2024年10月17日「病の家族を抱えて」

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病の家族を抱えて

日付
説教
A 伝道所委員
聖書
詩編 139章1節~7節

聖句のアイコン聖書の言葉

139:1 主よ あなたは私を探り 知っておられます。
139:2 あなたは 私の座るのも立つのも知っておられ、
    遠くから私の思いを読み取られます。
139:3 あなたは私が歩くのも伏すのも見守り
    私の道のすべてを知り抜いておられます。
139:4 ことばが私の舌にのぼる前に なんと主よ
    あなたはそのすべてを知っておられます。
139:5 あなたは前からうしろから私を取り囲み
    御手を私の上に置かれました。
139:6 そのような知識は私にとって
    あまりにも不思議
    あまりにも高くて 及びも尽きません。

139:7 私はどこへ行けるでしょう。
    あなたの御霊から離れて。
    どこへ逃れられるでしょう。
    あなたの御前を離れて。詩編 139章1節~7節

原稿のアイコンメッセージ

 今日は奨励の奉仕を与えられて感謝します。まだ奨励をするだけの器が整うだけ成長していない者であったことをこの1~2か月実感し、できるものなら逃げ出したいと思いましたが、足りない者であることを自覚し、皆さんには申し訳ないのですが、恥や失敗をさらしてでも委員として成長するための糧となりますようにと思っています。

 先ほどお読みした箇所は、すべてをご存じである神、全知の主への賛歌が記されています。それは「詩篇作者自身の信仰の告白であり、自身の生活実感である」と注解書に書かれていました。すべてをご存じの主にさらけ出して祈り、すべてを主に委ね、主だけが私の理解者、救い主であると告白している姿がそこにあります。

 この御言葉から、私がこの1年、病の家族を持つ者として思い巡らせたことをお分かちしたいと思います。

 私の父は昨年8月12日に倒れ、現在も入院中です。昨日まで元気に働いていた人が、急に働けなくなりました。話せない、痰も飲み込めない、不安定になり、せん妄から暴言暴力を行う、昼夜逆転して眠れなくなり精神科に入る、出てこられないと思うとガリガリに痩せてリハビリも進まず、食べられなくなる、胃瘻をする、痰がつまり窒息しそうになり、気管切開をし、話せなくなる…。これが父の一連の経過です。家族はクヨクヨしますが、クヨクヨするひまはなく、家族でケンカを繰り返しますが、後を引いてはおられず、一つ一つ決断を迫られます。下した決断が父にとって良かったのかと、その思いに駆られることが今でもあります。

 私はその年の初め、伝道所委員になったばかり。これから覚えることもやりたいこともたくさんありました。まさに腕をブンブン振って“やるぞ~!!”と思っていた矢先のできごとでした。他の伝道所委員の方々には、多くのことを大目にみてもらっていることを申し訳なく思っています。でもそのように助けてもらい、祈ってもらって教会生活が送れることは、ノンクリスチャンの家から教会に来ている私にとって本当に感謝なことです。

 父が倒れた時、父はまだ68歳?。父はまだ若いし、家に帰れるかもと思い、「神様、父のリハビリが早く進みますように…。ますます歩けますように…」と祈りました。まだ父は歩いていたからです。訓練士さんが想像するよりも早いスピードでスタコラと。階段の昇り降りもしていました。しかし、食べることとメンタルのコントロールはうまくいきませんでした。その中でだんだんと私の祈りは変わってきました。「神様、人の目には不可能だと思っても、神様ならおできになります。どうぞ父が再び食べることができ、歩けるようにしてください。人は無理だと思っても、あなたなら奇跡を起こすことがおできだと私は知っています。私は信じます」と泣きながら祈りました。

 色々な方から、「お父さん、まだ若いから少し引きずるかもしれんけど、歩けるようになるよ」「またリハビリしたら食べられるようになるよ」と言われました。また勤め先に来る患者さんで脳出血を患った患者さんと父を比べ、答え合わせをするようになりました。「あの人は父より年が上なのに、歩いてるんだ…」「あの人は父よりいろんな病歴を持っているのに、話している…なんでなんだろう?」

 そして毎月病院で行われる医師やリハビリの方との面談ができないことばかりを点数化してあり、とても辛く悲しく、肉が切られるような思いがする時間でした。その度に沈んでいく母を引き上げ、励ます力がその時の私にはありませんでした。帰りの車の中で、さっき聞いた悲しい話を、母の解釈によってますます暗くされたものを、分かりやすく説明しなおそうとして、ケンカするという繰り返しです。

 私は父の回復を主に期待することも祈ることもできなくなりました。医師や看護師の話を聞くのも辛い、母と話すのも辛い、職場に来る脳出血から回復した患者さんを見るのも辛い、支える側の家族のこの空虚な気持ちを埋めるものはないのでしょうか…。

 病院に「家族の集いサロン」というチラシが貼ってあり、その掲示板の前で「神様、なんで…、父はどうして…」とボロボロ涙が出てきて立ち尽くしていました。

 その時、やはりこの空虚な気持ちを救ってくれたのは、家族の集いとかこの世のものではありませんでした。毎週の御言葉によって励ましを得て、また現実に戻ること。ただ悲しみを聞いてもらい、祈ってもらい、共感し、心配してくれる人が、この教会には、また私の周りにはたくさんいた、ということが大きな慰めであり励ましでありました。ある姉妹とウォーキングをしていますが、医療者である彼女は、ただただ聞いてくれて共感してくれて、適切な助言をくれました。明るく話すとか無責任な励ましではなく、私が話したいだけ話せるように、ただ聞く。楽しい話題は一つもなかったので、彼女にとっては楽しい時間ではなかったと思うのですが、私の話を嫌がることも切ることもありませんでした。彼女の姿勢に、傾聴すること、受け取ってもらうことの大切さを知りました。また彼女の助言によって、私も母や妹も安心を得ることができました。

 また祈祷会での「試練」の学び、成人科での「キリスト教と医療」の学びは、今の私にとっては、切なく、心の痛むものであると同時に、必要なことが語られ、慰めが与えられました。一つ一つの学びも、主が私の必要を覚え、この時に教えてくださっているのだと思いました。

 人はすぐ元気になったり、急に変えられたりすることはありません。少しずつ神への信頼が新たにされ、祈り、神への信仰が強められていくのだと思います。

 病院の掲示板の前で立ち尽くしていた私は暗い道を進むことができず、自分の部屋に戻った私は夜、祈ることができませんでした。しかし詩篇139:4にあるように、「言葉が私の舌にのぼる前から主はそれを知っていてくださる」のです。私の焦りや空虚な気持ち、絶望、イライラ、一切が主の前に明らかだったのです。「言わなかったから知らないよ」「祈らなかったから知らないよ」と言われない神様。祈れない、言葉にできず立ち尽くしていた私を知っていて、神様が前からも後ろからも取り囲んでいてくださるなんて、こんな幸いなことはありません。

 注解書には139:6のことを「長い試練の果てに神から悟りが得られる」とありました。結局、魂の渇きはこの世のものでは埋めることができず、神様からしか来ないんだと知りました。私を取り囲んで離さず、教会や教会の交わり、友から引き離さず、毎週、礼拝と祈祷会に招いて下さっている神様に感謝します。

 詩篇139:6のように、私には、主の計画、特にこれから父がどのような経過をたどっていくのかは分りません。しかし絶対者であられ、すべてを知る神様の前から離れず、この世のものではなく、主から来る助けをいただいて歩みたいと思います。

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