2024年11月24日「心のきよい者は幸いです」
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心のきよい者は幸いです
- 日付
- 説教
- 田村英典 牧師
- 聖書
マタイによる福音書 5章1節~10節
聖書の言葉
5:1 その群衆を見て、イエスは山に登られた。そして腰を下ろされると、みもとに弟子たちが来た。
5:2 そこで、イエスは口を開き、彼らに教えて、言われた。
5:3 「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだからです。
5:4 悲しむ者は幸いです。その人たちは慰められるからです。
5:5 柔和な者は幸いです。その人たちは地を受け継ぐからです。
5:6 義に飢え渇く者は幸いです。その人たちは満ち足りるからです。
5:7 あわれみ深い者は幸いです。その人たちはあわれみを受けるからです。
5:8 心のきよい者は幸いです。その人たちは神を見るからです。
5:9 平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるからです。
5:10 義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人たちのものだからです。マタイによる福音書 5章1節~10節
メッセージ
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今お読みしましたマタイ福音書の5:3~10は、約2千年前、全世界の救い主としてこの世に来られた神の独り子(ひとりご)イエスが話されたものです。ここでイエスは、真(まこと)の神を信じる信仰者の幸いな特徴を八つ話されます。今朝はその6番目、心の清いことの幸いを学びたいと思います。イエスは言われました。8節「心の清い者は幸いです。その人たちは神を見るからです。」
人間が頭で想像し、木や土や金属で人間が作った偶像の神々は元より論外ですが、天地万物、そして私たち人間を造られた真の神を、見ることができるなら、「見たい。お会いしたい」と思う人は少なくないと思います。
私は20歳の学生の時、イエス・キリストを自分の永遠の救い主と信じ、教会で洗礼を受け、クリスチャンになりました。それ以前の私は、何を確かなものとして自分は生きていけば良いのかと迷い、真実で絶対確かで永遠的なものを求めていました。人生についての本や西洋の小説をよく読み、また学友の一人がクリスチャンになったこともあり、キリスト教と神のことが段々気になって来ました。
しかし、どうしても分らないことがありました。神はおられるのか、ということです。私は「神が見えたらいいなぁ。夢の中に神が現れて下さったらいいのに」とよく思ったものです。「神が見えたらいいな」と思う人は少なくないと思います。が、まさにそんな私たちにイエスは言われます。8節「心の清い者は幸いです。その人たちは神を見るからです」と。そうです。神を見ることができるのです。
但し、一つ、条件があります。何でしょうか。「心の清い」ことです。幸いにも、「心の清い」人は神を見ることができるのです。ところが、こう言われると、私たちは困惑しないでしょうか。何故なら、私たちは皆、自分の心が清くなく、むしろ、人に知られたくない汚い部分が一杯あることがよく分っているからです。嘘、ごまかし、偽善、欺瞞、ずるさ、意地の悪さ、欲深さ、妬み、傲慢さ、自己中心など一杯あります。全知全能の神は、それらを全てご存じです。ヘブル4:13は言います。「神の御前(みまえ)にあらわでない被造物はありません。神の目には全てが裸であり、さらけ出されています。この神に対して、私たちは申し開きをするのです。」
イエスを救い主と信じ、従おうとしているクリスチャンであっても、天国へ入れられた後は違いますが、この世では、心の全く清い人は一人もいません。そうだとすると、イエスの教えは、どう考えれば良いのでしょうか。
ここで「清い」と訳されているのと同じギリシア語が、ヨハネの黙示録21:18では「透き通った」と訳されています。つまり、特に神との関係において、心がより純粋で透き通っていることです。現実には、不信仰で罪の汚れも沢山あり、絶えず神に赦しを請うのですが、神と自分の間に、極力、介在物を置かず、心が絶えず神に向いていることです。
主イエスを信じて罪を赦され、いつか天国に入れて頂けるというだけでなく、今この世でもっと神を知り、神に喜ばれる者になることを願い、心が神に向いている!ですから、物事が順調でも、決して高ぶらず、神に感謝し、逆境の時には、何故こんなことが起るのを神は許されるのかと謙って(へりくだって)考える。いわば、心のアンテナがしっかり神に向いていることが心の清いことなのです。すると、イエスは言われます。「その人たちは神を見る」と。そうです!神を見るのです!見えるのです!
