2025年01月09日「イエスの祈りとそのお姿 ⑵」

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イエスの祈りとそのお姿 ⑵

日付
説教
田村英典 牧師
聖書
ヨハネによる福音書 8章50節~54節

聖句のアイコン聖書の言葉

ヨハネ8:50 私は自分の栄光を求めません。……
   8:54 私がもし自分自身に栄光を帰するなら、私の栄光は空しい。私に栄光を与える方は、私の父です。

ヘブル5:7 キリストは、肉体をもって生きている間、自分を死から救い出すことができる方に向かって、大きな叫び声と涙をもって祈りと願いを献げ、その敬虔のゆえに聞き入れられました。ヨハネによる福音書 8章50節~54節

原稿のアイコンメッセージ

 今日は何を話そうかと、実は少し迷いました。というのは、先週の新年祈祷会でお話した、つまり、主イエスの祈りとそのお姿のことが頭から離れないからです。そこで、今日もそれをお話させて頂こうと思います。

 今日、主イエスの祈りとお姿から教えられることの一つは、イエスはただただ父なる神の栄光をお求めになり、当然、祈りでもそうであられた、ということです。これは、祈りの中でもイエスは決してご自分の栄光を求めることをなさらなかったということです。

 何故こういうことを取り上げるのかといいますと、罪は人間のあらゆる部分に及び、祈りも例外ではないという現実があるからです。その良い例が、ルカ福音書18:10~12のイエスの譬え話に見られますので、読んでみます。10節「二人の人が祈るために宮に上って行った。一人はパリサイ人で、もう一人は取税人であった。パリサイ人は立って、心の中でこんな祈りをした。『神よ、私が他の人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦淫する者でないこと、あるいは、この取税人のようでないことを感謝します。私は週に二度断食し、自分が得ている全てのものから、十分の一を献げております。』」

 内面を探りますと、結局、この人は、他人と自分を比べ、祈りの中でも自慢をしています。言い換えますと、自分に栄光を帰しています。自分では神に感謝し、神に栄光を帰している積りでしょう。しかし、彼の祈りをよくよく分析しますと、自分に栄光を帰し、自分に満足しています。

 それは主イエスのお姿からは、ほど遠いものです。主はヨハネ福音書8:50、54で「私は自分の栄光を求めません。…私がもし自分自身に栄光を帰するなら、私の栄光は空しい。私に栄光を与える方は、私の父です」とおっしゃっています。このことから、イエスが祈りにおいてもひたすら父なる神の栄光をのみ求められたことは、容易に想像できます。ですから、弟子たちに祈りの模範として教えられた主の祈りでも、イエスは何よりも先に「御名を崇めさせ給え」と祈るようにお教えになりました。これがイエスご自身の徹底した祈りでもあったのです。

 私たちも愛する主イエスに倣い、決して己を誇るような祈りではなく、ただひたすら、天の御父にのみ栄光を帰する祈りに、改めて徹したいと思います。

 今日学びたいもう一つの点は、前回の学びの二つ目で、危機的な時には夜を徹してでも祈るという真剣な主イエスの姿勢を学びましたが、危機的な時には、神に向って叫び、涙を流し、是非、全身全霊を傾けて祈りたいということです。

 神は祈りを聞かれるかも知れないし聞かれないかも知れないからと、初めから気持ちを抑えたような祈りではなく、また人の目と耳を気にしてではなくー、無論、時と場によっては、その配慮も必要ですがー、危機的な時には本当に全身全霊を傾けて祈りたいと思うのです。

 神の御子でありながらも、イエス・キリストは、一人の人間として感情を込め、それこそ叫び声と涙をもって激しく祈られました。ヘブル人への手紙5:7は言います。「キリストは、肉体をもって生きている間、自分を死から救い出すことができる方に向かって、大きな叫び声と涙をもって祈りと願いを献げ、その敬虔のゆえに聞き入れられました。」

 これは、特には十字架を前にしたゲツセマネの園におけるイエスのお姿を取り上げていると思います。しかしその前にも、ご自分の死の近づきをハッキリ意識された時、ヨハネ福音書12:27、28を見ると分りますように、主は「今私の心は騒いでいる。何と言おうか。『父よ、この時から私をお救い下さい』と言おうか。いや、このためにこそ、私はこの時に至ったのだ。父よ、御名の栄光を現して下さい」と、心が騒ぎ、やや取り乱し混乱する中、独り言も口にして、祈っておられます。このように、私たちは、主イエスが、無論、罪は別であり、究極的には天の父なる神の栄光をのみ求めてですが、私たちと全く同じ生身(なまみ)の人間として感情を露(あらわ)にし、天の父に向って叫び、涙を流し、泣いてすがりつき、祈られるお姿を見ます。

 それなら、どうして私たちもそうしていけないでしょうか。またそうしないのでしょうか。幼子は、悲しい時、怖い時には、人目もはばからず、大声を上げて親に助けを求め、泣いてすがりつきます。私たちの主イエスが、ご自分のそういうお姿を見せ、聖書にそれを記録させられたことの意味は大きいと思います。

 いつもいつもそうなのではありませんが、本当にどうしようもなく心配で、不安で、怖くて辛い時、私たちも是非、神にそのように全身全霊を傾けて、すがりたいと思います。すると神は、聖霊の助けによってか、ルカ福音書22:43が伝えます主イエスの時のように天使によってかはともかく、必ず私たちの魂を堅く守り、その困難を通り過ぎさせて下さるでしょう。

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