2025年02月23日「迫害される者は幸いです」
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迫害される者は幸いです
- 日付
- 説教
- 田村英典 牧師
- 聖書
マタイによる福音書 5章1節~10節
聖書の言葉
5: 1 その群衆を見て、イエスは山に登られた。そして腰を下ろされると、みもとに弟子たちが来た。
5: 2 そこで、イエスは口を開き、彼らに教えて、言われた。
5: 3 「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだからです。
5: 4 悲しむ者は幸いです。その人たちは慰められるからです。
5: 5 柔和な者は幸いです。その人たちは地を受け継ぐからです。
5: 6 義に飢え渇く者は幸いです。その人たちは満ち足りるからです。
5: 7 あわれみ深い者は幸いです。その人たちはあわれみを受けるからです。
5: 8 心のきよい者は幸いです。その人たちは神を見るからです。
5: 9 平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるからです。
5:10 義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人たちのものだからです。マタイによる福音書 5章1節~10節
メッセージ
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「迫害される者は幸いです」という今朝の説教題に、皆、少し困惑すると思います。「迫害されることが、どうして幸いなのか。辛くてイヤなことではないか」と普通は、皆、考えます。しかし約二千年前、天の父なる神の御許(みもと)からこの世に来られた救い主イエスは確かにこう言われました。これはどういう意味なのでしょう。
最初に確認しておきますが、3~10節の教えは皆、天地の創り主、真(まこと)の神とその独り子(ひとりご)イエスを心から信じ、罪を赦されて救われ、神の御心に従って生きている幸いな真(まこと)のクリスチャンの特徴を、イエスが八つの面から描かれたものです。ですから、一般論としての幸福の教えではありません。幸いな真のクリスチャンの特徴の一つが「迫害される」ということなのです。
確かに、歴史を振り返りますと、紀元1世紀後半から4世紀初頭まで、ローマ帝国はキリスト教をひどく迫害し、日本でも戦前は治安維持法でクリスチャンや教会は取り締まられ、迫害されました。今日もクリスチャンが迫害されている国々があります。
聖書自身もこういう点を伝えています。有名なモーセもダビデも迫害され、預言者エリヤやエレミヤは常に命を狙われ、パウロは何度も迫害されました。
では、真(まこと)のクリスチャンは何故迫害されるのでしょうか。
迫害といいますと、私たちはひどいものを考えがちですが、嫌がらせ(いやがらせ)や虐め(いじめ)なども含めて良いでしょう。
念のために申しますが、あるクリスチャンが人の道に反することをして周囲から非難されても、それはイエスが言われる迫害ではありません。10節で「義のために」と言われていることが大切です。「義」とは、ここでは、要するに天と地と私たち人間を創られた真(まこと)の神の清い御心(みこころ)に従い、神に喜ばれるように生きることを指します。ところが、まさにそのことが、神を拒む人たちには不愉快で腹が立ったりするのです。
クリスチャンが周りの人をやたら批判し、これはこうでなければならないなどと高飛車に説教するのでもありません。けれども、クリスチャンが神の戒め・律法(りっぽう)に従って、例えば、第一戒、第二戒に従って、どんな偶像も拝まず、本当の神に向ってだけ祈り賛美する。第四戒に従って、日曜日を安息日として神に礼拝を捧げることを第一にして教会へ行き、自分の単なる娯楽や遊びのためには使わない。第六戒に従って、父と母を敬えという人間関係の礼節を、葉遣いを含めてしっかり重んじる。第七戒に従って、結婚と性に関して清潔で潔癖。第八戒に従って盗みは勿論、ずるいこともせず、第九戒に従って嘘やごまかしをせず、第十戒に従って、貪欲を自らに厳しく禁じる。学校や職場や隣近所でも、あまり出来ない弱い人たちに、決して横柄でなく、むしろ励まし優しく支えて上げる。
以上のことはクリスチャンにとって至極しごく)当り前のことですが、こういうことが「義」ということです。
しかしこのことが、真の神を拒否し、自分の体験や知識や損得計算などに基づいて思いのままに生きたい人たちには、うっとうしく、目障りなのです。そこで、本当はあってはならないのですが、クリスチャンに対して嫌味や悪口を言い、排斥し、「迫害」するわけです。以上が義のために迫害されるということです。
私は20歳の時に洗礼を受けてクリスチャンとなり、来月で丸57年になります。その間には、私自身の人間としての足りなさや未熟さが理由で、「それがクリスチャンなのか」と批判されたこともありました。それは私自身の責任であり、神にも人にも申し訳なく思っています。
しかし、真の神を、そして御子(みこ)イエスを自分の救い主と信じるクリスチャンとして発言し行動したことで、皆の前で馬鹿にされ、嫌味を言われたこともありました。そういう時はやはり辛くて悲しいですね。気持が塞ぎ、心は暫く穏やかではありませんでした。
