。元のヘブル語は「静まれ」とも訳せます。「ギャーギャー騒がず、静まっておれ。神である私が全てを治め、お前たちを顧み、救う。」
天変地異や戦争が起り、今やキリストの再臨と共に世の終りを迎える時が、2千年前より遥かに近くなっています。その終末意識を忘れず、けれども、その方の許しがなければ私たちの髪の毛1本地に落ちない程、全てを握っておられる父なる神、御子イエス・キリスト、聖霊なる三位一体(さんみいったい)の真(まこと)の神を、私たちは今朝、改めて堅く信じ、一切を委ねたいと思います。すると私たちは、何があっても大きく揺らぐことのなかった使徒パウロの言葉を自分の言葉として告白することを許されるでしょう。その言葉、ローマ8:38、39を読んで終ります。
「私はこう確信しています。死も、命も、御使い(みつかい)たちも、支配者たちも、今あるものも、後(のち)に来るものも、力あるものも、高い所にあるものも、低い所にあるものも、その他のどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。」