但し、神は人間のように体を必要とされず、純粋な霊、つまり、人格そのものです。ですから、私たちも心で神を見るのです。
興味深いことに、人は自分の関心のあるものは見えます。心の卑しい人は、どんな所でも、すぐ下品で不潔なものを見つけます。服装に強い興味のある人は、ひどく混雑した所でも自分の好みの服をすぐ見つけます。子供を心から愛している母親は、ひどい騒音の中でも自分の子供の泣き声を発見します。
私は16、7歳の頃、父と母、そして兄夫婦と同居していました。テレビもつけ、皆で賑やかに夕食を食べていたある時、急に姉が立ち上がり、二階に上って行きました。私は「あれ?」と思いましたが、姉には二階で泣いている生後2、3か月の子供の小さな泣き声が聞こえたのです。私は驚き、感心しました。人は、自分が愛し、関心のあるものなら、本当に見えるのです。
前に一度お話したと思いますが、私は中学生の時、大のオートバイ好きでした。中学2年の時、当時としては素晴らしい排気量250 CCのバイクが出ました。その名前を私は63年経った今も忘れません。ホンダ・ドリーム・スーパースポーツ CB72・250!銀色のとても美しい形をしていて、私は夢中になり、町で見つけてはスケッチし、頭に叩き込みました。そこまで好きですと、そのバイクのほんの一部が見えたり、エンジン音を聞くだけで、「あれだ!」と分りました。
これもお話したことがありますが、ポーランドのアウシュビッツ強制収容所では、かつてユダヤ人を中心とする数百万人もの大量殺戮がナチスの手で行われました。それはさながら地獄であり、人間の尊厳性を示す一切のものが停止していたと言われます。
では、アウシュビッツは地獄だったのでしょうか。ドイツの実践神学者ルドルフ・ボーレンがこんなことを本の中で伝えています。第二次世界大戦が終ったあとすぐ、ヨーロッパである会議が持たれました。その時、「アウシュビッツは地獄だった。あそこに神はいなかった」と発言する人々が続きました。しかし最後に、あるユダヤ系オランダ人牧師は力を込めてこう言ったそうです。「私はアウシュビッツにいました。あそこで、神は死んではおられませんでした。賛美歌を歌いながらガス室に赴いた人々のために生きておられました。神は、信仰をもって死を超えて生きる人々のために、生きていて下さったのです。」
他の人には絶対に見えないものの中にも、ある人には神を見ることができるのです。
私は以前、大阪の淀川キリスト教病院でチャプレンとして14年間働きました。お世話をさせて頂いた方の中で、悪性リンパ腫のためにホスピスで天に召された49歳の女性Gさんがおられました。検査結果を待つ間が一番辛く、結果がはっきりしてからは、却ってすっきりしたとおっしゃっていました。それはともかく、「私は不真面目なクリスチャンです」と笑いながらおっしゃる彼女は、本当はとても素直な信仰を持った方でした。私が病室に訪問しますと、彼女は窓際を指して「今日はあの可愛いお花をお見舞いに頂きました。感謝です。」「今日は以前の教会の牧師夫人が遠くからわざわざ来て下さいました。」「今日は…」などと、毎日、神への感謝の報告を私にして下さいました。死を前にしても、彼女は、信仰により、小さな一つ一つのことにもまさに神とその愛を見ておられたのでした。
心の清い者もやがてこの世を去ります。しかしその時こそ、イエスの言われたことが完全にその人に実現します。ヨハネの黙示録22:4は、その時、真(まこと)のキリスト信者は神の「御顔(みかお)を仰ぎ見る」と言います。神の美しい御顔を、それも永遠に仰ぎ見ることを、心の清い者は許されるのです。イエスは言われます。「心の清い者は幸いです。その人たちは神を見る」と。
人も羨む立派な家や財産や名声を得、体も人一倍健康ですのに、自分の周りに美しいものではなく、自分の心の濁りが生み出した人間の貪欲や醜さからなる地獄を見る人がいます。
他方、特別なものは何一つ持っていないのですが、全てのことにイエス・キリストによって感謝し、辛さの中にも、尚、神の微笑みを見ることのできる人もいます。
私たちは皆いつか必ず世を去ります。その時、私たちは、自分の心、自分の人間性のもたらした結果を見ることになります。最後のその時、私たちは死の彼方に何を見るのでしょうか。自分の不信仰と心の濁り故の、永遠の地獄を見るのでしょうか。
それとも、信仰はいまだに薄く、罪深く、弱い者ではありますが、尚、神を慕い、神を思うその純粋な心を神が喜ばれ、死の彼方に、両手を挙げて私たちを受け留め、抱きしめて下さる、愛に満ちた神を見るのでしょうか。どちらでしょうか。
今、天におられる主イエスは、私たちを、今現在も、そしてまた死の彼方でも、この幸いに与らせるために、聖書と教会を与え、ご自分を信じ、従い、依り頼む者の心を、ますます清めようとしておられます。神の御子イエスは、こうして私たちを、この世が与えることも奪うこともできない最高の幸いへと招いておられます。この招きに、「イエス様、私の心には罪と汚れがまだまだ一杯あります。どうか、お赦し下さい。でも主よ、私はあなたを信じます!信じています。私の心をもっともっと清めて下さい!そうして、ますます神様を見える者にして下さい」と祈り、自分を明け渡したいと思います。
イエスは言われます。「心の清い者は幸いです。その人たちは神を見るからです。」