2024年10月20日「私たちの疑い」

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聖句のアイコン聖書の言葉

20:24 十二弟子の一人で、デドモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。
20:25 そこで、ほかの弟子たちは彼に「私たちは主を見た」と言った。しかし、トマスは彼らに「私は、その手に釘の跡を見て、釘の跡に指を入れ、その脇腹に差し入れてみなければ、決して信じません」と言った。
20:26 八日後、弟子たちは再び家の中におり、トマスも彼らと一緒にいた。戸には鍵がかけられていたが、イエスがやって来て、彼らの真ん中に立ち、「平安があなたがたにあるように」と言われた。
20:27 それから、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしの脇腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」
20:28 トマスはイエスに答えた。「私の主、私の神よ。」
20:29 イエスは彼に言われた。「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ないで信じる人たちは幸いです。」ヨハネによる福音書 20章24節~29節

原稿のアイコンメッセージ

     【 序論 トマスの物語はヨハネ福音書の結論を示す大切な物語 】

 何事も「始め」と「終わり」が大切である、とよく言われます。私は読書が好きですが、本を選ぶ時には大抵まずその本の序文を読み、その本を読むかどうかを判断します。また読んだ小説で印象に残るものは、結末が素敵であったり、あるいは小説の最後の一文や主人公の最後のセリフが印象深いものであることが多いと思います。そのように、書物の場合も「始め」と「終わり」はとても大切な役割を担っていると言ってよいと思います。

 今日お読みしました20章24節から29節は、続く30節、31節の「イエスは弟子たちの前で、ほかにも多くの印を行われたが、それはこの書には書かれていない。これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたが信じるためであり、また信じて、イエスの名によっていのちを得るためである」という言葉と共に、このヨハネ福音書の結論と言ってよい箇所であると思います。聖書を見ますと、20章の後には21章が続いていますが、多くの神学者が一致して考えていることは、この21章はヨハネの福音書が編集される過程で後から足された箇所であるということです。21章には主イエスが再び弟子たちの前に現れ、三度「イエスのことを知らない」と言ったペテロに対して、主イエスが三度「わたしを愛しているか」と尋ねることが記されています。このペテロの話も大切な役割を担っており、だからこそ欠くことができない福音書の一部として最後に置かれたのでありますが、最初にヨハネ福音書の結論として著者が記したのは、20章であると考えてよいと思います。

 したがって、今日共にお読みしたのはヨハネの福音書のエピローグとも言うべき箇所であり、ヨハネの福音書の結論を示す大切な箇所であるわけです。けれども、正直に言うならば、私は最初、なぜこのトマスの話がヨハネ福音書の大切な結論の場所に置かれているのか、よく理解できませんでした。私には、このトマスの話がエピローグとしてはあまりにも地味と言いますか、盛り上がりに欠ける話に思えたからであります。しかし、よくよくこの箇所を読めば、ここに記されています十二弟子の一人であるトマスと主イエスのこの小さな物語は、一見なんでもない話のように思えますが、21章にありますペテロの話と合わせて、このヨハネの福音書全体を締めくくるのにふさわしい物語であることが分かってきます。同時に、このトマスの話が私たちにとりまして慰めに満ちた大切な物語でもあることも分かってきます。ヨハネの福音書の最後に置かれました、その大切な物語を、今日は共に読みたいと思います。

     【 本論1 トマスの疑いは「私たちの疑い」 】

 今日の箇所の直前にあります19節から23節には、十字架上で息を引き取られた主イエスがよみがえられ、弟子たちに現れたことが記されています。なぜかその場にいなかったのが、十二弟子の一人であるトマスです。このトマスは他の福音書では名前しか登場しませんが、ヨハネの福音書では、今日の箇所を含めて三回登場いたします。

 トマスがどのような人物であったかを窺い知ることができるのは、11章に記されているラザロという死んだ男を生き返せるために、主イエスがベタニヤに行こうとされる場面であります。そこは人々が主イエスを石で打ち殺そうとしたエルサレムのあるユダヤ地方にありました。弟子たちが「先生。ついこの間ユダヤ人たちがあなたを石打ちにしようとしたのに、またそこにおいでになるのですか」と心配する中、トマスだけは「私たちも行って、主と一緒に死のうではないか」と言う。「私たちは弟子として、主イエスと共に死ぬことになってもいいではないか」、そうトマスは言った訳です。そのような主イエスに対する真っ直ぐな思いと、主イエスに対する忠誠心をトマスは持っていました。あまり深く物事を考えることはしない。しかし真っ直ぐに自分の思いに生きる。自分の気持ちに正直に生きる。それがこのトマスという弟子であります。

