聖書の言葉 2:1 ですから、キリストにあって励ましがあり、愛の慰めがあり、御霊の交わりがあり、愛情とあわれみがあるなら、2:2 あなたがたは同じ思いとなり、同じ愛の心を持ち、心を合わせ、思いを一つにして、私の喜びを満たしてください。2:3 何事も利己的な思いや虚栄からするのではなく、へりくだって、互いに人を自分よりすぐれた者と思いなさい。2:4 それぞれ、自分のことだけでなく、他の人のことも顧みなさい。フィリピの信徒への手紙 2章1節~4節 メッセージ 祈祷会奨励の機会を頂きまして、何をお分かちすれば良いのか随分悩みましたが、今年は夏の教会修養会で「教会-聖徒の交わり-」について学びましたので、そのことについて、再度、ご一緒に考えることが出来たらと思っています 「教会」については、今までも田村先生からも度々学ばせていただき、また御言葉を通しても教えられてきましたが、何度繰り返してもなお、私たちにとっては必要な学びだと思います。「教会」の定義は、キリストの体、神の家、神の宮、祈りの家、主に属するもの、主の家族など様々あると教えられてきました。教会がなくては、私自身、神様に出会うことも救われることもなかったし、その後、信仰を保つことも、共に神様を喜ぶ信仰の仲間に出会うこともなかったでしょう。感謝しかありません。 さて、私たちは「主にある兄弟姉妹」という言葉を良く口にしますが、大変慕わしい響きが致します。 実際には血縁ではない方々のことを兄弟姉妹と呼び合い、そしてどのような関係かというと、主にあって結ばれているということがとても重要だと思います。罪ある私たちがイエス・キリストを救い主と信じ、その救い主を共に崇める人々が兄弟姉妹として神の家族として集められているという事、なんと喜ばしい、そして心強い事でしょうか。この世においても、家族、地域、学校、仕事、趣味、ボランティア、様々の繋がりはありますが、「主にある兄弟姉妹」という言い方は他に替えることのできない特別な意味を持っていると思います。その「主にある兄弟姉妹」が、ある地域で一つ所に集まり、共に礼拝を捧げ、神様の栄光を現すために共に信仰生活を送り、教会を形成しています。主のために生きることにおいて私たちは一つです。また私自身にとっては「なくてはならない居場所」という言い方も出来ます。 この度、修養会「教会‐聖徒の交わり-」についての録音を何度も聞き直し、また原稿を読み直しました。その中に記されているハイデルベルク信仰問答の問55をもう一度、読んでみたいと思います。 問:聖徒の交わりについてあなたは何を理解していますか 答:第一に信徒は誰であれ、群れの一部として主キリストとこの方のあらゆる富と賜物にあずかっているということ。 第二に、各自は自分の賜物を、他の部分の益と救いとのために、自発的に喜んで用いる責任がある事をわきまえなければならない、ということです。 ここを読んで、愛する兄弟姉妹方と主キリストとこの方のあらゆる霊的な富と賜物に共に与ることが出来ることを、もっと意識して喜びたいと思いました。同時に、私たちは自分のためだけでなく、他の人々の益と救いとのために自らの賜物を積極的に用いる責任がある事を、強く思いました。イエス様が愛され、命をもって救われたが故に、かけがえのない一人ひとりです。そのために具体的にはどうすればよいでしょうか。 先の修養会では、3つのグループに分かれて話し合いの時間がありましたが、講演の感想とともに、普段の思いも色々に語られました。出来ればもっともっとゆっくり時間を取りたいほどでした。そこでの最後のまとめの感想で、田村先生が「皆さんの心の中に実は色々な思いがある事を聞かせて頂いてよかったです。そのいろんな思いに気付くことが出来てよかったです。もっともっと聞かせてくださいね」と仰ったのがとても印象的でした。「喜ぶ者と共に喜び、泣く者とともに泣きなさい」という御言葉が浮かんできます(ローマ12:15参照)。 私がその時感じたこと、そして最近思うことは、いつの時もやっぱり人は誰でも色々な思いを抱えていて、話してみないと分からないこと(実は話しても分かるとは限らないのですが)が沢山たくさんあるのだなということです。そして、なかなかそれに気付くことが出来ない自分、見過ごしてしまう忙しい日常を思いました。 