2025年01月05日「福音の喜びに共に生きる教会を目指して」

問い合わせ

日本キリスト改革派 岡山西教会のホームページへ戻る

福音の喜びに共に生きる教会を目指して

日付
説教
田村英典 牧師
聖書
フィリピの信徒への手紙 2章1節~4節

Youtube動画のアイコンYoutube動画

Youtubeで直接視聴する

聖句のアイコン聖書の言葉

2:1 ですから、キリストにあって励ましがあり、愛の慰めがあり、御霊の交わりがあり、愛情とあわれみがあるなら、
2:2 あなた方は同じ思いとなり、同じ愛の心を持ち、心を合わせ、思いをひつにして、私の喜びを満たして下さい。
2:3 何事も利己的な思いや虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに人を自分よりすぐれた者と思いなさい。
2:4 それぞれ、自分のことだけでなく、ほかの人のことも顧みなさい。フィリピの信徒への手紙 2章1節~4節

原稿のアイコンメッセージ

 新年礼拝を今朝持つことができ、心から神に感謝致します。

 弱くて迷いやすいくせに、結構、頑固な羊によく似ている私たちを、天におられる主イエス・キリストが魂の羊飼いとして、御言葉と御霊により絶えず教え、戒め、義の道に導いて下さることを心から願います。

 週報の表紙に記しましたが、今年の教会標語は「福音の喜びに共に生きる教会を目指して」です。これが基づく聖書箇所はピリピ書2:2です。12月の伝道所委員会でこれを決めました。今朝は、この標語に導いて下さった神を覚えつつ、ここから神の大切な御心を学びたいと思います。

 第一に心に留めたいことは、喜びに生きることの大切さです。

 ピリピ書は昔から「喜びの書簡」と呼ばれて来ました。喜びの教えが全体に満ちているからです。今回、私は、説教を作る前にピリピ書を改めて初めから終りまで読み返しました。驚く程、喜びという言葉が多く、使徒パウロの息遣いを感じるぐらいでした。

 さて、2節は言います。「あなた方は同じ思いとなり、同じ愛の心を持ち、心を合わせ、思いを一つにして、私の喜びを満たして下さい。」ここでパウロは、「私の喜びを満たして下さい」とお願いしますが、2:18では「…あなた方も喜んで下さい。私と共に喜んで下さい」と喜びを求めています。3:1や4:4では「最後に、私の兄弟たち、主にあって喜びなさい。…いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい」と、ピリピ教会の信徒たちに喜ぶことを教え、命じています。しかし、それは何のためにでしょうか。

 その前に一つ確認しておきます。この喜びは、3:1でも4:4でも言いますように、「主にあって」の喜びです。すなわち、主イエスの計り知れない救いの愛と恵みの故であり、慈しみに満ちた主イエスに結ばれている最高の幸せ故の喜びです。教会標語が掲げる「福音の喜び」は、この喜びに他なりません。

 単に物事が巧く(うまく)運び、仕事や勉強が順調で、体調が良く、周囲の皆と巧く行き、美味しい物が食べられ、好きなことができるからの喜びではありません。もっと根本的な喜びです。すなわち、神が天地創造の前から御子イエスを通して私たちを一方的に愛し、選び、ただ御子イエスへの信仰の故に私たちのあらゆる罪を赦し、義と認め、ご自分の子とし、永遠の救いに与らせて下さる故の喜びです。

 更に言いますと、1:6にありますように、私たちの中で「良い働きを始められた」神ご自身が、「キリスト・イエスの日が来るまでにそれ(つまり、救いと諸々の良い働き)を完成させて下さる」という確かな約束故の喜びであり、3:20が言いますように、私たちの国籍が天にある故の喜びです。

 そこで話を戻します。クリスチャンは、聖書が繰り返し教えますように、自覚的に福音の喜びに、是非、生きるものでありたいと思います。では、聖書は何故そう教えるのでしょうか。

 一つの理由は、3:1でパウロが書いていますように、私たちの「安全のため」です。

 これはどういう意味でしょう。パウロは続く3:2で「犬どもに気をつけなさい。悪い働き人たちに気をつけなさい」と注意し、その後、説明していますが、皆を再びかつてのユダヤ教のような戒律主義に引き入れようとする、いわゆるユダヤ主義の異端者たちがいたからです。紀元1世紀のピリピ教会では、そういう危険性があったのでした。

