聖書の言葉 1: 9 私はこう祈っています。あなた方の愛が、知識とあらゆる識別力によって、いよいよ豊かになり、1:10 あなた方が、大切なことを見分けることができますように。こうしてあなた方を、キリストの日に備えて、純真で非難されところのない者となり、1:11 イエス・キリストによって与えられる義の実に満たされて、神の栄光と誉れが現されますように。フィリピの信徒への手紙 1章9節~11節 メッセージ 今お読みした所は、紀元1世紀の後半に使徒パウロがピリピの教会員に書き送った手紙の一部です。愛においてピリピ教会の皆が成長することを、パウロがどんなに願っていたかがよく分ります。 パウロは彼らの「知識とあらゆる識別力」(9節)が単に豊かになるように願ったのではありません。人と議論して勝つとか自慢するための知識や識別力などは、神の前で全く何の意味もありません。あくまでも、愛が豊かになっていくための知識や識別力の大切さを教えるのです。9節「…あなた方の愛が、知識とあらゆる識別力によって、いよいよ(興味深いことに、ギリシア語の原文でも マロン カイ マロン と言葉が繰り返されます)豊かになり」と。愛における彼らの成長を、パウロがどんなに強く願っていたかがよく分ります。 そして10節「あなた方が、大切なことを見分けることができますように」と言います。つまり、愛が増し加わることで、人は真(しん)に大切なことを見分けられる者になり、また世の終りにイエス・キリストが再臨され、全ての人を公平に裁かれるその時に向かって、愛こそが最善の備えを私たちにさせるということです。とても大事なことを教えられます。 ところで、愛についてパウロはどうしてここまで言える者になれたのでしょうか。13節「私が投獄されている」とか、17節「鎖に繋がれている私」とありますように、実は、イエス・キリストを宣べ伝えたために、この時、彼は牢獄に監禁されていたのでした。裁判次第では死刑になるかも知れず、そうでなくても、辛い獄中に囚われの身でした。しかし、彼は尚もピリピ教会のクリスチャンたちを心から愛し、惜しまず心を砕いていました。2:17を見ますと、彼らの救いの完成のためなら、喜んで自分の命を捧げる覚悟さえ持っていたことが分ります。 こういうパウロの姿に、私たちが本当の意味で愛において成長させられる重要な鍵の一つが隠されているように思われます。 私たちは、自分に余裕のある時は、人への親切や思いやりなどの愛を示すことも、いくらかできそうに思います。しかし、自分に余裕がなく、苦しい状態から一刻も早く逃れたいような時に、人への愛を示すことは何と難しいでしょうか。けれども、パウロはまさにそんな時にも人を愛し、人のために真剣に祈りました。これまでもずっとそうでした。ですから、彼は今、ここまで愛において成長し、こんな状況でも、尚、人を愛せる者になっていたのではないかと思います。 日本NCF(ナース・クリスチャン・フェローシップ)というクリスチャン看護師の団体が出しています大分前のニュースレターに、マザー・テレサのこんな祈りが出ていて、考えさせられました。 「 主よ、私が空腹を覚える時、パンを分ける相手に出会わせて下さい/ 寒さを感じる時、暖めて上げる相手に出会えますように/ 不愉快な時、喜ばせる相手に出会えますように/ 私が乏しい時、乏しい人に会わせて下さい/ 私の十字架が重く感じられる時、誰かの重荷を背負って上げられますように/ 暇がない時、時間を割いて上げる人に出会えますように/ 私が屈辱を味わう時、誰かを褒めて上げられますように/ 気が滅入る時、誰かを力付けて上げられますように/ 理解してもらいたい時、理解して上げる相手に出会えますように/ かまってもらいたい時、かまって上げる相手に出会わせて下さい/ 私が自分のことしか頭にない時、私の関心が他人にも向きますように/ 主よ、私たちの手を通して、日毎のパンを、今日、人々にお与え下さい/ 私たちの思いやりを通して、主よ、人々に平和と喜びをお与え下さい。」 あれ程の尊い働きをした彼女には、当然、辛い時がいっぱいありました。誹謗中傷を受けたこともありました。しかし、よりによってそういう辛い時に、助けを必要とする人が現れ、彼女は内心戦います。しかし、パウロの愛や、何より私たち罪人の救いのために十字架で苦しみの極みまでご自分を献げられた主イエスの愛を思い、自分と戦い、自分を他者に提供した結果、彼女は言葉に言い表せない喜びを体験し、そんな内面の戦いを重ねる内に、先程のような祈りが作られ、更に尊い愛の働きの出来る人になっていったのではないか、と思います。 「辛い時には、是非、マザー・テレサのような祈りをしよう」というのではありません。ただ、私たち自身辛いですのに、更に他の誰かの苦しみや悲しみや叫びなどに触れる時、神は、私たちに自分と戦わせ、主イエスにより更に私たちを成長させようとしておられるのかも知れないと、そのように神の御旨を考えることも大切ではないか、と思うのです。 関連する説教を探す 2024年の祈祷会 『フィリピの信徒への手紙』
