聖書の言葉 3:7 しかし私は、自分にとって得であったこのような全てのものを、キリストの故に損と思うようになりました。3:8 それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることの素晴らしさの故に、私は全てを損と思っています。私はキリストの故に全てを失いましたが、それらは塵芥(ちりあくた)だと考えています。フィリピの信徒への手紙 3章7節~8節 メッセージ 今日から「キリストを知る幸い」についてお話したいと思います。 私たちの一生を考えますと、出会いは何と大切でしょう。幼い時からいつも粗野な人間に囲まれて育った人と、周りに常に誠実で心優しい人がいたという人とでは、大きな違いが生じても不思議ではありません。そして青年期くらいまで、辛い人生であったのが、ある時、人格的に優れた人に、本を通してとか実際に会って良い影響を受け、幸いで意義深い一生を送る人がいます。人生で誰と出会うかは、私たちが感じている以上に重要であり、私たちの一生を、いいえ、それどころか、私たちの永遠の行き先すら変えることがあります。 先程お読みしましたピリピ人への手紙を、もう一度見ます。この手紙は紀元61年か62年頃、パウロがローマの獄中で書いたものです。ご承知のように彼は、使徒の働き9章に詳しいことが伝えられていますが、人生の途上で神の御子イエスと出会い、その一生を決定的に変えられました。 パウロは先程のピリ3:7、8の少し前の5、6節で「私は生まれて八日目に割礼を受け、イスラエル民族、ベニヤミン部族の出身、ヘブル人の中のヘブル人、律法についてはパリサイ人、その熱心については教会を迫害したほどであり、律法による義については非難される所がない者でした」と言います。要するに、自分の血筋、生れ、育ち、教育、今までの宗教的、道徳的生活など、誇ろうと思えば誇れるものを彼は列挙します。事実、彼は色々な面で非常に恵まれた優れた人物でした。 ところが、7、8節で彼は言います。「しかし私は、自分にとって得であったこのような全てのものを、キリストの故に損と思うようになりました。それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることの素晴らしさの故に、私は全てを損と思っています。私はキリストの故に全てを失いましたが、それらは塵芥(ちりあくた)だと考えています。」要するに、「キリスト・イエスを知っていることの素晴らしさ」の故に、価値観が全く変ったのでした。 救い主としてこの世に来られた神の御子イエス・キリストを知るまで、彼が誇り、自慢出来るものは一杯ありました。彼は当時のユダヤ人社会のエリートであり、ユダヤ教信仰に堅く立ち、自分の信じた通りに生き、人生を殆ど迷うことなく生きてきた人でした。 けれども、彼はある時、あの悲惨な十字架の死の後、復活された神の御子イエスと、全く予想もしなかった時に思いがけない形で出会い、イエスが本当に神の独り子なる救い主であることを知りました。それまでの彼は、ユダヤ社会とその宗教を惑わすキリスト教信仰のようなものは、撲滅するのが神の前に正しいと信じて疑わず、クリスチャンと教会を迫害しようと意気込み、驚くほど熱心でした。 しかし、まさにその時、イエスが彼に現れられ、劇的な出会いをし、それで彼は、よく知りもせず、今まで自分が恐ろしい罪を犯してきたことを知りました。自分の経歴、知識、能力、宗教的熱心などを過信するが故の無知と傲慢、また神に対しても人に対しても恐ろしい罪を犯していたことを悟ったのでした。 自分の愚かさ、罪深さを知り、彼はどんなに愕然としたことでしょうか。ですから、最晩年になっても、彼はテモテ1:15で「私は…罪人の頭です」と書きました。かつての自分を思い出すと、こう言わないではおられなかったのでしょう。 しかし、主イエスと出会って知ったのは、それだけではありません。言葉に絶する救い主イエス・キリストの素晴らしさをも知ったのです。主イエスの十字架には、主を心から救い主と信じる者たち全ての罪と不信仰を赦し、義とし、永遠に神の子としての身分を与え、聖化、つまり、清めていく絶大な救いの力と恵みがあり、それとイエス・キリストの知恵、力、清さ、正しさ、真実、計り知れない愛と憐みに満ちたご人格を知ったのです。キリストを知ることで、彼は天地の造り主なる唯一の真(まこと)の神のことが、ある意味、本当に分ったのでした。イエス・キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さ(エペソ3:18)を知れば知るほど、またそのイエスと日毎に交わることにおいて、彼はこの世が与えることも奪うことも出来ない、言葉で言い尽くせない神からの喜び、平安、充足感に満たされて行きました。 しかし、これはパウロだけのことではありません。パウロ同様、イエス・キリストを心から信じ、受け入れ、依り頼み、その教えに留まり、イエス・キリストと人格的に絶えず交わることにより豊かにキリストを知る人全てに、この幸いは開かれています。 そこで、キリストを知ることに伴う幸いについて、少し具体的に学びたいのですが、今日は時間がなくなりました。次回から学びたいと思います。ただ、今日は、イエス・キリストと、いつ、どこにあっても交わることの大切さ、素晴らしさを、是非、心に留めたいと思います。 関連する説教を探す 2024年の祈祷会 『フィリピの信徒への手紙』
