2025年02月02日「主を喜ぶことは私たちの力」

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主を喜ぶことは私たちの力

日付
説教
田村英典 牧師
聖書
ネヘミヤ記 8章9節~12節

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聖句のアイコン聖書の言葉

8: 9 総督であるネヘミヤと、祭司であり学者であるエズラと、民に解き明かすレビ人たちは、民全体に向って言った。「今日は、あなた方の神、主にとって聖なる日である。悲しんではならない。泣いてはならない。」民が律法の言葉を聞いた時に、みな泣いていたからである。
8:10 さらに、彼は彼らに言った。「行って、ごちそうを食べ、甘いぶどう酒を飲みなさい。何も用意できなかった人には食べ物を贈りなさい。今日は、あなたの主にとって聖なる日である。悲しんではならない。主を喜ぶことは、あなた方の力だからだ。」
8:11 レビ人たちも、民全体を静めながら言った。「静まりなさい。今日は聖なる日だから、悲しんではならない。」
8:12 こうして、民はみな帰って行き、食べたり飲んだり、ごちそうを贈ったりして、大いに喜んだ。教えられたことを理解したからである。ネヘミヤ記 8章9節~12節

原稿のアイコンメッセージ

 本日は午後、定期会員総会があります。これに現住陪餐会員は出席し、昨年、神が当教会に下さった恵みを振り返って神を讃え(たたえ)、私たちの欠けは悔い改め、また今年の歩みを覚え、心の帯を改めて引き締めたいと思います。

 そこで、今朝も今年の教会標語「福音の喜びに共に生きる教会を目指して」を取り上げます。

 1月5日(日)の新年礼拝では、福音を喜ぶことが、私たちを霊的な危険から守り、また教会の尊い使命である伝道に不可欠なことを学びました。今朝は、福音を喜ぶこと、言い換えますと、真(まこと)の神・主を喜ぶことの大切さを学びたいと思います。

 お読みしましたネヘミヤ記8:10に「主を喜ぶことは、あなた方の力」とあります。ネヘミヤやエズラやレビ人たちがユダヤの民にこう言いました。何故こう言ったのでしょうか。「民が律法の言葉を聞いた時に、皆泣いていたから」(9節)です。では、どうして彼らは泣いていたのでしょうか。少し歴史を振り返ります。

 偶像崇拝や色々な罪に満ちていたユダ王国は、紀元前586年、バビロン軍によりエルサレムの町も神殿も徹底的に破壊され、殺されずに生き残った人たちも大勢バビロンへ連れて行かれました。いわゆる、バビロン捕囚です。その後、バビロンはペルシアに滅ぼされ、祖国へ戻ることを許されたユダヤ人たちは、紀元前515年、エルサレム神殿を再建しました。

 その更に70年後、ペルシア王に仕えていたユダヤ人ネヘミヤは、ある時、祖国のひどい状態を知り、王の許可を得てエルサレムへ来ました。何と城壁は焼け崩れたままであり、民は皆、苦しんでいました。そこでネヘミヤは民を励まし、指導し、近隣住民からの妨害もある中、紀元前445年、ついに城壁を再建しました。8章はその完成祝いの様子を伝えます。

 律法の書が朗読され、民は立ってそれを聞き、そして泣きました。そこでネヘミヤは言いました。10節「悲しんではならない。主を喜ぶことはあなた方の力だからだ。」

 民はどうして泣いたのでしょうか。町を守る城壁がなく、長い間、近隣の民から嘲られて来たため、城壁再建が嬉しくて泣いた者もいたかも知れませんが、「律法の言葉を聞いた」ために泣いた者が殆どでした。

 そもそもユダ王国は何故バビロンに滅ぼされ、バビロン捕囚に遭い、苦しみが140年にもわたって何世代もの子孫を巻き込んだのでしょうか。理由は、主に愛され、主の民とされた彼らが主に背いて律法を破り、偶像崇拝は元より、罪をいっぱい犯したからだったのです。彼らは、警告を発した主の預言者たちをさえ何人も殺して来ました。

 民全体に及ぶこの罪を、律法の朗読と解説を聞いて民は思い起し、辛くなり、また自分たちにも同じ罪深さのあることがよく分る者は、泣いたのでした。自分の内にあるどうしようもない罪と弱さを知る者なら、自分が情けなく、神に申し訳なく、泣くのは当然でしょうね。ですが、そういう者たちに主は言われます。「主を喜ぶことは、あなた方の力」だと。

 では、具体的に私たちは何によって主を喜び、またそこからどんな力を与えられるでしょうか。今朝は大きく二つのことを心に留めたいと思います。

 まず、信仰者は何といっても「御言葉」により主を喜びます。旧約の信仰者は歌いました。詩篇119:162「私は、大きな獲物を見つけた者のように、あなたの御言葉を喜びます。」御言葉を喜ぶ時、私たちは自ずと主を喜ぶ者になります。