決して傲慢でも横柄でもなく、ただ神の御言葉・聖書に従って生き、心を低くし、弱い立場の人に寄り添うようなことが多くても、今お話したようなことは、多くのクリスチャンが体験していると思います。その意味で、クリスチャンには、この世で理不尽な苦しみがあり、肩を落とすことも多々あります。
けれども、決してそれだけではありません。ですから、神の御子イエスは、私たちの罪の償いのために十字架につかれる前、弟子たちにこう言って励まされました。ヨハネ福音書16:33「(あなた方には)世にあっては苦難があります。しかし、勇気を出しなさい。私は既に世に勝ちました。」
では、クリスチャンは先程申し上げたような理不尽な迫害を受ける時、どうすれば良いでしょうか。クリスチャンはどんな時にも、イエス・キリストをしっかり見つめ、キリストに倣って生きるものです。そのイエス・キリストから教えられることの一つは、肩を落として落胆し、溜息をつくだけでなく、毅然とした姿勢を持つことです。
私たち自身が神の御言葉に反した罪深い言動をしたのであるならば、直ちに悔い改め、周囲に当然謝るべきです。しかし、御言葉(みことば)にどう照らし合わせて見ても、自分が神の御心に適った振舞いをしているならば、毅然とした姿勢で、時には言葉で抗議することも大切です。イエスは十字架にかかられる前夜、縛られたまま、当時のユダヤ教の大祭司、アンナスの前に引き出された時、ヨハネ福音書18:19以降が伝えますように、毅然とした態度で大祭司に言葉で抗議されました。
この世は罪の世ですから、根本的には神を拒否し逆らいます。ですから、私たちが毅然とした態度を取る時、この世は一層私たちを迫害するかも知れません。命まで奪うかどうかは神の御心次第ですが、危険性、リスクはあります。
弱い私たちは決して偉そうなことは言えませんし、ルカ福音書4:10が伝えますように、イエスもナザレの人々に殺されそうになった時、無暗に対立せず、彼らの間を通り抜け、去って行かれたこともありました。従って、私たちも状況を見極めて行動する必要があります。
けれども、ことは永遠者・絶対者なる神の前に人はどうあるべきかという真理に関ります。従って、神の御霊が促される時、クリスチャンは毅然とした姿勢で神の真理を伝え、証ししたいと思います。たとい迫害されても、一切は神の御手の中にあり、迫害の強さも長さも神が全てコントロールしておられ、それ以上、強くも長くもなりません。ですから、Ⅱテモテ6:13が言いますように、ポンティオ・ピラトの前で見事な告白と証しをされたイエス・キリストに倣いたいと思います。
イエス・キリストに教えられるもう一点を見て終りたいと思います。
義のために迫害される時、それには必ず永遠の報いがあることを忘れないでいたいと思います。イエスは言われます。マタイ5:10「義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人たちのものだからです。」
創り主なる真(まこと)の神のことを極力考えず、無視し、仮にこの世で皆から成功者と言われ、称賛され、自分でもまんざらでもないと思う人生を送れたとしても、私たちの命はいつか必ず終ります。決して永遠ではありません。しかもその後には、神の裁きが待っています。ヘブル9:27が言う通り、「人間には、一度死ぬことと死後に裁きを受けることが定まって」いるのです。
生きている間でも、私たちの言動には必ずつけが回って来ます。とりわけ地上の命が終った後、私たちの全人生のつけが回って来ます。もしそこで自分の不信仰のためにイエス・キリストによる罪の赦しに与(あずか)れず、永遠の裁きに至るなら、一体その人生は何だったのでしょうか。
一方、この世では辛くてイヤなことも多く、涙を流すこともいっぱいあり、苦労だらけだとしても、忍耐して、なお神を仰ぎ、義のために生きた人には、永遠の天の御国(みくに)が用意され、待っています!一切が報われる永遠の天の御国です。
その時のことをヨハネの黙示録14:13はこう言います。「今から後、主にあって死ぬ死者は幸いである。…御霊も言われる。しかり、その人たちは、その労苦から解き放たれて安らぐことができる。彼らの行いが、彼らと共について行くからである。」黙示録21:4もこう言います。「神は彼らの目から、涙をことごとく拭い去って下さる。もはや死はなく、悲しみも、叫び声も、苦しみもない。以前のものが過ぎ去ったからである。」
私たちには今も色々やるべきことがあり、苦労があります。けれども、今のことだけに埋没せず、いつか迎える自分の死と死後の永遠の世界を常にしっかり心に留め、そこから、今、どう生きるかを考え、最終的には諸手(もろて)を上げて信仰者を迎えて下さる主イエス・キリストの祝福に何としても与ることを許されたいと思います。マタイ福音書25:14以降にはイエスの語られた有名なタラントの譬があります。そこのイエスの言葉をお借りしますと、きっと主イエスは私たちに「良い忠実なしもべ。あなたには、悲しいことや辛いことや苦労がとても多かったのに、本当に忠実でした。良くやりました。ですから、多くの物をあなたに任せます。私と一緒に喜びましょう!」と言って下さるでしょう!
「義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人たちのものだからです。」