天の御国(みくに)の譬え
- 日付
- 説教
- 田村英典 牧師
- 聖書 マタイによる福音書 13章44節~50節
13:44 天の御国(みくに)は畑に隠された宝のようなものです。その宝を見つけた人は、それをそのまま隠しておきます。そして喜びのあまり、行って、持っている物全てを売り払い、その畑を買います。
13:45 天の御国はまた、良い真珠を探している商人のようなものです。
13:46 高価な真珠を一つ見つけた商人は、行って、持っていた物全てを売り払い、それを買います。
13:47 また、天の御国は、海に投げ入れてあらゆる種類の魚を集める網のようなものです。
13:48 網がいっぱいになると、人々はそれを岸に引き上げ、座って、良いものは入れ物に入れ、悪いものは外に投げ捨てます。
13:49 この世の終わりにもそのようになります。御使いたちが来て、正しい者たちの中から悪い者どもをより分け、
13:50 火の燃える炉に投げ込みます。彼らはそこで泣いて歯ぎしりするのです。マタイによる福音書 13章44節~50節
マタイ福音書の13章には、主イエスの語られた譬え話が7つあります。種蒔き、毒麦、辛子種、パン種、畑に隠された宝、高価な真珠、投げ網の譬えです。今朝は、最後の3つから大切なことを教えられたいと思います。
第一は、畑に隠された宝の譬えです。
44節「天の御国(みくに)は畑に隠された宝のようなものです。その宝を見つけた人は、それをそのまま隠しておきます。そして喜びのあまり、行って、持っている物全てを売り払い、その畑を買います。」
ここの「天の御国」は、いわゆる天国のことではありません。今この世で、人を霊的に生れ変らせ、悔い改めと信仰を与えて罪と滅びから救い、神の子供とする神の恵みのご支配を指します。それは既に始まり、世の終りに完成します。その間に世を去るクリスチャンは直ちに神の御許(みもと)に召され、世の終りの復活の時までそこで休みます。しかしここでは、今この世で始まっています天の御国の素晴らしさを、イエスは譬えで教えておられます。
昔は、戦争で家を壊されるとか強盗による略奪も多く、宝を土の中に隠すことがよくありました。この譬えでは、宝を畑に隠した元の持主は亡くなり、畑は何も知らない別の人の手に渡り、そして偶然宝を発見した人は、その人に使われている小作人でしょう。彼は驚き、宝をそのまま隠し、喜び勇んで家に帰り、自分の持ち物を全部売ってその畑を買いました。違法な点はありません。
イエスはこの譬えで、天の御国はあまりにも素晴らしいので、他の何を犠牲にしてでも、それに与る価値があることを強調されます。
第二は、高価な真珠の譬えです。45、46節「天の御国はまた、良い真珠を探している商人のようなものです。高価な真珠を一つ見つけた商人は、行って、持っていた物全てを売り払い、それを買います。」
真珠は上品で美しく、今でも高価です。古代社会では、良い真珠はペルシア湾やインド洋で見つかり、驚くほど高価でした。譬えの中の真珠商人は、更に良い真珠を求めて探した結果、今まで見たこともない最高の真珠を遂に発見し、魅了され、それが欲しくて自分の持ち物を売り払って獲得しました。
これらの譬えで、イエスは何を教えておられるのでしょうか。無論、天の御国の素晴らしさです。このことを私たちも今朝、改めて是非確認したいと思います。実際、天の御国以上に素晴らしいものは存在しません。
第一に、イエス・キリストにより天の御国の恵みに与った者には、永遠の命があります。
この世でどんなに大成功し、満足な人生を送れたとしても、人はやがて必ず死に、生きていた時の自分の思いと言葉と行いの一切合切について、神の裁きを受けます。ヘブル4:13と9:27は言います。「神の目には全てが裸であり、さらけ出されて」おり、「人間には、一度死ぬことと死後に裁きを受けることが定まっている」と。
主イエスから永遠の命を頂くとは、最後の審判で私たちがあらゆる罪の赦しを神から公(おおやけ)に宣言され、また私たちが神と人のためにしましたどんなに小さな奉仕も全て報われ、痛みも涙もない慰めの内に、主と共に永遠に生きることができるということです。永遠とは、時間を超越した状態です。たとえ、この世での命が短く、辛いことばかりの人生だとしても、決して空しくありません。それが永遠の命です。
第二に、天の御国の恵みに与った信者には、この世でも真(しん)に清い喜び、感謝、満足があります。何故なら、神の御言葉に従う生き方は、神に創られた私たち人間の本性に最も適った、真実で清い、幸いな生き方だからです。ですから、苦労はあっても、御国の恵みに与った者には、創り主なる神を無視したり神に背き、自分の考えや願望を第一にする生き方とは違って、この世が与えることもこの世が奪うこともできない真に清い喜びと感謝と満足があります。
第三に、天の御国の恵みに与った信仰者には、自分が神に愛されていることを知る最高の喜びと平安があります。
