2025年02月20日「イエスの祈りとそのお姿 ⑺」

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イエスの祈りとそのお姿 ⑺

日付
説教
田村英典 牧師
聖書
ヨハネによる福音書 17章13節~56節

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17:13 ヨハネによる福音書 17章13節~56節

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 今日も「イエスの祈りとそのお姿」と題して学びます。七回目になります。

 「大祭司イエスの祈り」と呼ばれますヨハネ福音書17章の祈りを学んで来ました。この長い祈りの中で、イエスは、今の私たちクリスチャンをも含むご自分の弟子たちを「守って下さい」と天の父に祈られました。11節、15節がそうです。

 私たちの信仰がなくならないように、イエスが天の父に祈って下さることは、今年の1月16日の祈祷会でも学びました。最後の晩餐の後、イエスはペテロに言われました。ルカ22:31、32「シモン、シモン、見なさい。サタンがあなた方を麦のようにふるいにかけることを願って、聞き届けられました。しかし、私はあなたのために、あなたの信仰がなくならないように祈りました。」主イエスが私たちのために執り成して下さっている!何と感謝なことでしょう!

 ところで、先程の15節で、イエスはわざわざ「私がお願いすることは、あなたが彼らをこの世から取り去ることではなく、悪い者から守って下さることです」と祈られます。イエスのこういう祈りを知りますと、信仰があっても実際には弱い私たちを、イエスがどんなに良く分って下さっているかということに改めて気付かされます。

 実際、私たちも余りに辛いことが続きますと、「神様、私を早くこの世から去らせ、楽にして下さい」と、つい祈ることはないでしょうか。

 実は、聖書が伝える信仰者たちもしばしば「早く私をこの世から取り去って下さい」と神に祈りました。奴隷状態にあったイスラエルがエジプトから救われた時の偉大な指導者モーセがそうでした。脱出後、イスラエルの民が余りにも頑なだったため、民数11:14、15が伝えますように、彼は「私一人で、この民全体を負うことは出来ません。私には重過ぎます。私をこのように扱われるのなら、お願いです。どうか私を殺して下さい。これ以上、私を悲惨な目に遭わせないで下さい」と主に祈りました。

 預言者エリヤは、偶像神バアルやアシェラの預言者たち、そして北イスラエルの王たちとの熾烈(しれつ)な信仰の戦いに疲れ果て、Ⅰ列王記19:4が伝えますように「主よ、もう十分です。私の命を取って下さい。私は父祖たちにまさっていませんから」と祈りました。

 預言者ヨナは、悪に満ちたニネベの人々を憎んでいました。モーセやエリヤの場合とは少し違いますが、悔い改めた彼らを主が赦されたことを知りますと、彼は怒り、ヨナ4:3「主よ、どうか今、私の命を取って下さい。私は生きているより死んだ方がましです」と祈りました。

 一方で聖書は、使徒パウロのこんな言葉も伝えています。ピリ1:21~25「私にとって生きることはキリスト、死ぬことは益です。しかし、肉体において生きることが続くなら、私の働きが実を結ぶことになるので、どちらを選んだら良いか、私には分かりません。私は、その二つのことで板挟みとなっています。私の願いは、世を去ってキリストと共にいることです。その方が、遥かに望ましいのです。しかし、この肉体に留まることが、あなた方のためにはもっと必要です。このことを確信しているので、あなた方の信仰の前進と喜びのために、私が生きながらえて、あなた方全てと共にいるようになることを知っています。」

 早く天に召されたいと一口に言っても、この世で生きることが辛過ぎるからというのと、天におられる主イエス・キリストと早く共にいたいからというのとでは、理由というか動機がかなり異なります。現実の私たちは、恐らく、その時々の私たちの体と魂の状態により、その間を行き来しているように思います。いずれにせよ、モーセ、エリヤ、ヨナの祈りを神は聞かれず、生きながらえさせ、パウロもなお神は生かされました。

 私たちを愛し選び、ご自分の子供にされた神は、試練が私たちに耐えられなくなる前に、必ず私たちを天に召されます。Ⅰコリント10:13で「神は真実な方です。あなた方を耐えられない試練に遭わせることはなさいません」とハッキリ約束されているからです。そのタイミングは神のみがご存じです。

 そしてその時までは、ヨハネ福音書17:15でイエスが祈られましたように、父なる神は必ず私たちを「悪い者から」、すなわち、私たちの弱い所を攻撃し、神への不信を煽り、信仰の確信と喜びを私たちから奪おうとする悪魔・サタンから必ず「守って」下さいます。

 ですから、神が私たちを召されるその時まではーーその時は神のみがご存じですがーーパウロのように、無論、私たちの存在はパウロとは比較にならず、全くささやかで小さなものですが、それでも私たちの生きていること、私たちの存在そのものが誰かの励ましと喜びとなるなら、そういう方々を覚え、祈り、大祭司、主イエス・キリストに手を握られて、命の日々を一日一日積み重ねて行きたいと思います。

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