聖書の言葉 15:1 わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫です。15:2 わたしの枝で実を結ばないものはすべて、父がそれを取り除き、実を結ぶものはすべて、もっと多く実を結ぶように、刈り込みをなさいます。ヨハネによる福音書 15章1節~2節 メッセージ 今日も試練について学びます。20回目となります。 私たちは、人生の中で様々なものを失います。歳を取りますと、当然、若い時のようなエネルギーやチャレンジ精神も通常は失われます。しかし、歳を取ることに伴うこういう喪失は誰もが体験し、私たちはまだ比較的容易にこのことを受容出来ると思います。 しかし、こういう自然的なものではなく、予想もしない時にとても大事なものを奪われ、大きな挫折を体験することもあります。当然、私たちはひどく慌てる。「次はこう、その次はこう」と、大雑把にも描いていた自分の進む道が断たれ、行く手を阻まれ、計画が大きく狂います。私たちは、自分に起った予想外の出来事にうろたえ、苛立ち、一方では根拠もなく自信過剰であった自分に腹を立て、大きな勘違いしていた自分の愚かさに打ちのめされるかも知れません。 こういったことは、全く予期しない大きな自然災害や事故に巻き込まれ、あるいは重い病気になって起ることもあれば、恋愛や試験、仕事に失敗するなどして、起るかも知れません。 大切なことは、これをどう捉えるかです。私たちの人生の様々な局面で起るこういう辛い事柄、これは正に試練ですが、こういうことについても聖書は重要なヒントやアドバイスを与えています。 そこで、先程お読みしましたヨハネ福音書15:2の主イエスの教えに注目したいと思います。これは、有名なぶどうの木と枝の譬えの一部です。イエスはご自分をぶどうの木、弟子たちをその枝に譬え、5節で「私はぶどうの木、あなた方は枝です。人が私に留まり、私もその人に留まっているなら、その人は多くの実を結びます」と言い、信仰によりご自分に留まり繋がっていることの祝福の大きさを語られます。 そういう文脈の中ですが、2節でこう言われます。「私の枝で実を結ばないものは全て、父がそれを取り除き、実を結ぶものは全て、もっと多く実を結ぶように刈り込みをなさいます。」 神は、私たちが一層神にも人にも喜ばれ、自分でも最終的には「良かった。感謝だ」と思える尊い実を豊かに結べるように、不要な小枝は「取り除き、…もっと多く実を結ぶように刈り込みを」、すなわち、剪定をなさるのです。 小枝が切り落とされるのですから、そこだけを見ると厳しいですし、痛々しい。切り口からは樹液も出ます。けれども、思い切ってこれをしませんと、不要な小枝にまで大切な養分が無駄に行ってしまい、決して多くの良い実を結ぶことはできません。良い実を結ばせたいならば、刈り込みは絶対不可欠なのです。 神は、ご自分の独り子イエスを世に送られ、十字架につけられた程に私たちを愛しておられます。ですから、ガラテヤ5:22、23が言いますように、「愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制」など、人格的にまことに尊い実を豊かに結ぶことを願っておられます。そこで、私たちにはとても辛いのですが、刈り込みをされるのです。 聖書は、それを体験した信仰者たちをも伝えています。例えば、創世記が伝えますヤコブは、本当に好きな女性を妻にするために、14年もただ働きさせられるなど、辛い目に遭いました。しかし、それにより、彼は、彼自身の内にあったややずるい性格など不要なものを削ぎ落され、彼の信仰と人格は練り清められていったのでした。 無論、弱い私たちには、その時は余りにも辛く、悲しく、呻き声さえ出ます。神に恨みを抱いたり、自分はもうこれで駄目だと思うかも知れません。 けれども、Ⅰコリント10:13は言います。「神は真実な方です。あなた方を耐えられない試練に遭わせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練と共に脱出の道も備えていて下さいます。」 自分の一部をもぎ取られ、切り落とされたように感じる時、あまりの辛さに私たちは自分を失いそうになることでしょう。けれども、そんな時こそ、深く御言葉を思い巡らしたいと思います。永遠の命を初めとして、真(しん)に大切な「愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制」など、神の前に最も大切な実を豊かに結ばせるための、神の愛による刈り込みかも知れないことを是非思い起し、静かに神を仰ぎ、自分を見つめ直し、救い主イエス・キリストに一層堅くつながる者でありたいと思います。 関連する説教を探す 2024年の祈祷会 『ヨハネによる福音書』
