2025年02月09日「自分の不信仰と戦う」

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自分の不信仰と戦う

日付
説教
田村英典 牧師
聖書
マタイによる福音書 13章53節~58節

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13:53 イエスはこれらの譬えを話し終えると、そこを立ち去り、
13:54 ご自分の郷里に行って、会堂で人々を教え始められた。すると、彼らは驚いて言った。「この人は、こんな知恵と奇跡を行なう力をどこから得たのだろう。
13:55 この人は大工の息子ではないか。母はマリアといい、弟たちはヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダではないか。
13:56 妹たちもみな私たちと一緒にいるではないか。それなら、この人はこれらのものをみな、どこから得たのだろう。」
13:57 こうして彼らはイエスにつまずいた。しかし、イエスは彼らに言われた。「預言者が敬われないのは、自分の郷里、家族の間だけです。」
13:58 そして彼らの不信仰のゆえに、そこでは多くの奇跡をなさらなかった。マタイによる福音書 13章53節~58節

原稿のアイコンメッセージ

 今朝は、自分の不信仰と戦う大切さを改めて学びたいと思います。

 53、54節は伝えます。「イエスはこれらの譬(たとえ)を語り終えると、そこを立ち去り、ご自分の郷里に行って、会堂で人々を教え始められた。すると、彼らは驚いて言った。『この人は、こんな知恵と奇跡を行う力をどこから得たのだろう。』」

 13章の最初の所からが記しますように、イエスは人々に大切な真理を敢えて譬で話され、質問する弟子たちには譬を説明されました。その後、イエスはガリラヤの町カペナウムから故郷のナザレへ行き、54節「会堂で人々を教え始められ」ました。並行箇所のマルコ6:2によりますと、これは安息日のことでした。当時、会堂長の判断で、これと思う人に説教をしてもらうことはよくあったそうです。噂を聞き、会堂長はすぐイエスに話を頼んだのでしょう。イエスはこれを快く引き受けられました。

 実は、ルカ4:16以降によりますと、伝道活動の初期にもイエスはナザレで説教をなさったことがありました。その時、人々はひどく憤慨し、イエスを崖から突き落とそうとしました。こういう故郷のナザレなのですが、イエスは再び安息日に会堂で教えられました。勇気が要ったと思います。しかし、イエスは人々の魂の救いを何より願って説教をされたのでした。イエスの熱い愛を思います。

 では、今回、こういうイエスに対する郷里の人々の反応はどうだったのでしょうか。54~56節「彼らは驚いて言った。『この人は、こんな知恵と奇跡を行う力をどこから得たのだろう。この人は大工の息子ではないか。母はマリアといい、兄弟たちはヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダではないか。妹たちも皆私たちと一緒にいるではないか。それなら、この人はこれらのものを皆、どこから得たのだろう。』」

 54節は直訳しますと、「こんな知恵と力はどこからのものなのか」であり、56節後半も「これらのものは皆どこからのものなのか」です。つまり、これらは本当に神からのものなのかという根本的な疑いだったのです。「イエスの知恵と力は、噂(うわさ)通りすごい。けれども、これは神からのものなのか。いや、違うはずだ」というのが本音でした。ですから、57節は「こうして彼らはイエスに躓いた(つまずいた)」と伝えるのです。

 「躓く」(つまずく)と訳されている元のギリシア語は、スキャンダルという英語の元になるものであり、「罪に陥る、信仰をやめる、不信仰になる、拒否する」という意味です。ナザレの人々はイエスを拒否し、信じなかったのでした。

 では何故、彼らはイエスを旧約聖書が預言していた救い主(ヘブル語でメシア、ギリシア語でキリスト)だと信じなかったのでしょうか。あるいは、少なくとも素晴らしい預言者だと信じなかったのでしょうか。自分たちのよく知る人間が、そんな偉大存在だなんて、あるはずがないという先入観と妬みがあったでしょう。

 彼らは言います。55、56節「この人は大工の息子ではないか。母はマリアといい、兄弟たちはヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダではないか。妹たちも皆私たちと一緒にいるではないか。」

 並行箇所のマルコ6:3では、イエスは大工と言われています。父のヨセフは既に亡くなり、大勢の家族を支えるために、イエスは大工をされたことがあったのでした。

 

 大工という職業が特に低く見られていたわけではありません。昔のことですから、きっと重宝がられたと思います。

 しかし、イエスは旧約聖書の研究を中心とするユダヤ教世界で高等教育を受けたことはありません。ですから、人々には「イエスは自分たちと変るはずがない」という思いがあったわけです。