幼児期に親の愛をあまり体験しなかった人は、成人しても心が不安定で、良い人間関係も築きにくく、逆に親の愛をよく体験している人は、心が比較的安定し、良い人間関係も築きやすいと言われます。まして、天地を創られた真(まこと)の神に、それも御子を十字架につけられた程の愛で愛されているのを知っている人には、どんなに大きな平安や喜び、幸福感があることでしょうか。
私は時々パソコンで赤ちゃんや犬や猫の動画を見ます。犬や猫が赤ちゃんに何をされても怒らず、優しく、ある犬などは、赤ちゃんの体の上にかけられていた布のカバーが横に落ちているのを見て、自分の鼻を使って一生懸命その布のカバーを赤ちゃんの上にかけてやろうとする動画もあります。素晴らしいです。また猫と犬がくっつき合って眠り、互いに優しくしているのもあります。そういうのを見ますと、私はすごく嬉しく、「あぁ、聖書の教え通り、大切なのは結局愛なのだなぁ。神様、あなたがイエス様により、私のような者も愛して下さり、また愛こそが最終的に最も尊いことを、こうしてまた教えて下さり、感謝致します!」と、本当に毎回思います。Ⅰコリ13:4~7、13は言います。「愛は寛容であり、愛は親切です。また人を妬みません。愛は自慢せず、高慢になりません。礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、苛立たず、人がした悪を心に留めず、不正を喜ばずに、真理を喜びます。全てを耐え、全てを信じ、全てを望み、全てを忍びます。…いつまでも残るのは信仰と希望と愛、これら三つです。その中で一番優れているのは、愛です。」
天の御国の素晴らしさを見ましたが、それだけに、ここからとても大切な他のことも改めて教えられます。既にいくらか触れましたが、それは、どんな犠牲を払ってでも私たちは天の御国の恵みに与るべきだということです。
畑に隠された宝を発見した人は偶然であり、高価な真珠を見つけた商人はずっと探していました。同じように、福音に出会って御国の素晴らしさを発見することが、偶然な人もいれば、真理と救いを探求して遂に、という人もいます。どちらでもかまいません。大切なことは、宝や真珠を発見し、それを得るために持ち物を全部売り払った人たちのように、これはどんな犠牲を払ってでも獲得すべきだということです。
単に「キリスト教はいい宗教だ」ではなく、自分の何かを犠牲にしてでも、天の御国を得なさい、とイエスは言われるのです。天の御国は、この世のどんなものとも比較にならない位、大切なものだからです。価値が全く違います。ですから、パウロは言いました。ピリピ3:8「私の主であるキリスト・イエスを知っていることの素晴らしさの故に、私は全てを損と思っています。私はキリストの故に全てを失いましたが、それらは塵芥(ちりあくた)だと考えています。」
前にもお話ししましたが、1597年2月5日、豊臣秀吉の迫害下で26人の切支丹(キリシタン)が長崎で殉教しました。最年少の12歳の少年ルドヴィコ茨木は、「信仰を捨てるなら、私はお前を救ってやる」と言う武士に、「あなた様が切支丹となって、私と一緒に天国へ来て下さるといいのですが」と答え、十字架上で最後まで賛美を歌いました。死の教育や死生学で有名な元上智大学教授A.デーケン氏は、この話を12歳の時にドイツの図書館で知り、日本へ来る志を持ったそうです。神の御子イエスが命を献げてまで私たちにただ信仰により与えて下さる天の御国を、私たちもどんな犠牲を払ってでも、是非、獲得したいと思います。
それを三つ目の投げ網の譬え話からも確認して、今朝の説教を終ります。
47~50節「また、天の御国は、海に投げ入れてあらゆる種類の魚を集める網のようなものです。網がいっぱいになると、人々はそれを岸に引き上げ、座って、良いものは入れ物に入れ、悪いものは外に投げ捨てます。この世の終りにもそのようになります。御使いたちが来て、正しい者たちの中から悪い者どもをより分け、火の燃える炉に投げ込みます。彼らはそこで泣いて歯ぎしりするのです。」
厳しい御言葉ですが、説明は殆ど要らないでしょう。網を岸へ引き上げますと、中には色々な物が入っていて、漁師は良い物は取り分け、不要な物は捨てます。同じように、天の御国の価値を認めず、求めもせず、そうして自分で自分を天の御国にとって不要な者にしてしまう人は、世の終りの審判で永遠に滅ぼされます。「ですから、この世の宝以上に遥かに貴い天の御国を、あなたも必ず獲得しなさい」とイエスは言われるのです。
のちに多くの人が主イエスから離れて行った時、ペテロはイエスに言いました。ヨハネ6:68「主よ、私たちは誰の所に行けるでしょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。」
私たちを何としても天の御国の祝福に与らせたいと思っておられる主イエスの熱い愛を覚えて、私たちも確信をもって、またペテロのように喜んで、主の愛にお応えしたいと思います。そのためにも、今年の当伝道所の標語のように、「福音の喜びに共に生きる」ことを、是非、皆で励まし合って行きたいと思います。