2024年11月03日「譬えにより教えるイエス」
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譬えにより教えるイエス
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- 田村英典 牧師
- 聖書
マタイによる福音書 13章1節~17節
聖書の言葉
13: 1 その日、イエスは家を出て、湖のほとりに座っておられた。
13: 2 すると大勢の群衆がみもとに集まって来たので、イエスは舟に乗って腰を下ろされた。群衆はみな岸辺に立っていた。
13: 3 イエスは彼らに、多くのことをたとえで語られた。「見よ。種を蒔く人が種まきに出かけた。
13: 4 蒔いていると、種がいくつか道端に落ちた。すると鳥が来て食べてしまった。
13: 5 また、別の種は土の薄い岩地に落ちた。土が深くなかったので、すぐに芽を出した。
13: 6 しかし、日が昇ると焼けて、根がないために枯れてしまった。
13: 7 また、別の種は茨の間に落ちたが、茨が伸びてふさいでしまった。
13: 8 また、別の種は良い地に落ちて実を結び、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍になった。
13: 9 耳のある者は聞きなさい。」
13:10 すると、弟子たちが近寄って来て、イエスに「なぜ、彼らにたとえでお話になるのですか」と言った。
13:11 イエスは答えられた。「あなた方には天の御国の奥義を知ることが許されていますが、あの人たちには許されていません。
13:12 持っている人は与えられてもっと豊かになり、持っていない人は持っているものまで取り上げられるのです。
13:13 私が彼らにたとえで話すのは、彼らが見てはいるが見ず、聞いてはいるが聞かず、悟ることもしないからです。
13:14 こうしてイザヤの告げた預言が、彼らにおいて実現したのです。
『あなた方は聞くには聞くが、決して悟ることはない。見るには見るが、決して知ることはない。
13:15 この民の心は鈍くなり、耳は遠くなり、目は綴じているからです。
彼らがその目で見ることも、耳で聞くことも、心で悟ることも、立ち返ることもないように。
そして、私が癒やすこともないように。』
13:16 しかし、あなた方の目は見ているから幸いです。また、あなた方の耳は聞いているから幸いです。
13:17 まことに、あなた方に言います。多くの預言者や義人たちが、あなた方が見ているものを切に願ったのに、見られず、あなた方が聞いている聞きたいと切に願ったのに、聞けませんでした。
マタイによる福音書 13章1節~17節
メッセージ
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神の御子、主イエスは、人間の魂に関わる大切なことを、色々な状況で繰り返し話されました。繰り返しは最も効果的な教育方法の一つなのです。私たちは忘れやすい者ですよね。ですから、神の御言葉・聖書を、繰り返し聞いて学ぶこと程、重要なことはありません。子供への信仰と躾(しつけ)の教育でも、繰り返しは大変重要です。
しかし、イエスはまた譬えを使ってもお教えになります。5:13以降では弟子たちを「地の塩、世の光」に譬え、6:25以降の「心配するな」という教えでは「空の鳥、野の花」の譬えを使われ、7:24以降では、イエスの言葉を「聞いて行う人」と「聞いても行わない人」を「岩の上に家を建てた賢いた人」と「砂の上に家を建てた愚かな人」に譬えられました。この13章には、イエスの語られた「種蒔き」、「毒麦」、「辛子種」、「パン種」、そして「天の御国」(みくに)の譬えが続きます。譬えも主イエスの重要な教育方法なのです。
1~9節の種蒔きの譬えは、18節以降でイエスご自身が解説されますので、来週学び、今朝は10~17節、すなわち、イエスが譬えで話されるその理由を学びたいと思います。
1、2節が伝えますが、ある日、ガリラヤ湖の畔(ほとり)に集った群衆に、イエスは舟の中から種蒔きの譬えを話されました。あとで弟子たちはイエスに近寄り、10節「何故、彼らに譬えでお話しになるのですか」と尋ねました。
一つの理由は、無論、大事なことを分りやすくするためでしょう。大事なことでも、それが分りにくい時には、譬えを使って分りやすくできますね。
しかし、もう一つ、聞く人に疑問を抱かせ、深く考えさせるという理由、目的があります。これも非常に優れた教育方法の一つだと思います。
この場合、二つの反応が生じます。一つは「こんな難しいのは面倒だ。イヤだ」と言って、それ以上分ろうとしないことです。
大勢の群衆が、イエスの教えと御業(みわざ)・働きに興味を抱き、イエスを追っかけて来ました。しかし皆が皆、イエスの問い掛けを真摯に受け止め、神をもっとよく知って、自分を変えられ救われたい、と真剣に思っていたのではありません。彼らの多くはイエスの大事な問い掛けを面倒に思い、そこで終っていました。イエスが弟子たちに言われたのは、こういう人たちのことです。11~13節「あなた方には天の御国の奥義を知ることが許されていますが、あの人たちには許されていません。持っている人は与えられてもっと豊かになり、持っていない人は持っているものまでも取り上げられるのです。私が彼らに譬えで話すのは、彼らが見てはいるが見ず、聞いてはいるが聞かず、悟ることもしないからです。」