今日も試練について学びます。20回目となります。
私たちは、人生の中で様々なものを失います。歳を取りますと、当然、若い時のようなエネルギーやチャレンジ精神も通常は失われます。しかし、歳を取ることに伴うこういう喪失は誰もが体験し、私たちはまだ比較的容易にこのことを受容出来ると思います。
しかし、こういう自然的なものではなく、予想もしない時にとても大事なものを奪われ、大きな挫折を体験することもあります。当然、私たちはひどく慌てる。「次はこう、その次はこう」と、大雑把にも描いていた自分の進む道が断たれ、行く手を阻まれ、計画が大きく狂います。私たちは、自分に起った予想外の出来事にうろたえ、苛立ち、一方では根拠もなく自信過剰であった自分に腹を立て、大きな勘違いしていた自分の愚かさに打ちのめされるかも知れません。
こういったことは、全く予期しない大きな自然災害や事故に巻き込まれ、あるいは重い病気になって起ることもあれば、恋愛や試験、仕事に失敗するなどして、起るかも知れません。
大切なことは、これをどう捉えるかです。私たちの人生の様々な局面で起るこういう辛い事柄、これは正に試練ですが、こういうことについても聖書は重要なヒントやアドバイスを与えています。
そこで、先程お読みしましたヨハネ福音書15:2の主イエスの教えに注目したいと思います。これは、有名なぶどうの木と枝の譬えの一部です。イエスはご自分をぶどうの木、弟子たちをその枝に譬え、5節で「私はぶどうの木、あなた方は枝です。人が私に留まり、私もその人に留まっているなら、その人は多くの実を結びます」と言い、信仰によりご自分に留まり繋がっていることの祝福の大きさを語られます。
そういう文脈の中ですが、2節でこう言われます。「私の枝で実を結ばないものは全て、父がそれを取り除き、実を結ぶものは全て、もっと多く実を結ぶように刈り込みをなさいます。」
神は、私たちが一層神にも人にも喜ばれ、自分でも最終的には「良かった。感謝だ」と思える尊い実を豊かに結べるように、不要な小枝は「取り除き、…もっと多く実を結ぶように刈り込みを」、すなわち、剪定をなさるのです。
小枝が切り落とされるのですから、そこだけを見ると厳しいですし、痛々しい。切り口からは樹液も出ます。けれども、思い切ってこれをしませんと、不要な小枝にまで大切な養分が無駄に行ってしまい、決して多くの良い実を結ぶことはできません。良い実を結ばせたいならば、刈り込みは絶対不可欠なのです。
神は、ご自分の独り子イエスを世に送られ、十字架につけられた程に私たちを愛しておられます。ですから、ガラテヤ5:22、23が言いますように、「愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制」など、人格的にまことに尊い実を豊かに結ぶことを願っておられます。そこで、私たちにはとても辛いのですが、刈り込みをされるのです。
聖書は、それを体験した信仰者たちをも伝えています。例えば、創世記が伝えますヤコブは、本当に好きな女性を妻にするために、14年もただ働きさせられるなど、辛い目に遭いました。しかし、それにより、彼は、彼自身の内にあったややずるい性格など不要なものを削ぎ落され、彼の信仰と人格は練り清められていったのでした。
無論、弱い私たちには、その時は余りにも辛く、悲しく、呻き声さえ出ます。神に恨みを抱いたり、自分はもうこれで駄目だと思うかも知れません。
けれども、Ⅰコリント10:13は言います。「神は真実な方です。あなた方を耐えられない試練に遭わせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練と共に脱出の道も備えていて下さいます。」
自分の一部をもぎ取られ、切り落とされたように感じる時、あまりの辛さに私たちは自分を失いそうになることでしょう。けれども、そんな時こそ、深く御言葉を思い巡らしたいと思います。永遠の命を初めとして、真(しん)に大切な「愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制」など、神の前に最も大切な実を豊かに結ばせるための、神の愛による刈り込みかも知れないことを是非思い起し、静かに神を仰ぎ、自分を見つめ直し、救い主イエス・キリストに一層堅くつながる者でありたいと思います。