2025年01月30日「イエスの祈りとそのお姿 ⑸」

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イエスの祈りとそのお姿 ⑸

日付
説教
田村英典 牧師
聖書
ヨハネによる福音書 17章6節~10節

聖句のアイコン聖書の言葉

17: 6 あなたが世から選び出して与えて下さった人たちに、私はあなたの御名を現しました。彼らはあなたのものでしたが、あなたは私に委ねて下さいました。そして彼らはあなたの御言葉をまもりました。
17: 7 あなたが私に下さったものは全て、あなたから出ていることを、今彼らは知っています。
17: 8 あなたが私に与えて下さった御言葉を、私が彼らに与えたからです。彼らはそれを受け入れ、私はあなたのもとから出て来たことを本当に知り、あなたが私を遣わされたことを信じました。
17: 9 私は彼らのためにお願いします。世のためにではなく、あなたが私に下さった人たちのためにお願いします。彼らはあなたのものですから。
17:10 私のものは全てあなたのもの、あなたのものは私のものです。私は彼らによって栄光を受けました。ヨハネによる福音書 17章6節~10節

原稿のアイコンメッセージ

 いつものように、まず聖書に聞き、このところ続けて学んで来ましたが、「イエスの祈りとそのお姿」に注目したいと思います。五回目です。

 「大祭司イエスの祈り」と昔から呼ばれ、多くのクリスチャンが慰められ励まされて来ましたヨハネ17章のイエスの祈りを前回から見ています。前回は、私たちを罪と永遠の滅びから救うために、父なる神の御旨(みむね)に従って十字架で命を捧げることを、またご自分を信じる私たちとの親しい交わりを父なる神とご一緒に持つことを、イエスがご自分の栄光と考えておられることを学びました。何という主イエスの愛でしょう。

 今日は他の点を見ます。主が、いまだに罪と汚れを持つ弱い信仰者でしかない私たちも神のものであり、特にご自分のものであると祈られたことです。イエスは祈られます。6節後半「彼らはあなたのものでしたが、あなたは私に委ねて下さいました。」すなわち、御言葉によって御子イエスを心から永遠の救い主と信じる者は、間違いなく神のものであり、特に今やご自分に委ねられていて、ご自分のもの、ご自分の所有だと、イエスはハッキリ言われます。

 同じことが、9節後半で「あなたが私に下さった人たち」と祈っておられることからも分ります。10節でも、私たちクリスチャンについて「私のものは全てあなたのもの、あなたのものは私のものです。私は彼らによって栄光を受けました」とまで言われます。 

 洗礼を受け、イエス・キリストの体なる教会に繋がっているとは言え、正直な所、私たちは何と信仰の弱い者でしょうか。辛うじてイエスに繋がり、イエスに手を握られて漸く信仰を保ち、信仰生活を送ることができている私たちだと思います。それなのにイエスは、直弟子たちは勿論、今この日本で何とかクリスチャンとして生きている私たちをも「私のもの、私の所有だ」とハッキリ言われるのです。何という主の愛、主の憐みでしょう!何という感謝、また光栄でしょうか。

 ここで私たちは、あの過酷な宗教改革の時代の1563年にドイツのハイデルベルクで作られましたハイデルベルク信仰問答の問1を思わないではおられません。こう告白しています。

 問1「生きるにも死ぬにも、あなたのただ一つの慰めは何ですか。」

 答「私が私自身のものではなく、体も魂も、生きるにも死ぬにも、私の真実な救い主、イエス・キリストのものであることです。

   この方は御自分の尊い血をもって、私の全ての罪を完全に償い、悪魔のあらゆる力から私を解放して下さいました。また、天にいます私の父の御旨でなければ、髪の毛一本も落ちることができないほどに、私を守っていて下さいます。

   実に万事が私の救いのために働くのです。

   そしてまた、御自身の聖霊により私に永遠の命を保証し、今から後この方のために生きることを心から喜び、またそれに相応しくなるように、整えても下さるのです。」

 もし私たちが自分自身のものであるなら、どうでしょうか。ローマ帝国や宗教改革の時代のように、自分や自分の愛する者が迫害され、村八分にされ、捕えられ、殺されるようなことになるなら、私たちは自分の魂と信仰を自力で守ることができるでしょうか。

 また悪魔・サタンが、ありとあらゆる手立てをもって、例えば、ある時は魅惑的な甘い誘惑や巧い話で、またある時は自分や家族の重い病気や死、事故、人災、自然災害などの厳しい試練により、私たちを根底から揺さ振り、試し、罠を設けるなら、私たちは自分を守ることができるでしょうか。

 私たちは決して自分を買い被ってはなりません。実際、聖書を見ても、アブラハム、モーセ、ダビデ、ソロモン、そしてペテロを初めイエスの直弟子たちを見るだけで、信仰者であってもどんなに弱い者かは、一目瞭然です。ルカ22:33が伝えるペテロのように、「主よ。あなたとご一緒なら、牢であろうと、死であろうと、覚悟はできております」などと、誰が豪語できるでしょうか。

 しかし、ここに福音があります!大祭司イエスが弟子たちにも聞こえるように祈られたその祈りの中でハッキリ祈られたように、主イエスにすがりつく以外、何の力もない者であってもなお、主を仰ぎ、主を告白し、主に従い、主に究極の望みを置く者は、誰が何と言おうとも、今や確かに父なる神のものであり、特に私たちの罪のために命まで献げ、また死の力に勝利して復活された主イエスご自身のものとされているのです。

 イエスは、絶えず私たちをご自分の霊的な体である教会に結び付け、また御霊と御言葉をもって教え、導き、教会の交わりの中で信仰を育てて下さいます。また詩篇17:8のように「瞳のように私を守り、御翼(みつばさ)の陰にかくまって下さい」と祈る真剣な信仰の祈りに応えて、必ず私たちを、天地万物を造られた御力をもってお守り下さるのです。

 私たちがもはや自分自身のものでなく、天の父なる神、そしてご自分のもの、ご自分の所有だとハッキリイエスが口にして祈られたことは、何という慰めでしょうか!贖い(あがない)とは、「代価を払って買い戻し、自分のものにする」というのが元の意味です。その通り主イエスは、ご自分の血をもって、罪と死の奴隷であった私たちを贖って下さいました。何という恵み、何という光栄でしょうか!

 私たちは、今や自分が主のものとされているというその恵みの大きさ、豊かさを改めて覚え、主イエスにどんな時にも固く繋がっていたいと思います。

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