今お読みした所は、紀元1世紀の後半に使徒パウロがピリピの教会員に書き送った手紙の一部です。愛においてピリピ教会の皆が成長することを、パウロがどんなに願っていたかがよく分ります。
パウロは彼らの「知識とあらゆる識別力」(9節)が単に豊かになるように願ったのではありません。人と議論して勝つとか自慢するための知識や識別力などは、神の前で全く何の意味もありません。あくまでも、愛が豊かになっていくための知識や識別力の大切さを教えるのです。9節「…あなた方の愛が、知識とあらゆる識別力によって、いよいよ(興味深いことに、ギリシア語の原文でも マロン カイ マロン と言葉が繰り返されます)豊かになり」と。愛における彼らの成長を、パウロがどんなに強く願っていたかがよく分ります。
そして10節「あなた方が、大切なことを見分けることができますように」と言います。つまり、愛が増し加わることで、人は真(しん)に大切なことを見分けられる者になり、また世の終りにイエス・キリストが再臨され、全ての人を公平に裁かれるその時に向かって、愛こそが最善の備えを私たちにさせるということです。とても大事なことを教えられます。
ところで、愛についてパウロはどうしてここまで言える者になれたのでしょうか。13節「私が投獄されている」とか、17節「鎖に繋がれている私」とありますように、実は、イエス・キリストを宣べ伝えたために、この時、彼は牢獄に監禁されていたのでした。裁判次第では死刑になるかも知れず、そうでなくても、辛い獄中に囚われの身でした。しかし、彼は尚もピリピ教会のクリスチャンたちを心から愛し、惜しまず心を砕いていました。2:17を見ますと、彼らの救いの完成のためなら、喜んで自分の命を捧げる覚悟さえ持っていたことが分ります。
こういうパウロの姿に、私たちが本当の意味で愛において成長させられる重要な鍵の一つが隠されているように思われます。
私たちは、自分に余裕のある時は、人への親切や思いやりなどの愛を示すことも、いくらかできそうに思います。しかし、自分に余裕がなく、苦しい状態から一刻も早く逃れたいような時に、人への愛を示すことは何と難しいでしょうか。けれども、パウロはまさにそんな時にも人を愛し、人のために真剣に祈りました。これまでもずっとそうでした。ですから、彼は今、ここまで愛において成長し、こんな状況でも、尚、人を愛せる者になっていたのではないかと思います。
日本NCF(ナース・クリスチャン・フェローシップ)というクリスチャン看護師の団体が出しています大分前のニュースレターに、マザー・テレサのこんな祈りが出ていて、考えさせられました。
「 主よ、私が空腹を覚える時、パンを分ける相手に出会わせて下さい/ 寒さを感じる時、暖めて上げる相手に出会えますように/ 不愉快な時、喜ばせる相手に出会えますように/ 私が乏しい時、乏しい人に会わせて下さい/ 私の十字架が重く感じられる時、誰かの重荷を背負って上げられますように/ 暇がない時、時間を割いて上げる人に出会えますように/ 私が屈辱を味わう時、誰かを褒めて上げられますように/ 気が滅入る時、誰かを力付けて上げられますように/ 理解してもらいたい時、理解して上げる相手に出会えますように/ かまってもらいたい時、かまって上げる相手に出会わせて下さい/ 私が自分のことしか頭にない時、私の関心が他人にも向きますように/ 主よ、私たちの手を通して、日毎のパンを、今日、人々にお与え下さい/ 私たちの思いやりを通して、主よ、人々に平和と喜びをお与え下さい。」
あれ程の尊い働きをした彼女には、当然、辛い時がいっぱいありました。誹謗中傷を受けたこともありました。しかし、よりによってそういう辛い時に、助けを必要とする人が現れ、彼女は内心戦います。しかし、パウロの愛や、何より私たち罪人の救いのために十字架で苦しみの極みまでご自分を献げられた主イエスの愛を思い、自分と戦い、自分を他者に提供した結果、彼女は言葉に言い表せない喜びを体験し、そんな内面の戦いを重ねる内に、先程のような祈りが作られ、更に尊い愛の働きの出来る人になっていったのではないか、と思います。
「辛い時には、是非、マザー・テレサのような祈りをしよう」というのではありません。ただ、私たち自身辛いですのに、更に他の誰かの苦しみや悲しみや叫びなどに触れる時、神は、私たちに自分と戦わせ、主イエスにより更に私たちを成長させようとしておられるのかも知れないと、そのように神の御旨を考えることも大切ではないか、と思うのです。