今日お読みしましたこの聖書個所は、教会生活を送る上で、具体的で励まされる箇所だと思います。そして反省させられるところでもあります。私たちの一致を妨げるものは、3節「利己的な思いと虚栄」だとあります。よくよく自分を顧みたいと思います。自分自身のことを振り返っても、いかに自分のことしか考えていないことが多いか、を思わされます。私たちが見習うべきは、主イエス・キリストの生き方です。キリストは、仕えられる者ではなく、仕える者となられ、この世に来てくださいました。 夏のハレルヤチャーチキャンプでは、子供たちは工作の時に「W.W.J.D.?」(What Would Jesus Do?)、つまり、イエス様だったらどうするだろうとのフレーズを用いて、ブレスレットやキーホルダーなどを作っていましたが、私も自分用のWWJDのブレスレットを持っているので身に着けるようにしました。ふだん、私たちは自分のことしか考えていません。しかし、ちょっとそれをやめて、何か助けを必要としている人がいないか、気がつくように努めてみたいと思います。 そして4節は「自分のことだけでなく他の人のことも顧みなさい」と教えます。愛する兄弟姉妹の言葉、表情、生活、声にならない声、沈黙、その全てに耳を、目を、心を向けられるものでありたい願います(特にいつも「私は大丈夫」としか言わない方々に対して)。 神様の御言葉を礼拝で、祈祷会で、個々人の礼拝の中で聞くことはもちろん大切ですが、人の声と温もりとをもって励ましを受ける時、私たちはより豊かになれるように思います。そうして「キリストにある励まし、愛の慰め、御霊の交わり、愛情とあわれみ」(1節)という土台の上に、教会の聖徒の交わりが益々豊かにありますようにと願うものであります。 最後に、田村先生が教えてくださったボンヘッファーの言葉を添えたいと思います。 「人間が何をするか、何をしないかということよりも、何を耐え忍んでいるかという点に目を向けることを、われわれは学ばねばならない。」 この言葉は特に私の心に響いた言葉のうちの一つです。経験も想像力にも欠ける自分にとっては常に心にとめておきたい言葉です。少しでも「気付く」ことが出来る者となりたいと思います。それぞれが重荷を持ちつつも、共に神の家族として「教会」を建て上げていくことが出来ますように祈ります。 関連する説教を探す 2024年の祈祷会 『フィリピの信徒への手紙』
祈祷会奨励の機会を頂きまして、何をお分かちすれば良いのか随分悩みましたが、今年は夏の教会修養会で「教会-聖徒の交わり-」について学びましたので、そのことについて、再度、ご一緒に考えることが出来たらと思っています
「教会」については、今までも田村先生からも度々学ばせていただき、また御言葉を通しても教えられてきましたが、何度繰り返してもなお、私たちにとっては必要な学びだと思います。「教会」の定義は、キリストの体、神の家、神の宮、祈りの家、主に属するもの、主の家族など様々あると教えられてきました。教会がなくては、私自身、神様に出会うことも救われることもなかったし、その後、信仰を保つことも、共に神様を喜ぶ信仰の仲間に出会うこともなかったでしょう。感謝しかありません。
さて、私たちは「主にある兄弟姉妹」という言葉を良く口にしますが、大変慕わしい響きが致します。
実際には血縁ではない方々のことを兄弟姉妹と呼び合い、そしてどのような関係かというと、主にあって結ばれているということがとても重要だと思います。罪ある私たちがイエス・キリストを救い主と信じ、その救い主を共に崇める人々が兄弟姉妹として神の家族として集められているという事、なんと喜ばしい、そして心強い事でしょうか。この世においても、家族、地域、学校、仕事、趣味、ボランティア、様々の繋がりはありますが、「主にある兄弟姉妹」という言い方は他に替えることのできない特別な意味を持っていると思います。その「主にある兄弟姉妹」が、ある地域で一つ所に集まり、共に礼拝を捧げ、神様の栄光を現すために共に信仰生活を送り、教会を形成しています。主のために生きることにおいて私たちは一つです。また私自身にとっては「なくてはならない居場所」という言い方も出来ます。