 では、御言葉により主を喜ぶ時、どんな力を与えられるでしょうか。

 一つは罪の苦しみから立ち上がる力です。私たちの力を削ぎ、何かと私たちを消極的にさせるものの一つは、自分の醜い罪を知る罪意識だと思います。無論、私たちをへりくだらせ、信仰を深める罪意識は、とても大切なものです。しかし、神は私たちがこれにだけ留まることを望まれません。

 悪いことをして叱られ、泣いていても、子供は親の赦しを知ると大喜びで、親に抱きつき、元気一杯になりますよね。私たちも同じだと思います。罪の赦しについて、エレミヤ3:12で主は言われます。「私は慈しみ深く、とこしえに怒り続ける者ではない」と(新共同訳聖書)。ヒゼキヤは神にこう祈りました。イザヤ38:17「あなたは私の全ての罪を、あなたの後ろに投げやられました。」

 今や信仰者は御子イエスの十字架により、全世界を贖って、なお余りある赦しを頂いています。ですから、感謝し、思い切り神を喜ぶのです。すると、丁度赦された幼子のように、必ず元気を頂けます。

 第二に、苦難や試練の中でも私たちに力を与えます。辛い時、先の見えないことばかりが頭をよぎり、私たちは大きな不安に襲われます。またそういう時、私たちは自分の知識や体験の中でしか考えられず、それが私たちを一層消極的にさせます。魂が弱っているのです。

 しかしそんな時こそ、私たちは御言葉を思い出し、是非、主を喜びたいと思います。例えば、Ⅰコリント10:13は言います。「あなた方が経験した試練は皆、人の知らないものではありません。神は真実な方です。あなた方を耐えられない試練にあわせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練と共に脱出の道も備えていて下さいます。」

 私たちの苦しみは必ず誰かが経験しています。私たちだけではありません。また神は、御子イエスによりご自分の子とされた者に耐えられない試練は決してお与えになりません。これを心に留めるだけで、どんなに力が湧くことでしょうか。

 またローマ8:28は「神を愛する人たち、すなわち、神のご計画に従って召された人たちのためには、全てのことが共に働いて益となる」と教えます。私たちが神を愛しているなら、どんな方法かは分りませんが、神は私たちにとって最終的には全てを益とされます。必ずそうされます。これを思うだけで、どんなに力付けられるでしょうか。

 またⅠペテロ5:7は教えます。「あなた方の思い煩いを、一切神に委ねなさい。神があなた方のことを心配して下さるからです。」ですから、分らないことは、私たちを心配していて下さる神に全部お委ねし、お任せし、私たち自身は出来ることやすべきことをやれば良いのです。これを知るだけで、力を得ますね。

 以上、御言葉により主を喜ぶことから与えられる力を少し見ました。聖書によりますと、他にも色々ありますが、その一つを上げますと、それは教会により主を喜ぶことです。

 詩篇84:1、2は歌います。「万軍の主よ、あなたの住まいは何と麗しいことでしょう。私の魂は、主の大庭を恋い慕って絶え入るばかりです。」詩篇122:1は歌います。「『さあ、主の家に行こう。』人々が私にそう言った時、私は喜んだ。」皆で礼拝を捧げ、主が臨在される神殿を、旧約時代の信仰者たちは心から慕い喜び、大いに力を与えられました。

 今日に当てはめますと、教会を覚えて感謝し、教会により神を喜ぶのです。これはとても大事なことです。詩篇119:105が言いますように、私たちの確かな「足の灯、道の光」であり、また永遠の命を与える神の言葉を正しく十分に聞ける所は、教会以外のどこにあるでしょうか。

 確かに現実の教会は、まだ天国ではありません。罪人の集りです。けれども、教会には、イエス・キリストにある永遠の救いを心から喜び、信仰と希望と愛(Ⅰコリント13:13)に立って神に喜ばれる生涯を送りたいと真剣に願い、また神と人に喜んで仕える者になることを祈る誠実な兄弟姉妹たちがいます。喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣き(ローマ12:15参照)、特に誰かが悲しみ、苦しみ、泣いている時、教会にはその人のために黙って祈り、一生懸命支えようとする神の家族が必ずいます。

 欠けはあっても、なお、聖徒の交わりを大切にし、その交わりのさ中に臨在される愛と赦しと真実に満ちた真(まこと)の神を心から喜ぶ人がいます。教会は、私たちが主を喜ぶことができ、そしてガラテヤ5:22、23の言います「愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制」という「御霊の実」という神の力を、本当に与えられる所なのです。

 第一に御言葉、第二に教会により、主を喜び、そうしてますます神の力に与ることを、是非、皆で許されたいと思います。

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