今日から「キリストを知る幸い」についてお話したいと思います。
私たちの一生を考えますと、出会いは何と大切でしょう。幼い時からいつも粗野な人間に囲まれて育った人と、周りに常に誠実で心優しい人がいたという人とでは、大きな違いが生じても不思議ではありません。そして青年期くらいまで、辛い人生であったのが、ある時、人格的に優れた人に、本を通してとか実際に会って良い影響を受け、幸いで意義深い一生を送る人がいます。人生で誰と出会うかは、私たちが感じている以上に重要であり、私たちの一生を、いいえ、それどころか、私たちの永遠の行き先すら変えることがあります。
先程お読みしましたピリピ人への手紙を、もう一度見ます。この手紙は紀元61年か62年頃、パウロがローマの獄中で書いたものです。ご承知のように彼は、使徒の働き9章に詳しいことが伝えられていますが、人生の途上で神の御子イエスと出会い、その一生を決定的に変えられました。
パウロは先程のピリ3:7、8の少し前の5、6節で「私は生まれて八日目に割礼を受け、イスラエル民族、ベニヤミン部族の出身、ヘブル人の中のヘブル人、律法についてはパリサイ人、その熱心については教会を迫害したほどであり、律法による義については非難される所がない者でした」と言います。要するに、自分の血筋、生れ、育ち、教育、今までの宗教的、道徳的生活など、誇ろうと思えば誇れるものを彼は列挙します。事実、彼は色々な面で非常に恵まれた優れた人物でした。
ところが、7、8節で彼は言います。「しかし私は、自分にとって得であったこのような全てのものを、キリストの故に損と思うようになりました。それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることの素晴らしさの故に、私は全てを損と思っています。私はキリストの故に全てを失いましたが、それらは塵芥(ちりあくた)だと考えています。」要するに、「キリスト・イエスを知っていることの素晴らしさ」の故に、価値観が全く変ったのでした。
救い主としてこの世に来られた神の御子イエス・キリストを知るまで、彼が誇り、自慢出来るものは一杯ありました。彼は当時のユダヤ人社会のエリートであり、ユダヤ教信仰に堅く立ち、自分の信じた通りに生き、人生を殆ど迷うことなく生きてきた人でした。
けれども、彼はある時、あの悲惨な十字架の死の後、復活された神の御子イエスと、全く予想もしなかった時に思いがけない形で出会い、イエスが本当に神の独り子なる救い主であることを知りました。それまでの彼は、ユダヤ社会とその宗教を惑わすキリスト教信仰のようなものは、撲滅するのが神の前に正しいと信じて疑わず、クリスチャンと教会を迫害しようと意気込み、驚くほど熱心でした。
しかし、まさにその時、イエスが彼に現れられ、劇的な出会いをし、それで彼は、よく知りもせず、今まで自分が恐ろしい罪を犯してきたことを知りました。自分の経歴、知識、能力、宗教的熱心などを過信するが故の無知と傲慢、また神に対しても人に対しても恐ろしい罪を犯していたことを悟ったのでした。
自分の愚かさ、罪深さを知り、彼はどんなに愕然としたことでしょうか。ですから、最晩年になっても、彼はテモテ1:15で「私は…罪人の頭です」と書きました。かつての自分を思い出すと、こう言わないではおられなかったのでしょう。
しかし、主イエスと出会って知ったのは、それだけではありません。言葉に絶する救い主イエス・キリストの素晴らしさをも知ったのです。主イエスの十字架には、主を心から救い主と信じる者たち全ての罪と不信仰を赦し、義とし、永遠に神の子としての身分を与え、聖化、つまり、清めていく絶大な救いの力と恵みがあり、それとイエス・キリストの知恵、力、清さ、正しさ、真実、計り知れない愛と憐みに満ちたご人格を知ったのです。キリストを知ることで、彼は天地の造り主なる唯一の真(まこと)の神のことが、ある意味、本当に分ったのでした。イエス・キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さ(エペソ3:18)を知れば知るほど、またそのイエスと日毎に交わることにおいて、彼はこの世が与えることも奪うことも出来ない、言葉で言い尽くせない神からの喜び、平安、充足感に満たされて行きました。
しかし、これはパウロだけのことではありません。パウロ同様、イエス・キリストを心から信じ、受け入れ、依り頼み、その教えに留まり、イエス・キリストと人格的に絶えず交わることにより豊かにキリストを知る人全てに、この幸いは開かれています。
そこで、キリストを知ることに伴う幸いについて、少し具体的に学びたいのですが、今日は時間がなくなりました。次回から学びたいと思います。ただ、今日は、イエス・キリストと、いつ、どこにあっても交わることの大切さ、素晴らしさを、是非、心に留めたいと思います。