 また「母親はマリアといい、兄弟はヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダではないか。姉妹たちは皆、我々と一緒に住んでいるではないか」と、事細かにイエスの家族についても語ります。「我々はイエスの家族も家庭環境も知っている。イエスは我々と何も変らない。普通の人間だ」ということです。イエスの知恵や病人を癒す力は認めました。けれども、「イエスは我々と何も変らない。イエスが特別だなんて、あるはずがない」という気持が強く働き、イエスへの評価を下げ、イエスを拒んだのでした。

 ここには妬みもあったでしょう。自分たちと同じ町出身のイエスが、今や大変な知恵と力を持ち、超有名人になっている。しかも、ただ勉強すれば身に着くような知恵ではなく、驚くべき知恵が、また多くの病人を言葉だけで癒す力がイエスにはある!彼らは「こんな知恵と力はどこからのものなのか」と言いましが、本当は神からのものと認める以外説明のしようがありませんでした。ところが、それを彼らは認めたくなかったのです。ここに、私たちは妬みの怖さを思います。旧約聖書の雅歌8:6は言います。「妬みは陰府のように激しい」と。

 歪(ゆが)んだ先入観や、あの人も我々と同じで特に優れているのではないと思いたい妬みは、人間をどんなに狂わせるでしょうか。何度もイエスを殺そうとし、十字架に付けるように迫ったユダヤ教権威者の根底にあったものも、イエスへの妬みであり、外国人である総督ピラトでさえ、それを見抜いていました(マタイ27:18参照)。

 ナザレの人々は、イエスに躓きました。しかし、それは彼らの不信仰が招いたものにほかなりませんでした。神の前にへりくだることをしない不信仰の怖さを改めて思います。

 イエスは、当時流布していた格言を引用されたのでしょう。13:57「預言者が敬われないのは、自分の故郷、家族の間だけです」と言われました。

 そして58節は伝えます。「彼らの不信仰の故に、そこでは多くの奇跡をなさらなかった。」並行箇所のマルコ6:5は「何人かの病人に手を置いて癒されたほかは、そこでは、何も力ある業を行うことができなかった」と伝えます。人々の協力がなかったために、イエスは無力だった、というのではありません。人々の不信仰を見て、イエスは力ある業(わざ)をしようという気になれなかったという意味です。折角イエスが来られたのに、イエスの教えをもっと聞くことも素晴らしい御業(みわざ)にもっと触れることもできなくし、自分で自分を躓かせ、自分を救いから遠ざけてしまったナザレの人々の不信仰!これは他人事(ひとごと)ではないでしょう。

 ところで、割合多くの註解者が、牧師の説教と会衆の姿勢に、ここを適用していることは、やはり注目すべきだと思います。無論、主イエスとは違い、牧師の説教は不完全です。しかし、聖霊が会衆に働かれる時、それは聞く人の内で神の言葉となり、人を祝福し、信仰を育て、養い、強めます。

 大切なことは、神が望まれることや神からの使命を、聖霊が私たちの内に成し遂げて下さるように、心底へりくだり、また神への愛と熱い期待をもって、私たちが聞くかどうかです。ナザレの人々のような姿勢であれば、説教は実を結びません。

 説教は説教者の独演ではありません。説教者と会衆の一つの信仰に基づく信頼と協力の中で、説教は真(しん)に神の言葉となり、教会と信徒を祝福します。

 繰り返します。現実の教会の説教者と説教が不完全なのは当然です。しかし、それでも、「主よ、今日の説教から一つでも二つでもあなたの御心(みこころ)を悟らせ、私の魂に命を吹き込んで下さい。ガラテヤ5:22、23の言う愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制という御霊の実を、なにとぞ、結ばせて下さい」と祈り、真剣に説教と向き合うなら、聖霊が聞く者を必ず祝福され、説教が空しく終ることも躓くこともないでしょう。イザヤ55:10、11で神は言われます。「雨や雪は、天から降って、元に戻らず、地を潤して物を生えさせ、芽を出させて、種蒔く人に種を与え、食べる人にパンを与える。そのように、私の口から出る私の言葉も、私の所に、空しく帰って来ることはない。それは、私が望むことを成し遂げ、私が言い送ったことを成功させる。」

 この神の約束を信じ、自分の不信仰とよく戦いたいと思います。自分の不信仰にわずかでも気づくなら、私たちは直ちに自分自身に向って、「不信仰の霊よ、私から去れ!出て行け!」と命じるのです。そして、御言葉により、ますますイエス・キリストの聖い(きよい)ご人格に触れ、特に主イエスが聖書と説教を通して、私たちの心と生活に、御霊により力ある恵みの御業をなして下さるように、主イエスに自分を明け渡したいと思います。

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