2024年10月27日「憐み深い者は幸いです」

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憐み深い者は幸いです

日付
説教
田村英典 牧師
聖書
マタイによる福音書 5章1節~10節

聖句のアイコン聖書の言葉

5:1 その群衆を見て、イエスは山に登られた。そして腰を下ろされると、みもとに弟子たちが来た。
5:2 そこで、イエスは口を開き、彼らに教えて、言われた。
5:3 「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだからです。
5:4 悲しむ者は幸いです。その人たちは慰められるからです。
5:5 柔和な者は幸いです。その人たちは地を受け継ぐからです。
5:6 義に飢え渇く者は幸いです。その人たちは満ち足りるからです。
5:7 あわれみ深い者は幸いです。その人たちはあわれみを受けるからです。
5:8 心のきよい者は幸いです。その人たちは神を見るからです。
5:9 平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるからです。
5:10 義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人たちのものだからです。マタイによる福音書 5章1節~10節

原稿のアイコンメッセージ

 約二千年前、人間となってこの世に来られた神の御子イエスは、群衆に向って、真(しん)に幸いな信仰者の特徴を八つ教えられました。

 その特徴は第一に、3節「心の貧しい」こと、すなわち、神の前に不信仰で罪人の自分をよく知っていますので、何より「謙虚」です。

 第二に4節、自分自身と人類全体が持つ自己中心の罪とそれがもたらす人間社会の様々な悲惨な現実に心を痛め、深く「悲し」んでいることです。

 第三に5節、自分の罪深さや欠けをよく知り、神の前に謙虚であるため、対人関係にも自ずからそれが滲み出て、「柔和」です。

 第四に6節、隠れたことも全てご存じの神に自分が喜ばれ、御子イエスのように愛と聖さ(きよさ)と真実に満ちた者になりたいと思って、「義に飢え渇」いています。

 そして第五が、今朝学びます7節「憐み深い」ことです。イエスは言われました。7節「憐み深い者は幸いです。その人たちは憐みを受けるからです。」

 ところで、「憐み」というと、私たちは少し違和感を覚えるかも知れません。貧しい人や弱い人を哀れに思い、誰かが何かを恵んで上げ、それを受けた方の人は卑屈に感じるのではないか、などと思うからです。しかし、聖書の言う憐みは、根本的には、人を大切に思い、心配し、温かく手を差し伸べるなど、隣人愛の具体的な一つの形なのです。

 ただ、私たちの愛は脆くて、偽善的なものも混じりやすいです。従って、私たちは聖書により真(まこと)の憐れみを知る必要があります。そして実は、天の父なるに神こそ、それはあります。詩篇86:15は言います。「…主(神)よ、あなたは憐れみ深く、情け深い神。怒るのに遅く、恵みとまことに富んでおられます。」

 そして神の憐れみは、特に、神の御子イエスが人間となって生れられたこととそのお働きに最高に表されました!

 一体、イエスは何のために人となって世に来られたのでしょうか。

 マタイ9:9以降が伝えていますが、人々に嫌われていました取税人の一人、マタイをイエスが弟子にされ、彼の家で食事をしておられますと、当時のユダヤ教正統派の人たちが来て、弟子たちに「何故あなた方の先生は、取税人や罪人たちと一緒に食事をするのか」と咎めました。 

 これにイエスはこうお答えになりました。9:12、13「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人です。『私が喜びとするのは真実の愛(憐れみ)。いけにえではない』(ホセア6:6)とはどういう意味か、行って学びなさい。私が来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためです。」すなわち、イエスが天の父なる神の許から来られたのは、私たち罪人への憐れみの故であり、実際イエスは蔑まれていた人たちをご自分の許に招き、罪ある女性たちを救われました。そしてイエスの十字架こそ、罪のために滅びる人間を救おうとされる神の憐れみの最大のものだったのです。

 従って、クリスチャンとは、ただ神の憐れみにより、イエスの十字架のお蔭で自分が罪赦されていることを知っている人であり、自分の不信仰に悲しみつつも、日々、神の憐れみの内にイエスによる赦しと支えを希望に生きている人であり、またそれ故に、人に対する憐れみを神に期待されている人なのです。

 そこで、人への憐れみを少し具体的に見たいと思います。

 第一に、それは「人への赦し」となって現れます。コロサイ3:12は言います。「あなた方は神に選ばれた者、聖なる者、愛されている者として、深い慈愛の心、親切、謙遜、柔和、寛容を着なさい。互いに忍耐し合い、誰かが他の人に不満を抱いたとしても、互いに赦し合いなさい。主があなた方を赦して下さったように、あなた方もそうしなさい。」

 イエスはある時、私たちは人を何回赦すべきかと尋ねたペテロに「7回を70倍するまで」(マタイ18:22)、つまり無限に赦しなさい、と言われました。これは、人を赦すことが私たちの赦しと救いの根拠になるというのではありません。イエスは、神の憐れみによる自分の赦しを知っているなら私たちも人を赦せるはずであり、赦せないなら、それは自分がまだ赦されていないからではないのかと言って、私たちの身勝手を戒められます。人への赦しは、自分が神の憐れみにより赦されているという熱い感謝から生れるのであり、自分が神の憐れみなしには赦されない罪人であることがよく分っているなら、人を赦せるであろう、ということです。