 このトマスが、復活された主イエスが弟子たちに姿を現した時、その場にいなかった。何故いなかったのか、その理由は記されていません。仲間の弟子たちが「わたしたちは主を見た」とトマスに告げますが、トマスは信じることができません。そして自分の疑いの気持ちを正直に言い表した言葉が25節であります。「しかし、トマスは彼らに『私は、その手に釘の跡を見て、釘の跡に指を入れ、その脇腹に手を入れてみなければ、決して信じません』と言った。」主イエスが十字架に打ちつけられたその釘跡を見なければ、兵士に槍で脇腹を突き刺された、その脇腹の傷に自分の手を当てないかぎり自分は信じない。そのようにトマスは率直に、信じることができない自分の思いを言い表したのであります。

 これはあまりにも信仰心に欠ける発言ではないか、疑り深い発言ではないか。そのように「疑り深いトマス」というのが一般的によく持たれるイメージのようです。しかし、これは果たして正しい評価であるのか、考える必要があると私は思います。トマスの疑いは「イエス・キリストは復活された」ということを聞く時に、人間が抱く当然な疑いの気持ちを言い表しているのではないかと思うのです。「トマスの疑い」は、間違いなく「私たちの疑い」でもあるのです。

     【 本論2 主イエスが「私たちの疑い」を取り除く 】

 そのトマスに主イエスが現れ語りかける様子が26節以降に記されています。「八日後、弟子たちは再び家の中におり、トマスも彼らと一緒にいた。戸には鍵がかけられていたが、イエスがやって来て、彼らの真ん中に立ち、『平和があなたがたにあるように』と言われた。それから、トマスに言われた。『あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしの脇腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じるになりなさい。』トマスはイエスに答えた。『わたしの主、わたしの神よ。』」

 主イエスが再び弟子たちに現れる。そして主イエスはトマスの心の中を全てご存知であるかのように、トマスの言葉をなぞるかたちでトマスに言われます、「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしの脇腹に入れなさい。」イエスは疑うトマスを責めることなく、トマスの疑いにご自身から近づいていかれます。そして疑うトマスを、ご自身のよみがえりを信じる信仰に導かれるのです。「信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」そう言われるのであります。この主イエスの姿を見て、主イエスの言葉を聞いて、トマスは主イエスが死からよみがえられたことを信じ、「わたしの主、わたしの神よ」と告白する訳です。

 このトマスの「わたしの主、わたしの神よ」という告白、「主イエスこそ神である」との告白が、ヨハネ福音書の「結論」であります。そしてこの小さなトマスの告白の物語は、ヨハネ福音書1章に記されている序文と響き合っています。序文には何が記されていたか。1章1節には「ことばは神であった」とありました。ことばである「主イエスは神である」、それがヨハネ福音書の始めである「序文」に記されていることでありました。そしてこのことを、ヨハネによる福音書の終わりである「結論」において、トマスが告白するのであります。主イエスこそ、神であると告白する。しかも「わたしの神である」と自分との関係の中で告白する。この告白をトマスは自分の力でするのではありません。主イエスがトマスを信仰へと導いたのであります。主イエスがトマスにご自分を表し、「信じる者になりなさい」と言われたのであります。

 復活された主イエスが最初に弟子たちに現れた時に、トマスがそこにいなかった理由が聖書には記されていないと先程言いました。何故トマスはそこにいなかったのか。聖書はあることを私たちに示したかったのではないかと思います。それは、私たちの信仰を支えてくださるのは神であるということです。私たちはしばしば、自分の貧しい信仰を嘆きます。けれども私たちに信仰を与えてくださるのは神であります。主イエスの方から「信じる者になりなさい」と近づき、トマスは「わたしの主、わたしの神よ」と告白したのです。神が私たちを信仰へと導いてくださる。このことを示すために、はじめに主イエスが弟子たちに現れた時、トマスがそこにいないように、神ご自身が導かれたのではないかと私は思うのです。

     【 本論3 弟子たちが見て、信じ、そして証しする。

                  私たちが見ないで信じる幸いを得るために 】

 主イエスは最後に次のようにトマスに言います。「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ないで信じる人たちは幸いです。」主イエスはトマスを叱っているようにも聞こえます。なぜ仲間の言葉を信じなかったのか。そう言っておられるようにも聞こえます。けれども、そうでしょうか。主イエスはトマスを咎めているのでしょうか。確かにトマスは仲間の弟子たちの言葉を信じませんでした。しかし考えてみれば、他の弟子たちも復活された主イエスを見て、信じたのです。1ページ前に戻っていただくと、そこには主イエスが復活された日に、ペテロとイエスが愛しておられたもう一人の弟子が、墓から石が取り除かれたのを聞いて、墓に駆けつけ、そこにイエスがおられないのを見る場面が記されています。20章8節には次のように記されています。「そのとき、先に墓に着いたもう一人の弟子も入って来た。そして見て、信じた。」ここにはっきりと、見て信じたと書いてある。同じ日に主イエスが弟子たちのところに姿を見せますが、これも20節には次のように記してあります。「こう言って、イエスは手と脇腹を彼らに示された。弟子たちは主を見て喜んだ。」トマスだけでなく、他の弟子たちだって復活された主イエスを見て、信じたのです。見て、喜んだのです。

