2024年11月17日「からし種、パン種、毒麦の譬え」

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からし種、パン種、毒麦の譬え

日付
説教
田村英典 牧師
聖書
マタイによる福音書 13章24節~43節

聖句のアイコン聖書の言葉

13:24 イエスはまた別のたとえを彼らに示して言われた。「天の御国は次のようにたとえられます。ある人が自分の畑に良い種を蒔いた。
13:25 ところが人々が眠っている間に敵が来て、麦の中に毒麦を蒔いて立ち去った。
13:26 麦が芽を出し実った時、毒麦も現れた。
13:27 それで、しもべたちが主人の所に来て言った。『ご主人様、畑には良い麦を蒔かれたのではなかったでしょうか。どうして毒麦が生えたのでしょう。』
13:28 主人は言った。『敵がしたことだ。』すると、しもべたちは言った。『それでは、私たちが行って毒麦を抜き集めましょうか。』
13:29 しかし、主人は言った。『いや。毒麦を抜き集める内に麦も一緒に抜き取るかもしれない。
13:30 だから、収穫まで両方とも育つままにしておきなさい。収穫の時に、私は刈る者たちに、まず毒麦を集めて焼くために束にし、麦の方は集めて私の倉に納めなさい、と言おう。』

13:31 イエスはまた、別のたとえを彼らに示して言われた。「天の御国はからし種に似ています。人はそれを取って畑に蒔きます。
13:32 どんな種よりも小さいのですが、生長すると、どの野菜よりも大きくなって木となり、空の鳥が来て、その枝に巣を作るようになります。」
13:33 イエスはまた、別のたとえを彼らに話された。「天の御国はパン種に似ています。女の人がそれを取って三サトン(約38リットル)の小麦粉の中に混ぜると、全体が膨らみます。」
13:34 イエスは、これらのことをみな、たとえで群衆に話された。たとえを使わずには何も話されなかった。
13:35 それは、預言者を通して語られたことが、成就するためであった。
     「私は口を開いて、たとえ話を、
      世界の基が据えられたときから、
      隠されたことを語ろう。」
13:36 それから、イエスは群衆を解散させて家に入られた。すると弟子たちがみもとに来て、「畑の毒麦のたとえを説明してください」と言った。
13:37 イエスは答えられた。「良い種を蒔く人は人の子です。
13:38 畑は世界で、良い種は御国の子ら、毒麦は悪い者の子らです。
13:39 毒麦を蒔いた敵は悪魔であり、収穫は世の終り、刈る者は御使いたちです。
13:40 ですから、毒麦が集められて火で焼かれるように、世の終りにもそのようになります。
13:41 人の子は御使いたちを遣わします。彼らは、全てのつまずきと、不法を行う者たちを御国から取り集めて、
13:42 火の燃える炉の中に投げ込みます。彼らはそこで泣いて歯ぎしりするのです。
13:43 その時、正しい人たちは彼らの父の御国で太陽のように輝きます。耳のある者は聞きなさい。」


マタイによる福音書 13章24節~43節

原稿のアイコンメッセージ

 マタイ福音書の13章には、イエスの語られた譬え話が沢山あり、大切なことを色々教えられます。今お読みした所には三つありますが、毒麦の譬えのあと、からし種とパン種の譬えが語られ、その後、毒麦の譬えの説明をイエスはなさいます。そこで、まず辛子種の譬えを見ることにします。

 31節「イエスはまた、別の譬えを彼らに示して言われた。『天の御国はからし種に似ています。人はそれを取って畑に蒔きます。どんな種よりも小さいのですが、生長すると、どの野菜よりも大きくなって木となり、空の鳥が来て、その枝に巣を作るようになります。』」

 「天の御国(みくに)」は、ここではいわゆる天国のことではありません。人の心に信仰を与え、人を罪と滅びから救い、神の子供にする「神の恵みのご支配」を意味します。

 「からし種」は非常に小さいですが、成長するとどの野菜よりも大きくなり、鳥が来て枝に巣を作る位、木のように育つそうです。旧約聖書のエゼキエル書31章などから分りますが、大きな木の枝に鳥が巣を作るというのは、人々がそこに安らぐことのできる王国の力強い支配を表します。従って、からし種の譬えは、主イエスにより始まった神の国、神の恵みの支配は、初めは小さくても、驚くほど大きく成長する力のあることを意味します。