 第二は、人への親切や同情や思いやりなど、「相手の身になって考え、行動すること」です。ヒトラーに抵抗し、39歳で殉教したドイツ人の牧師・ボンヘッファーは言いました。「人が何をするか、何をしないかということよりも、何を耐え忍んでいるかという点に目を向けることを、私たちは学ばねばならない。」他者の苦痛への想像力が如何に大切かということです。

 ですから、聖書の言う憐れみには、軽蔑とか見下した点は一切ありません。これは傷つき、苦しみ、悲しんでいる人に対する真の理解と共感であり、彼らと重荷を分ち合おうとする愛なのです。ローマ12:15は言います。「喜んでいる者たちと共に喜び、泣いている者たちと共に泣きなさい。」

 第三に、憐れみは犠牲を払います。私たち罪人の救いのために、ご自分を十字架に献げられた主イエス・キリストの愛を思い起し、自分も犠牲を払って人を助けるのです。

 第四に、自分が人にした良いことは、すぐ忘れます。マタイ25:31以降で、イエスは、世の終りに神の国に入れられる人とそうでない人が分けられる場面を語っておられます。神の国に入れられる人は、イエスに褒められても、「いつ私がそんな良いことをしたでしょうか」と言って驚いています。自分が人にした良いことは全て忘れているのです。ですから、自分が人を赦したことや人にした親切をいちいちよく覚えている人は、神の国から遠いと言わざるを得ませんね。

 第五に、すぐ人を裁かず、人のために祈ります。人の問題点に気付き、イヤな思いをさせられても、人をすぐ「駄目!」と決めつけません。「神の憐れみがなければ、私もあの人と同じようになっていたはずだ」と自分自身を省み、その人のためにまず神に祈ります。

 第六に、自分への神の憐れみと救いの恵みの大きさを思い、「主よ、どうしてあなたは私にこんなに良くして下さるのですか」と絶えず驚き、感謝しています!

 

 では最後に、憐れみ深い人は何故幸いなのかを確認して終りたいと思います。イエスは言われます。7節「憐み深い者は幸いです。その人たちは憐れみを受けるからです。」

 これは、人に憐れみ深くしておけば、いつか人からお返しを受ける、という意味ではありません。憐れみ深い人が人から憐れみを受けることは、よくあると思います。しかし、たとえこの世でそういうことがなくても、世の終りには神ご自身が必ず報いて下さるということです。神の憐れみへの感謝と喜びの故に、人に対して憐れみ深い人は、世の終りの審判の日に必ず神から溢れるばかり憐れみを受けるのです。

 Ⅱコリント5:10は「私たちは皆、善であれ悪であれ、夫々肉体においてした行いに応じて報いを受けるために、キリストの裁きの座の前に現れなければならない」と言います。私たちは皆、世の終りに、この世で行った善悪の報いを受けるのです。何と厳粛な事実でしょうか!けれでも、心から悔改め、謙って、救い主イエスを信じ、受け入れ、寄り頼んでいる信仰者には、全世界を救って、なお余りあるイエスの十字架の絶大な贖いがあり、罪の記録は全て塗り消されるのです。ということは、神の恵みによりさせて私たちの頂いた善い行いに対してだけ、報いはあるのです。何と感謝なことでしょうか!詩篇103:8~13は言います。「主は憐れみ深く、情け深い。怒るのに遅く、恵み豊かである。主は、いつまでも争ってはおられない。とこしえに、怒ってはおられない。私たちの罪に従って、私たちを扱うことをせず、私たちの咎に従って、私たちに報いをされることもない。天が地上遥かに高いように、御恵み(みめぐみ)は、主を恐れる者の上に大きい。東が西から遠く離れているように、主は私たちの背きの罪を私たちから遠く離される。父がその子を憐れむように、主はご自分を畏れる者を憐れまれる。」

 最後の審判の時、神の御子イエス・キリストは、憐れみ深かった信仰者にこう言われます。マタイ25:40「まことに、あなた方に言います。あなた方が、これらの私の兄弟たち、それも最も小さい者たちの一人にしたことは、私にしたのです。」

 神の憐れみへの感謝の故に、人に対して憐れみ深い人は、終りの日に必ず報われます!私たちは忘れていても、神は記憶しておられ、ことごとく報いて下さいます!無論クリスチャンは、決して報いを受けたいために、人に憐み深くあるのではありません。けれでも、イエスは言われます。「憐れみ深い者は幸いです。その人たちは憐れみを受けるからです。」

 憐み深いとは、それ自体、何と尊く幸いなことでしょうか!私たちも是非憐み深く、また憐み深さにおいてますます成長することを許されたいと思います。

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