「天の御国の奥義」(11節)とは、罪と永遠の滅びからの私たち信仰者の救いを中心とする、天地の造り主なる生ける真(まこと)の神の愛と憐れみに満ちた御心やご計画のことです。それはどんな人にも提供されています。しかし、折角それをイエスが示されても、不信仰にもそれを面倒臭がって聞く耳を持たなければ、その人がそれを知ることはできません。
それはその人の責任です。しかしそうすることで、実はその人は、神への不信仰に対する報い、あるいは罰として、自分が悟るのを許されていないことを、自分で明らかにしたわけです。その意味で、イエスは11節「……あの人たちには許されていません」と言われたのでした。
「聞こうが聞くまいが、それは自分たちの勝手だ」と人は言うと思います。しかし忘れてはなりません。頑なで面倒臭がり屋で不信仰な人は、そうやって神の真理を理解できない者へとますます自分を追いやりますい、今まで少しは分っていた大事なイエス・キリストの福音と天国の奥義までをも、段々分らない者に自分をしてしまうのです。何と怖いことでしょうか。この点をイエスは12、13節「…持っていない人は持っているものまでも取り上げられるのです。私が彼らに譬えで話すのは、彼らは見てはいるが見ず、聞いてはいるが聞かず、悟ることもしないからです」と言われるのです。
更に14、15節で、イエスは旧約聖書のイザヤ6:9、10を引用されます。預言者イザヤの時代、イスラエルの人々は、神の助けを強く願いましたが、不信仰な自分には甘かったのでした。そこで神はイザヤを通して臨まれ、人々は神の教えを段々悟れなくなりました。何と恐ろしく、また悲しいことでしょう。
けれどもイエスは、同じことが今の時代にも起ることを警告されるのです。この警告を私たちも是非、深く心に留めたいと思います。少し難しそうに思える聖書の教えだと、すぐ面倒に思い、説教を耳で聞き、聖書は聞いてはいても、肝心の心は他のことに向いている。こういうことが度重なりますと、大切な信仰は痩せ細り、私たちは自分で自分を神と救いから遠ざけていきます。何と危険なことでしょうか。とにかく、「これはどういうことなのだろう」という疑問をこそ大事にし、面倒臭がらず、心に留め、またノートにメモを残したいと思いますね。
1517年10月31日、ドイツのヴィッテンベルク城の扉に、当時の教会に向けた95か条の公開質問状を張り付けたルターにより始った宗教改革、そしてその後の教理や神学の見事な進展も皆、疑問を疑問として心に留め、よく考え、聖書を誠実に探求した結果でした。
さて、疑問を抱かせるイエスの譬えに対するもう一つの反応は、それを分ろうとする積極的な姿勢です。「イエスは何を教えようとしておられるのか」と考え、探求する姿勢です。今天におられるイエスに祈って尋ね、もっと聖書を読み、学ぼうとする心が大切です。すると、どうなるでしょうか。
イエスはマタイ7:7で「求めなさい。そうすれば与えられます。探しなさい。そうすれば見出します。叩きなさい。そうすれば開かれます」と言われました。その通り、聖書の御言葉への疑問の答を熱心に求める人は、それを少しずつ叶えられ、そうして自分が「天の御国の奥義を知ることが許されている」(13:11)ということが明らかになるのです。
そして求めれば求める程、一層よく分るようになります。ですから、12節「持っている人は与えられてもっと豊かに」なるというわけです。
こうして、一見分りにくい種蒔きの譬えを初めとして、神の真理への大切な基本姿勢におけます弟子たちの幸いが確認されます。
イエスは言われました。16、17節「あなた方の目は見ているから幸いです。また、あなた方の耳は聞いているから幸いです。まことに、あなた方に言います。多くの預言者や義人たちが、あなた方が見ているものを見たいと切に願ったのに、見られず、あなた方が聞いていることを聞きたいと切に願ったのに、聞けませんでした。」
その時はよく分らなくても、イエスから離れず、イエスに問い続けた弟子たちは、一つ一つの教えについてもそうですが、何よりイエスが神の独り子であられ、旧約聖書が預言し約束していた神からの救い主・キリストであられることを明確に知るに至ったのでした。
生れながらに自己中心で罪深い私たちは、そのままでは永遠の死、永遠の滅びに至る、まことに惨めな罪人です。しかしイエスは、こんな私たちをただご自分への信仰だけで赦し、天の御国に入れて下さるのです。そのことをイエスは凡そ2千年前、ご自分の十字架の死と復活で鮮やかに示されました!こうして、旧約時代の信仰者や預言者たちもまだ見ることができなかった神の御子イエス・キリストを、今や私たちはハッキリ知ることを許されているのです。何という光栄でしょうか。
聖書の教えや、それに基づく実際の信仰生活の中で、「これはどういうことなのだろう」と、ひどく困惑させられることに、私たちはこれからもしばしば直面するでしょう。しかしそういう時、天地の造り主なる生ける真(まこと)の神とその大切な御心を知ろうとする熱心と忍耐を期待しておられるイエスの愛を思い、イエスのそばに留まり、そうしてますます神の真理を知って罪の鎖から解放され、神の前での魂の本当の自由を与えられたいと思います。イエスは言われます。ヨハネ福音書8:31、32「あなた方は、私の言葉に留まるならば、本当に私の弟子です。あなた方は真理を知り、真理はあなた方を自由にします。」