 次はパン種、つまり、イースト菌の譬えです。33節「天の御国はパン種に似ています。女の人がそれを取って三サトン(約38リットル)の小麦粉の中に混ぜると、全体が膨らみます。」

 練った粉を膨らませるパン種は、人を腐敗させる悪いものの譬えに聖書でよく使われますが、ここでは、粉全体を内側から変質させる強い力を持つものであることを表わします。

 これら二つの譬えは、外面的に大きく成長し、内面的にも人を造り変える点で、神の国自体に大きな力のあることを教えています。

 実際、歴史を振り返りますと、どうでしょうか。凡そ2千年前、イエスの福音による神の国は、ユダヤでホンの一握りの弟子たちから始まりましたが、やがては地中海世界全体に広がり、さらには全ヨーロッパに広がり、今や全世界に広がっています。

 また福音は、迷信や偶像崇拝、無意味な因習、罪深い習慣や虚無感、死の恐怖などに捕らわれていた人たちをどんなに救い、解放し、救いの喜び、平安、自由、そして隣人を思いやる愛の人に変えてきたことでしょうか。イエスは、神の国にはそれ自体で世に広がり、人を変える力があることへの信頼を、私たちに促されるのです。

 さて、次は毒麦の譬えです。24~30節「ある人が自分の畑に良い種を蒔いた。ところが人々が眠っている間に敵が来て、麦の中に毒麦を蒔いて立ち去った。麦が芽を出し実った時、毒麦も現れた。それで、しもべたちが主人の所に来て言った。『ご主人様、畑には良い麦を蒔かれたのではなかったでしょうか。どうして毒麦が生えたのでしょう。』主人は言った。『敵がしたことだ。』すると、しもべたちは言った。『それでは、私たちが行って毒麦を抜き集めましょうか。しかし、主人は言った。『いや。毒麦を抜き集める内に麦も一緒に抜き取るかもしれない。だから、収穫まで両方とも育つままにしておきなさい。収穫の時に、私は刈る者たちに、まず毒麦を集めて焼くために束にし、麦の方は集めて私の倉に納めなさい、と言おう。』」

 註解書によりますと、「毒麦」と呼ばれる細麦は、食べると軽いめまいや吐き気や痺れ(しびれ)を起し、麦に混じっていますと、苦(にが)くてイヤな味がするそうです。農夫にとっては結構厄介で、育ち初めは麦とよく似ていて殆ど見分けがつきません。大きく育って穂が出始めますと、違いはよく分るのですが、その頃には麦と毒麦の根が絡まり、毒麦を抜こうとすると、良い麦まで抜いてしまいかねません。イエスはこの毒麦の譬えにより、天の国について語られます。

 これは何を教えるのでしょうか。37~43節のイエスの説明を読みます。「良い種を蒔く人は人の子です。畑は世界で、良い種は御国の子ら、毒麦は悪い者の子らです。毒麦を蒔いた敵は悪魔であり、収穫は世の終り、刈る者は御使いたちです。ですから、毒麦が集められて火で焼かれるように、世の終りにもそのようになります。人の子は御使いたちを遣わします。彼らは、全てのつまずきと、不法を行う者たちを御国から取り集めて、火の燃える炉の中に投げ込みます。彼らはそこで泣いて歯ぎしりするのです。その時、正しい人たちは彼らの父の御国で太陽のように輝きます。耳のある者は聞きなさい。」

 「人の子」とは、イエス・キリストを指します。世の終りの裁きを比喩的に教えるここは、説明の必要なないと思います。

 大切なことは、どうしてイエスはこういう譬えを話されたのかという点です。

 イエスの宣教活動に伴い、色々な人たちがイエスの近くに集まって来ました。イエスを心から信じ仰ぐ者だけでなく、イエスを殺そうとするユダヤ教正統派の人たちが送った者もいました。群衆の中には真面目な求道者も冷やかし半分の人もいたでしょうし、弟子の中にもやがてイエスを裏切る者がいました。

