平和を造る者は幸いです
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- 説教
- 田村英典 牧師
- 聖書 マタイによる福音書 5章1節~10節
5: 1 その群衆を見て、イエスは山に登られた。そして腰を下ろされると、みもとに弟子たちが来た。
5: 2 そこで、イエスは口を開き、彼らに教えて、言われた。
5: 3 「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだからです。
5: 4 悲しむ者は幸いです。その人たちは慰められるからです。
5: 5 柔和な者は幸いです。その人たちは地を受け継ぐからです。
5: 6 義に飢え渇く者は幸いです。その人たちは満ち足りるからです。
5: 7 あわれみ深い者は幸いです。その人たちはあわれみを受けるからです。
5: 8 心のきよい者は幸いです。その人たちは神を見るからです。
5: 9 平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるからです。
5:10 義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人たちのものだからです。マタイによる福音書 5章1節~10節
天の父なる神の御許(みもと)から全世界の救い主として、約二千年前、この世に来られた神の御子イエスは、マタイ5:1が伝えますように、ある時、山の上から人々に語られました。そのため、マタイ福音書の5~7章の教えは、昔から「山上の説教」と呼ばれ、特に5:3~10の八つの教えは、「幸福の教え」として多くの人が心に留めて来ました。
実は、ここは真(しん)に幸いな真(まこと)のクリスチャンの特徴を、イエスが八つの角度から光を当てて描かれたものです。今朝は7番目の9節を見ます。イエスは言われました。「平和を造る者は幸いです。その人たちは神の子供と呼ばれるからです。」
二千年前もそうですが、今も世界各地で争いがあり、心痛むことが多いですね。そして最近は過激で攻撃的な言動が増え、対立を煽る(あおる)人の多いことに、非常に危ういものを感じます。歴史を振り返りますと、人間は常に争い、戦争をして来ました。どんなに夥しい血と涙が流されて来たでしょうか。溜息(ためいき)が出ます。人間は何故こうなのでしょう。
聖書は、人間が創り主なる真の神の御心に背き、罪の中に落ちた、つまり堕落したことに根本原因があることを教えます。ですから、人間には皆、生れながらに原罪という腐敗した罪の性質があり、それが人間を造り主なる神に対しても人に対しても自己中心であり、敵対心や憎しみがすぐ生れます。しかし、ローマ6:23が「罪の報酬は死」だと言うように、罪の行き着く先は、悲惨な死でしかありません。
平和がありませんと、国や民族といったレベルにおいてだけでなく、身近な所でも何と不幸で、大きな傷や損失をどんなに私たち自身に与えているでしょうか。平和がない時、人間は今以上に自分が傷つけられないために自分を守ることに終始し、心は疲弊し、潤いをなくし、カサカサに乾きます。小さなことにも過剰に反応し、攻撃的になり、やられたことの何倍をも仕返しをします。結局、自分をも醜くします。
逆に平和がある時、私たちは、神が本来私たち一人一人に与えておられる良い個性を伸ばし、賜物を発揮しやすく、神にも人にも喜ばれるようにそれを生かすことも可能になり、自分も満たされ、幸せです。平和であることは、不安や心配がないだけでなく、神に造られた者として私たちは互いに感謝し、助け合って生きることや、イエス・キリストを通して神の素晴らしさをもっともっと知ることを可能にし、私たちに最高の充足感も与えます。平和って、何と尊いでしょう。
イエス・キリストへの信仰によりクリスチャンになることを許された者は、罪と永遠の死から救われるだけでなく、この素晴らしい平和を造るためにも救われたのです。
では、そのためにどんなことが大切でしょうか。国と国といったレベルの平和は、高度に政治的な視野や知識や判断力が必要ですが、基本はやはり人と人との間の平和です。それにはどんなことが大切でしょうか。
その前に、根本的なことを心に留めたいと思います。私たちが自分の罪深さを心から認め、悔い改め、イエス・キリストへの信仰によって罪を赦され、まず神と和解させて頂く必要があります。Ⅱコリント5:20は言います。「神と和解させて頂きなさい」と。すなわち、人間の自己中心的な罪に怒っておられる真(まこと)の神との関係の修復が不可欠なのです。感謝なことに、それはただイエス・キリストへの信仰によって可能です。
その上で、神に自分を作り変えられ、清められ、神に力を与えられることが大切です。すると、未だ(いまだ)に罪の残り滓(かす)を持つ私たちをも、神は平和の道具として用いて下さいます。
以上、根本的なことを確認しました。では、平和を造るために、具体的にはどういうことが大切でしょうか。ヤコブ1:19は「人は誰でも、聞くのに早く、語るのに遅く、怒るのに遅くありなさい」と言います。
