2025年01月23日「イエスの祈りとそのお姿 ⑷」
問い合わせ
イエスの祈りとそのお姿 ⑷
- 日付
- 説教
- 田村英典 牧師
- 聖書
ヨハネによる福音書 17章1節~4節
聖書の言葉
17:1 これらのことを話してから、イエスは目を天に向けて言われた。「父よ、時が来ました。子があなたの栄光を現すために、子の栄光を現して下さい。」
17:2 あなたは子に、全ての人を支配する権威を下さいました。それは、あなたが下さった全ての人に、子が永遠の命を与えるためです。
17:3 永遠の命とは、唯一の真(まこと)の神であるあなたと、あなたが遣わされたイエス・キリストを知ることです。
17:4 私が行うようにと、あなたが与えて下さった業を成し遂げて、私は地上であなたの栄光を現しました。
ヨハネによる福音書 17章1節~4節
メッセージ
関連する説教を探す
「イエスの祈りとそのお姿 ⑷」として、今日も聖書に学びたいと思います。
前回は、ルカ22:31、32から、イエスが祭司として、ペテロや私たち弱いクリスチャンのために、特に信仰がなくならないように父なる神に執り成して下さっていることを学びました。今日は、ヨハネ17:1以降のイエスの祈りから、私たちがどんなにイエスに愛されているかを学びたいと思います。
ヨハネ福音書17章全体に記されている祈りは、昔から「大祭司イエスの祈り」と呼ばれ、無数のクリスチャンが慰められ、励まされて来ました。1節をもう一度読みます。「これらのことを話してから、イエスは目を天に向けて言われた。『父よ、時が来ました。子があなたの栄光を現すために、子の栄光を現して下さい。』」
この祈りに、私たちは「アレっ?」と思うかも知れません。2回前の祈祷会で学びましたように、イエスはご自分の栄光を求められないからです。ヨハネ8:50、54でイエスは「私は自分の栄光を求めません。…私がもし自分自身に栄光を帰するなら、私の栄光は空しい。私に栄光を与える方は、私の父です」と言われました。
では、17:1の祈りはどういうことでしょうか。私たち罪人が自分の栄光を求めて祈ることはあってはなりませんが、イエスのご本質は神ですから、こう祈られても変ではないと言えましょう。
しかしそれ以上に、イエスは1節「あなたの栄光を現すために、子の栄光を現して下さい」と、つまり、あくまで父なる神の栄光が現されるための手段として、ご自分の栄光が現されることを祈られたのです。
それでは、どんなことがご自分の栄光だとイエスはお考えなのでしょうか。4節から分りますように、それは父の御旨(みむね)通りの業(わざ)を行なうことです。今の場合、それは特にご自分が十字架で命を捧げることで贖いが完成し、また復活の後、世界的な規模で私たち罪人を救う働きをしっかり始めることでした。ですから、2節でイエスは、「あなたは子に、全ての人を支配する権威を下さいました。それは、あなたが下さった全ての人に、子が永遠の命を与えるためです」と祈られました。
つまり、「十字架の死により、いよいよ救いの業(わざ)をさせて下さい」というのが、「子の栄光を現して下さい」という内容でした。苦しい十字架を前にしつつも、イエスは、もうその先の救いの時の到来を見て、それを待ち望んでおられたのです。それがイエスの何よりの望みであり喜びでした。私たち罪人を罪と永遠の悲惨から救い、解放し、そうして父なる神の栄光を現すために、イエスには、十字架の苦しみさえも栄光だったのです。
ここまで天の父を、また私たち罪人を愛し、私たちの救いを何より祈り願われる主イエス!何というイエスの愛でしょうか。この主イエスの祈り、またお姿を、私たちは決して忘れたくないと思います。
次にもう一つ、このイエスの愛は、私たち信仰者に与えて下さる永遠の命ということにもよく表わされている点を見たいと思います。2節の終りでイエスは永遠の命に触れ、3節でこう祈られます。「永遠の命とは、唯一の真(まこと)の神であるあなたと、あなたが遣わされたイエス・キリストを知ることです。」
主がご自分を「イエス・キリスト」と言われるのは、少し変な感じもしますが、後の20節から分りますように、イエスは、弟子たちや、もっと先にその彼らの言葉から信仰をやがて持つ者たちのことも念頭に置いて、このようにご自分を言われたのでしょう。
それはともかく、大事なことは、私たちに永遠の命を与えることを、イエスはご自分の栄光と考えておられることです。
イエスは、「永遠の命とは、唯一の真(まこと)の神であるあなたと、あなたが遣わされたイエス・キリストを知ること」だと言われます。「知る」とは、体験する程の親しい交わりを意味します。つまり、永遠の命は単に時間的に永遠というのではありません。罪深く有限な者である私たちが、ウェストミンスター小教理問答の問4が答えますように、「その存在、知恵、力、聖、義、慈しみ、まことにおいて、無限、永遠、不変の霊」であられる生ける真の、そして父・子・聖霊なる三位一体の神と、何にも妨げられず、これ以上ない親しい最高の交わりを許されることです。
しかも、こういう交わりを持つことをイエスご自身が希望され、これをご自分の栄光とまでしておられる!何というイエスの愛でしょうか!ひたすら天の父の栄光が現されることを願い、そこで私たちのために十字架の死をもご自分の栄光とされ、そうまでして、まだ罪と弱さがいっぱいの私たちとの交わりを願われるイエス!何という光栄また喜びでしょうか。
この主イエスに絶えず目を留めるため、最後にヘブル12:2の御言葉を読み、改めて深く心に刻みたいと思います。「信仰の創始者であり完成者であるイエスから、目を離さないでいなさい。この方は、ご自分の前に置かれた喜びのために、辱めをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されたのです。」