 危険性ということでは、しかし、他にもあります。実は、福音の喜びに生きていませんと、当然、イエス・キリストとの繋がりは弱くなります。そうすると、魂の救いとは無関係な世俗的な他のことに気持や興味が移り、あるいは、この世のことに大きく心を掻き乱され、気づかない内にそれらに絡め取られ、魂は危険な状態になりかねません。

 一方、福音の喜びに自覚的に生きていますと、やはり違います。社会に何か良くない変化が起ったり、心を騒がせ、ざわつかせるようなことが起り、私たちの心が揺さ振られても、それ以上にはなりません。その時は気づいていなくても、イエス・キリストが私たちの魂を必ず固くお守り下さるからです。

 イエスが語られたマタイ福音書7章の「岩の上に家を建てた賢い人」の譬え話を思い出します。福音を喜び、イエスの御言葉を行なってイエスに結びついている人は、雨、洪水、風に譬えられる色々な厳しい試練や惑わしにあっても、大丈夫、安全なのです。何故なら、死の力さえ打ち破って復活された神の御子イエスが、頑丈な岩盤となって下から私たちを支えて下さるからです。福音の喜びに生きることは、感謝なことに、私たちの魂を安全に守るのです。

 福音の喜びに生きる大切な理由を、もう一つ、確認致します。何でしょう。天地の創り主なる生ける真の神とその独り子なる救い主イエス・キリストを、私たちの周りの方々に良く証しできるからです。

 福音の喜びが希薄で、例えば、礼拝が終って教会から出て来た時に私たちが詰まらなさそうな顔をし、大欠伸(おおあくび)をし、あるいは、俗っぽい話にワイワイガヤガヤ言って花を咲かせているようなら、私たちを見る人は、「この人たちは何なんだろう。キリスト教って、こんなものか」と、いぶかしく思うでしょうね。これは職場や学校や地域社会にあっても同じです。

 その反対に、私たちが決して無理をしてではなく、ただ普段からⅠテサロニケ5:16~18が言いますように、いつも喜び、絶えず祈り、全てのことにおいて感謝し、特に福音の喜びに生きているならどうでしょうか。人は多くの場合、喜びと笑顔のある人に興味を覚え、魅力を感じ、近寄って来ますし、話に耳を傾けるものです。

 私たちクリスチャンとイエス・キリストの体である教会の最も崇高な使命が、福音宣教・伝道にあることを思いますと、今年の教会標語が言います「福音の喜びに生きる」ことは、何と大切でしょうか。主はどんなにこれを喜ばれることでしょうか。

 そこで最後に、福音の喜びに「共に」生きるために留意したい点を見て終ります。

 ピリピ2:1~4からすぐ分りますように、その一つは互いの愛です。

 無論、私たちは夫々生れも性格もかなり違います。従って、愛の大切さは分っていましても、その実践となると、とても難しいと皆思いますね。

 しかし、ここで覚えたいことがあります。愛は、誰かへの好きという感情ではありません。そうではなく、その人に感謝を覚え、その人を大切に思うことです。その人の良い点を心に留めて感謝し、その人を大切に思うと、私たち自身の気持が変ります。是非そのようにして、夫々が愛を自分の中で育み、福音の喜びに共に生きることを、神に励まされたいと思います。 

 もう一つは、交わりを尊ぶことです。2節でパウロは、「あなた方は同じ思いとなり、同じ愛の心を持ち、心を合わせ、思いを一つにして」と言います。

 教会と教会生活について、皆が自分の考えや遣り方(やりかた)に固執し、気持も行動もバラバラでは、福音の喜びに共に生きることはできません。無理です。

 そこで大切なのは交わりです。これは、ただ一緒にお茶を飲み、お菓子を食べ、楽しい話をすることではありません。お互いの信仰を認め、ウェストミンスター小教理問答の問1が言いますように「神の栄光を讃え(あるいは、神の栄光を現し)、神を永遠に喜ぶ」という私たちの究極の、そして共通の目的を覚え、信仰による温かくて真実なコミュニケーションを持つことです。

 そのためには、ピリピ書2:3、4が教えますように、利己的な思いや虚栄を捨て、お互いの良い所を評価し、自分のためではなく、相手の益のために自分を提供することです。これが教会の交わりです。すると、私たちはますます他の人のことがよく分り、思いを一つにすることが、より可能になるでしょう。

 愛と赦しに満ちた主イエス・キリストが、御霊により、福音の喜びに共に生きるために私たちを大いに励まし、手を取って導き、この一年も、どうか祝福して下さいますように。アーメン

関連する説教を探す関連する説教を探す