 ヨハネの福音書は、主イエスの業(わざ)を見た者の証言を大切にしています。お開きにならなくても結構ですが、主イエスが十字架に架けられ、兵士によって槍でわき腹を刺された時のことを19章の34節、35節で次のように記しています。「しかし、兵士の一人は、イエスの脇腹を槍で突き刺した。すると、すぐに血と水が出て来た。これを目撃した者が証ししている。それは、あなたがたがも信じるようになるためである。その証しは真実であり、その人は自分が真実を話していることを知っている。」

 ヨハネの福音書は証言の書と言ってよいと思います。トマスと他の弟子たちは復活された主イエスを見たのであります。復活された主イエスについて証しする証人であります。ヨハネはこの福音書を紀元90年代に、当時の教会の人々に向けて書き記しました。もうその時には主イエスは天に上げられ、人々はもちろん復活された主イエスを見ることはできません。主イエスの業を見て、主イエスの言葉を聞いたトマスそして他の弟子たちは、主イエスと「主イエスが天に上げられた後に生きる人々」とをつなぐそのような大切な存在です。弟子たちは復活の主イエスを見た、そしてヨハネはそのような復活された主イエスを直接見ることはない教会の人々に向けて、そして私たちに向けて、「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ないで信じる人たちは幸いです」という主イエスの言葉を書き記したのであります。復活された主イエスに姿を見たトマスは幸いであった、しかしこの言葉を通して、神を知り、神の愛を知るあなたがたもトマス同様に、いやそれ以上に幸いであるというのであります。

     【 結論 「私たちの疑い」の真ん中に、しかし主イエスは立っておられる 】

 最初に復活されたイエスが弟子たちに現れた時、弟子たちはどこにいたのか。彼らは19節にありますように、自分たちも主イエスと同じように殺されるのではないか、そのように恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていました。そして、今日の箇所においても、26節を見ますと、弟子たちはまた家の中におり、「戸に鍵がかけられていた」とあります。はっきりとは記していませんが、弟子たちはやはり恐れの中にあったのではないかと思います。復活の主イエスに出会い、「あなたがたに平安があるように」という主イエスの言葉を聞いた後でも、そして聖霊を受けたその後でも、やはり弟子たちには恐れがあった、ということです。この恐れの中にある弟子たちの中に主イエスは来られ、そして疑い深いトマスをも見捨てることなく、信仰に導く姿を、ヨハネはこの福音書の「結論」に記したのであります。

 なぜでしょうか。それが私たちの姿であるからであります。御言葉を通して私たちは神を知った。それでも弟子たちと同じように、私たちはこの世にあって様々なことに恐れを抱くのです。御言葉を通して神の愛を示された。それでも私たちはトマスのように疑いを抱くのです。弟子たちの恐れは私たちの恐れであり、トマスの疑いは私たちの疑いであります。しかしその「私たちの恐れと疑い」の真ん中に、主イエスは立たれるのです。

 26節に「八日後」とあります。注解書によればこれは計算すると日曜日であるとのことです。主の日に、恐れと疑いの中にあった弟子たちとトマスの真ん中に主イエスが立たれた。それはまさに、主イエスが天に上げられた後も、教会の礼拝で起こり続けていることであります。ここで起こっていることであります。

 主の日に、このように共に集まる私たちは、トマスのように疑いの中にあるかもしれない、しかしその弱い私たちに主イエスは、ご自身の手の釘跡を見せて「信じないものではなく、信じるものになりなさい」と言われる。私たちは恐れの中にあるかもしれない、しかし主イエスはその私たちの真ん中に立ち、「あなたがたに平安があるように」と言われるのであります。

 弟子たちは、復活した主イエスが自分たちの真ん中に立たれているのを見て喜んだとヨハネは記しました。私たちも同じ喜びの中にあるのではないか。私たちの真ん中に立たれる主イエスの手には釘の跡があり、脇腹には槍で突き刺された跡があることを私たちは知っています。それは主イエスが「私たちの疑い」を全てご存知であられ、それどころかその「私たちの疑い」を担った下さったことのしるしであります。

 そのしるしを身におびておられる主イエスが、この礼拝の真ん中に立っておられる主イエスが、私たちを招いておられる喜びを記した言葉を最後に共にお読みしたいと思います。ペテロの手紙第一 1章の8節、9節であります。「あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、今見てはいないけれども信じており、ことばに尽くせない、栄えに満ちた喜びに踊っています。あなたがたが、信仰の結果であるたましいの救いを得ているからです。」目に見えないけれども、目に見えないからこそ、それは朽ちることのない喜びであり、この朽ちることのない喜びに私たちは踊りつつ、歩むのであります。

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