聖書の言葉 3:7 しかし私は、自分にとって得であったこのような全てのものを、キリストの故に損と思うようになりました。3:8 それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることの素晴らしさの故に、私は全てを損と思っています。私はキリストの故に全てを失いましたが、それらは塵芥(ちりあくた)だと考えています。フィリピの信徒への手紙 3章7節~8節 メッセージ 前回から、「キリストを知る幸い」について学んでいます。 クリスチャンへの迫害に意気込んでいた時、パウロは主イエスと出会い、180度自分を変えられました。彼は言います。ピリ3:8「私の主であるキリスト・イエスを知っていることの素晴らしさの故に、私は全てを損と思っています。私はキリストの故に全てを失いましたが、それらは塵芥(ちりあくた)だと考えています。」 主イエス・キリストの十字架と復活には、キリストを救い主と信じ、受け入れ、寄り頼む人の一切の罪を赦し、義とし、神の子とし、清め、永遠の命を与える絶大な力のあること、またこれ以上ない愛と清さと真実に満ちた主のご人格に触れ、主イエス・キリストを知れば知るほど、パウロは天地の造り主なる真(まこと)の神のことが本当の意味で分り、喜びに満たされていったのでした。 今日は、キリストを知ることに伴う幸いの一つ、「自由」に注目致します。 イエス・キリストは多くのユダヤ人たちに言われました。ヨハネ8:31、32「あなた方は、私の言葉に留まるなら、本当に私の弟子です。あなた方は真理を知り、真理はあなた方を自由にします。」その通り、イエス・キリストを知り、キリストの言葉に留まるなら、人は必ず自由を体験させられます。 そこで今日は、パウロがキリストを知って体験した特に二つの自由の内の一つを見ます。何でしょうか。前回にも少し触れましたが、それはこの世の価値観からの自由です。ピリピ3:8をもう一度読みます。彼は言います。「私の主キリスト・イエスを知っていることの素晴らしさの故に、私は全てを損と思っています。私はキリストの故に全てを失いましたが、それらは塵芥(ちりあくた)だと考えています。」 3:5で少し書いていますが、ユダヤ社会で押しも押されもせぬエリートであったパウロには、血筋、育ち、学歴、教養、道徳性、また強い意志に基づく決断力や実行力など、誇れるものは一杯ありました。しかし、今やそんなものはどうでも良かったのでした。今や彼には、永遠に価値あること、すなわち、ただイエス・キリストへの信仰による神からの一方的な罪の赦しと救いの恵み、神の愛の広さ、長さ、高さ、深さ、また永遠の命の喜びをハッキリと知り、それをもっと多くの人に知ってもらうことの方が、遥かに喜びでした。永遠に価値あるものを知るにつれ、この世の価値観から全く自由になりました。 イエス・キリスト、あるいは真(まこと)の神を知らなくても、多くの人が自分を自由だと考えています。しかし本当にそうでしょうか。「自分は自由だ」と言いながら、結構、人から評価されたり、注目されること、例えば、学歴や社会的地位の高さ、名声や収入の多さ、あるいは、教会員にはいないと思いますが、有名ブランドものの何かを持つことや最新の流行を追うことなどに汲々し、それに振り回されている人も少なくないのではないでしょうか。 フランスの実存主義哲学者、ガブリエル・マルセルが「所有と存在との区別」に注意している通り、何かを持っていることと自分が何者であるかとは全く違います。持ち物は決して自分自身ではありません。 21世紀の今も、どんなに多くの日本人が運勢や占いを気にし、自分や自分の家の運気を上げると思われるものを求めていることでしょうか。また、自分にも周りの人にも有害なことが分っていますのに、多くの人が煙草やギャンブルやお酒をやめられません。それでも自由と言えるでしょうか。 キリストと出会い、キリストを知ったパウロはどうでしょう。自分が神の御心(みこころ)に適って存在の根底から救われ、清められ、造り主なる真の神にもっと喜ばれる者でありたいという人格的深みにおける、しかも永遠まで連なる真(しん)に価値と意味のあるものを、切に求めました。そしてイエス・キリストにより、そうされることを何より喜びとしました。その結果、この世の多くの人が捕われている価値観からは、見事に自由でした。 故マザー・テレサの信仰と生き方に共鳴し、その働きに志願した多くの若い修道女たちは、インドのコルカタで貧しい人や路上で死を待つ人のために、毎日、朝早く起き、まず礼拝をし、町へ出て行きました。彼女らの個人的持物は2枚のサリーとバケツ1個だけです。しかし、彼女たちは何と生き生きとし、自由で、その目は何と輝いているでしょうか。 人は、天地を創られた真(まこと)の神とキリストへのただ信仰による永遠の命、そして私たち一人一人に注がれている神の愛と、それ故に神と隣人に愛をもって仕えることの喜びを知る時、初めて真(しん)の自由を味わうことができます。そのような自由を私たちに与えるためにも、人間となってこの世に来られた神の御子イエス・キリストを、御言葉によりもっとよく知ることで、この世の価値観では決して味わうことのできない、感謝に満ちた、生き生きとした魂の自由に与ることを、一層許されたいと思います。 関連する説教を探す 2024年の祈祷会 『フィリピの信徒への手紙』