 そこで、熱心な弟子たちほど、この現状に危機感を抱いたことでしょう。「本物の信者と偽信者を早く分けないと、本物の信者まで潰される」と焦ったかも知れません。これに近いことは、いつの時代の教会にもあり得ると思います。

 では、イエスはどうお考えなのでしょうか。聖書箇所を少し広げて、まとめてみます。

 第一にイエスは、信仰的、倫理的に罪を犯す者への教会による裁き、すなわち、戒規(かいき)を命じておられます。マタイ18:15~17でイエスはこう教えておられます。「もしあなたの兄弟があなたに対して罪を犯したなら、行って二人だけの所で指摘しなさい。その人があなたの言うことを聞き入れるなら、あなたは自分の兄弟を得たことになります。もし聞き入れないなら、他に一人か二人、一緒に連れて行きなさい。二人または三人の証人の証言によって、全てのことが立証されるようにするためです。それでもなお、言うことを聞き入れないなら、教会に伝えなさい。教会の言うことさえも聞き入れないなら、彼を異邦人か取税人のように扱いなさい。」

教会の戒規には、訓戒、陪餐停止、除名の3段階があります。罪を犯した信者が心から悔い改めますならば、無論、赦され、教会に復帰できます。細かい点は省きますが、とにかくイエスは戒規を命じておられます。これは大切な点です。

 第二にイエスは、世の終りに、父なる神とご自分による最後の審判が全人類に臨むことを教えておられます。このことは聖書全体から明白ですし、譬えの説明からも分ります。世の終りに裁かれる者を毒麦に譬えて、イエスは13:39以降でこう言われます。「毒麦を蒔いた敵は悪魔であり、収穫は世の終り、刈る者は御使いたちです。ですから、毒麦が集められて火で焼かれるように、世の終りにもそのようになります。人の子は御使い(みつかい)たちを遣わします。彼らは、全てのつまずきと、不法を行う者たちを御国から取り集めて、火の燃える炉の中に投げ込みます。彼らはそこで泣いて歯ぎしりするのです。」

 毒麦の譬えですので、とても厳しい表現になっていますが、最後の審判があり、最後まで悔い改めない者には裁きがあります。これを決して忘れてはなりません。

 けれども第三に、熱心な余り、性急に裁くことにはよく注意し、世の終りまで待つ方が良い場合のあることを、イエスはお教えになります。

 教会による裁き、戒規は必要です。しかし、性急過ぎてはいけません。本当に毒麦か否かは、時間が経たないと分らず、良い麦を傷めるかも知れないからです。譬えの主人は毒麦を気にかけているのでなく、良い麦を気にかけています。同じように、イエスは真(まこと)の信仰者の成長と救いの完成を何より願っておられます。彼らを真に愛しておられるからです。

 けれども、毒麦を放っておくと良い麦がやられ、良い麦の小さな群れは潰されないでしょうか。イエスは、からし種とパン種のように、神の国にはそれ自体に大きく成長し、人を変える力があるから、神の恵みの力に信頼しなさい、と言われるのです。

 繰り返します。戒規の執行は必要です。けれども、性急にではなく、むしろ神が私たちの間で始められた神の国の力、神の恵みのご支配の力にもっと信頼しなさい、ということです。目に見える現実には厳しいものがあります。私たちもそれを改めて固く信じ、一層御言葉をよく学び、福音にしっかり生き、時が良くても悪くても福音を証ししたいと思います。

 また、もしや自分が毒麦ではないかと絶えず謙って(へりくだって)自分を吟味し、ピリピ2:12が言いますように「恐れおののきつつ自分の救いを達成するよう努め」たいと思います。そして、何より私たちを心にかけ、成長することを熱く期待しておられる主イエスの愛を覚え、互いに信仰を励まし合い、やがては、イエスが言われますように、マタイ13:43、「父の御国で太陽のように輝」く者に、是非、皆でされたいと思います。

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