この度、修養会「教会‐聖徒の交わり-」についての録音を何度も聞き直し、また原稿を読み直しました。その中に記されているハイデルベルク信仰問答の問55をもう一度、読んでみたいと思います。
問:聖徒の交わりについてあなたは何を理解していますか
答:第一に信徒は誰であれ、群れの一部として主キリストとこの方のあらゆる富と賜物にあずかっているということ。
第二に、各自は自分の賜物を、他の部分の益と救いとのために、自発的に喜んで用いる責任がある事をわきまえなければならない、ということです。
ここを読んで、愛する兄弟姉妹方と主キリストとこの方のあらゆる霊的な富と賜物に共に与ることが出来ることを、もっと意識して喜びたいと思いました。同時に、私たちは自分のためだけでなく、他の人々の益と救いとのために自らの賜物を積極的に用いる責任がある事を、強く思いました。イエス様が愛され、命をもって救われたが故に、かけがえのない一人ひとりです。そのために具体的にはどうすればよいでしょうか。
先の修養会では、3つのグループに分かれて話し合いの時間がありましたが、講演の感想とともに、普段の思いも色々に語られました。出来ればもっともっとゆっくり時間を取りたいほどでした。そこでの最後のまとめの感想で、田村先生が「皆さんの心の中に実は色々な思いがある事を聞かせて頂いてよかったです。そのいろんな思いに気付くことが出来てよかったです。もっともっと聞かせてくださいね」と仰ったのがとても印象的でした。「喜ぶ者と共に喜び、泣く者とともに泣きなさい」という御言葉が浮かんできます(ローマ12:15参照)。
私がその時感じたこと、そして最近思うことは、いつの時もやっぱり人は誰でも色々な思いを抱えていて、話してみないと分からないこと(実は話しても分かるとは限らないのですが)が沢山たくさんあるのだなということです。そして、なかなかそれに気付くことが出来ない自分、見過ごしてしまう忙しい日常を思いました。
今日お読みしましたこの聖書個所は、教会生活を送る上で、具体的で励まされる箇所だと思います。そして反省させられるところでもあります。私たちの一致を妨げるものは、3節「利己的な思いと虚栄」だとあります。よくよく自分を顧みたいと思います。自分自身のことを振り返っても、いかに自分のことしか考えていないことが多いか、を思わされます。私たちが見習うべきは、主イエス・キリストの生き方です。キリストは、仕えられる者ではなく、仕える者となられ、この世に来てくださいました。
夏のハレルヤチャーチキャンプでは、子供たちは工作の時に「W.W.J.D.?」(What Would Jesus Do?)、つまり、イエス様だったらどうするだろうとのフレーズを用いて、ブレスレットやキーホルダーなどを作っていましたが、私も自分用のWWJDのブレスレットを持っているので身に着けるようにしました。ふだん、私たちは自分のことしか考えていません。しかし、ちょっとそれをやめて、何か助けを必要としている人がいないか、気がつくように努めてみたいと思います。
そして4節は「自分のことだけでなく他の人のことも顧みなさい」と教えます。愛する兄弟姉妹の言葉、表情、生活、声にならない声、沈黙、その全てに耳を、目を、心を向けられるものでありたい願います(特にいつも「私は大丈夫」としか言わない方々に対して)。
神様の御言葉を礼拝で、祈祷会で、個々人の礼拝の中で聞くことはもちろん大切ですが、人の声と温もりとをもって励ましを受ける時、私たちはより豊かになれるように思います。そうして「キリストにある励まし、愛の慰め、御霊の交わり、愛情とあわれみ」(1節)という土台の上に、教会の聖徒の交わりが益々豊かにありますようにと願うものであります。
最後に、田村先生が教えてくださったボンヘッファーの言葉を添えたいと思います。
「人間が何をするか、何をしないかということよりも、何を耐え忍んでいるかという点に目を向けることを、われわれは学ばねばならない。」
この言葉は特に私の心に響いた言葉のうちの一つです。経験も想像力にも欠ける自分にとっては常に心にとめておきたい言葉です。少しでも「気付く」ことが出来る者となりたいと思います。それぞれが重荷を持ちつつも、共に神の家族として「教会」を建て上げていくことが出来ますように祈ります。