ここから教えられる第一の点は、「聞くのに早く」、つまり、人の言葉をまず良く聞くことです。昨年、当教会の教会学校成人科の学び『キリスト教と医療』の中でもお話しましたが、じっくり耳を傾け、人の言うことを正確に、また全体的に理解する傾聴が何より不可欠です。人の言葉をいい加減に聞いて早とちりや誤解をし、そこから不信感が生じ、争いに発展することが何と多いでしょうか。まして先入観や思い込みで人の話を聞けば、どうなるでしょうか。
大切な平和を築くために、私たちはまず自分の耳を良く管理したいと思います。実はローマ10:17が「信仰は聞くことから始まります」と言うように、信仰も聞くことが鍵を握るのです。「聞くのに早く」とは何と重要なことでしょうか。
二つ目は「語るのに遅く」です。第一の点と表裏一体のこのことも何と大切でしょうか。
人がまだ話をしている途中なのに、平気で自分の話を始める人も結構います。残念なことに、そういう人は、主イエスが幸いだと言われる「平和を造る者」にはなりにくいでしょう。相手を尊ぶのではなく、自分が中心で、自分が第一だからです。とにかく、私たちが相手を思いやることを忘れて、自分の思ったことを、よく考えないで直ちに口から出すなら、争いが起きやすいのは、火を見るよりも明らかですね。
まず自分の耳、次に自分の口をしっかり管理し、支配し、コントロールしたいと思います。詩篇141:3のように「主よ、私の口に見張りを置き、私の唇の戸を守って下さい」と、神に真剣に祈りつつ努めたいと思います。
三つめは「怒るのに遅く」です。大切な平和を造るために、第一に耳、第二に口、そして第三に自分の心、特に自分の怒りの感情を支配することは何と大切でしょうか。ヤコブ1:20が「人の怒りは神の義を実現しない」と言う通りです。
怒りに任せて相手をなじり、暴言を吐き、取り返しのつかないことになった例は、枚挙に暇(いとま)がありません。恐らく、私たちも大なり小なりこの点で苦い失敗をしていると思います。
無論、怒りが全て駄目なのではありません。正しい怒りもあります。イエスは余りに偽善的な人たちや頑なな人たちに怒られました(マルコ3:5)。またローマ1:18は「不義によって真理を阻んでいる人々のあらゆる不敬虔と不義に対して、神の怒りが天から啓示されている」と、神の聖なる怒りを教えます。
しかし私たち罪人は、自分の感情、特に怒りを意識的に支配する必要があります。神が喜んで下さる平和を造るために、それは絶対に必要です。
他の点で更に言いますと、第四に柔和であること(マタイ5:5)、第五にそれに伴って優しい笑顔と感謝を忘れず、第六に人をすぐ裁かず(マタイ7:1)、第七に犠牲を払ってでも平和を造ろうとすることが重要です。
何か不和が生じた時、相手に非があってもなくても、まず自分から仲直りせよ、とイエスはマタイ5:23以降で言われます。相手が悪い時、私たちはまず相手に謝罪を要求しがちですが、イエスは「不和を感じたあなたから仲直りしなさい」と言われます。
よく考えれば、神を無視し、神に背を向けていた私たちに、神はご自分から御子イエスを遣わされ、十字架につけてまで、和解の手を差し出されました。神にそんなことをする義務はありません。ところが、神はそれをされたのです。何という神の愛でしょう!ですから、神に罪を赦された私たちクリスチャンも、是非、自分からそうしたいと思います。
最後に、幸いの理由として、イエスが「その人たちは神の子供と呼ばれるから」と言われたことを学んで終ります。
私たちはイエス・キリストを信じて洗礼を受けた時に、神の子供という身分を頂きますが、ここはそのことを言っているのではありません。クリスチャンとしての生活を続けるうちに、実質的にも神の子供と呼ばれる者にされていくというという、その点をイエスはおっしゃっています。
神の最も麗しいご性質は、御子イエスの十字架の血によってご自分から私たち罪人と和解し、ご自分との間に平和を造って下さったその愛に表されています。従って、自ら進んで一生懸命、平和を造ろうとする信仰者は、まさに神に似る人と言えるでしょう。神は、この世でもそういう人をいよいよご自分の子供とお呼びになり、世の終りには、それを公に宣言され、永遠の神の国を継がせられます。ですから、イエスは断言されます。「平和を造る者は幸いです!その人たちは神の子供と呼ばれるからです!」
私たちは、平和を愛するだけでなく、主イエスの御霊に強められて、具体的にも自ら進んで平和を造り、それを通して私たちを一層ご自分の子供にならせたいと熱い愛をもって願っておられる天の父なる神に、是非、喜ばれる者に、皆でならせて頂きたいと思います。
皆様もご存じと思いますが、11世紀の終りから12世紀の初めに生きましたアッシジのフランチェスコの「平和の祈り」の一部を読んで終ります。
「主よ、私をあなたの平和の道具にして下さい。憎しみのある処に愛をもたらし、争いのある処に赦しを、疑いのある処に信仰を、絶望のある処に希望を、闇のある処に光を、悲しみのある処に喜びをもたらす人にして下さい。主よ、慰められるよりも慰めることを、理解されるよりも理解することを、愛されるよりも愛することを求めることが出来ますように。」