前回から、「キリストを知る幸い」について学んでいます。
クリスチャンへの迫害に意気込んでいた時、パウロは主イエスと出会い、180度自分を変えられました。彼は言います。ピリ3:8「私の主であるキリスト・イエスを知っていることの素晴らしさの故に、私は全てを損と思っています。私はキリストの故に全てを失いましたが、それらは塵芥(ちりあくた)だと考えています。」
主イエス・キリストの十字架と復活には、キリストを救い主と信じ、受け入れ、寄り頼む人の一切の罪を赦し、義とし、神の子とし、清め、永遠の命を与える絶大な力のあること、またこれ以上ない愛と清さと真実に満ちた主のご人格に触れ、主イエス・キリストを知れば知るほど、パウロは天地の造り主なる真(まこと)の神のことが本当の意味で分り、喜びに満たされていったのでした。
今日は、キリストを知ることに伴う幸いの一つ、「自由」に注目致します。
イエス・キリストは多くのユダヤ人たちに言われました。ヨハネ8:31、32「あなた方は、私の言葉に留まるなら、本当に私の弟子です。あなた方は真理を知り、真理はあなた方を自由にします。」その通り、イエス・キリストを知り、キリストの言葉に留まるなら、人は必ず自由を体験させられます。
そこで今日は、パウロがキリストを知って体験した特に二つの自由の内の一つを見ます。何でしょうか。前回にも少し触れましたが、それはこの世の価値観からの自由です。ピリピ3:8をもう一度読みます。彼は言います。「私の主キリスト・イエスを知っていることの素晴らしさの故に、私は全てを損と思っています。私はキリストの故に全てを失いましたが、それらは塵芥(ちりあくた)だと考えています。」
3:5で少し書いていますが、ユダヤ社会で押しも押されもせぬエリートであったパウロには、血筋、育ち、学歴、教養、道徳性、また強い意志に基づく決断力や実行力など、誇れるものは一杯ありました。しかし、今やそんなものはどうでも良かったのでした。今や彼には、永遠に価値あること、すなわち、ただイエス・キリストへの信仰による神からの一方的な罪の赦しと救いの恵み、神の愛の広さ、長さ、高さ、深さ、また永遠の命の喜びをハッキリと知り、それをもっと多くの人に知ってもらうことの方が、遥かに喜びでした。永遠に価値あるものを知るにつれ、この世の価値観から全く自由になりました。
イエス・キリスト、あるいは真(まこと)の神を知らなくても、多くの人が自分を自由だと考えています。しかし本当にそうでしょうか。「自分は自由だ」と言いながら、結構、人から評価されたり、注目されること、例えば、学歴や社会的地位の高さ、名声や収入の多さ、あるいは、教会員にはいないと思いますが、有名ブランドものの何かを持つことや最新の流行を追うことなどに汲々し、それに振り回されている人も少なくないのではないでしょうか。
フランスの実存主義哲学者、ガブリエル・マルセルが「所有と存在との区別」に注意している通り、何かを持っていることと自分が何者であるかとは全く違います。持ち物は決して自分自身ではありません。
21世紀の今も、どんなに多くの日本人が運勢や占いを気にし、自分や自分の家の運気を上げると思われるものを求めていることでしょうか。また、自分にも周りの人にも有害なことが分っていますのに、多くの人が煙草やギャンブルやお酒をやめられません。それでも自由と言えるでしょうか。
キリストと出会い、キリストを知ったパウロはどうでしょう。自分が神の御心(みこころ)に適って存在の根底から救われ、清められ、造り主なる真の神にもっと喜ばれる者でありたいという人格的深みにおける、しかも永遠まで連なる真(しん)に価値と意味のあるものを、切に求めました。そしてイエス・キリストにより、そうされることを何より喜びとしました。その結果、この世の多くの人が捕われている価値観からは、見事に自由でした。
故マザー・テレサの信仰と生き方に共鳴し、その働きに志願した多くの若い修道女たちは、インドのコルカタで貧しい人や路上で死を待つ人のために、毎日、朝早く起き、まず礼拝をし、町へ出て行きました。彼女らの個人的持物は2枚のサリーとバケツ1個だけです。しかし、彼女たちは何と生き生きとし、自由で、その目は何と輝いているでしょうか。
人は、天地を創られた真(まこと)の神とキリストへのただ信仰による永遠の命、そして私たち一人一人に注がれている神の愛と、それ故に神と隣人に愛をもって仕えることの喜びを知る時、初めて真(しん)の自由を味わうことができます。そのような自由を私たちに与えるためにも、人間となってこの世に来られた神の御子イエス・キリストを、御言葉によりもっとよく知ることで、この世の価値観では決して味わうことのできない、感謝に満ちた、生き生きとした魂の自由に与ることを、一層許されたいと思います。