2024年10月13日「イエスの家族とは」

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聖句のアイコン聖書の言葉

12:46 イエスがまだ群衆に話しておられる時、見よ、イエスの母と兄弟たちがイエスに話をしようとして、外に立っていた。
12:47 ある人がイエスに「ご覧下さい。母上と兄弟方が、お話ししようと外に立っておられます」と言った。
12:48 イエスはそう言っている人に答えて、「私の母とは誰でしょうか。私の兄弟たちとは誰でしょうか」と言われた。
12:49 それから、イエスは弟子たちの方に手を伸ばして言われた。「見なさい。私の母、私の兄弟たちです。
12:50 誰でも天におられる私の父の御心を行う人なら、その人こそ、私の兄弟、姉妹、母なのです。」マタイによる福音書 12章46節~50節

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 私の父は、私が16歳の時まで警察官をしていました。小学生の時、私のクラスで父が警察官の働きについて話をした時、「僕にはこんなお父さんがいるよ」と誇らしく思ったものです。しかし、少し乱暴な6歳上の兄(もう亡くなっています)が中学校で喧嘩相手の服を駄目にした時には、兄を恥ずかしく思いました。私たちには、家族への様々な思いがあると思います。

 今朝の聖書箇所では、イエスの家族について大切なことを教えられます。46、47節「イエスがまだ群衆に話しておられる時、見よ、イエスの母と兄弟たちがイエスに話をしようとして、外に立っていた。ある人がイエスに『ご覧下さい。母上と兄弟方が、お話ししようと外に立っておられます』と言った。」

 この頃には、イエスはガリラヤ中で有名になっておられました。しかし、当時のユダヤ教正統派のパリサイ人たちはイエスを妬み、敵視し、12:22以降のように悪霊の頭(かしら)ベルゼブルと結託しているとまで言ってイエスを誹謗中傷し、ついにはイエスを殺す相談を始めるのでした。

 こういう話は、当然イエスの故郷ナザレにも伝わっていました。ですから、母マリアと兄弟たち、すなわち、13:55の伝える弟のヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダは、イエスの宣教活動の拠点であるカペナウムへ出て来たのでした。マルコ3:32によりますと、イエスの妹たちも来て一家総出でした。

 彼らはどんな思いだったのでしょうか。マタイは、彼らがイエスと話しをしようとしたと伝えます。何の話かは伝えていませんが、悪い噂やイエスに対する危険な動きを知り、恐らくイエスをナザレへ連れ帰る積りだったと思われます。

 家族の中でも意見の違いがあったかも知れません。ルカ1章が伝えますように、母マリアはそもそもイエスを聖霊によって身ごもったのでしたし、ルカ2章が伝えますが、少年時代のイエスの驚くべき知恵や神と人に愛された人柄を覚えています。またヨハネ2章が伝えますように、イエスの宣教活動の最初の頃にカナで行われた結婚式で、水を葡萄酒に変えたイエスの奇跡も見ていました。マリアはそういうイエスを守ろうとする母としての愛から、イエスを家に連れ帰るために来たのでしょう。

 一方、弟や妹たちには別の思いがあったかも知れません。イエスが救い主としての活動を始めた少し後に仮庵の祭りが近づいた時、弟たちはイエスにこう言いました。ヨハネ7:3、4「ここを去ってユダヤに行きなさい。そうすれば、弟子たちもあなたがしている働きを見ることができます。自分で公の場に出ることを願いながら、隠れて事を行う人はいません。このようなことを行うのなら、自分を世に示しなさい。」要するに、「兄さんが自分を神の預言者で救い主だと言うのなら、こんな田舎でなく、ユダヤで公に活動すればいい。そうすれば、世間が兄さんを判断するよ」というわけです。

 ここには、「兄は困った人だ」という、やや突き放した気持も見え隠れします。ですから、ヨハネ7:5は「兄弟たちもイエスを信じていなかった」と伝えます。彼らは兄イエスのすごさを認め、兄への心配もありますが、「これ以上世間を騒がせてもらっては困る」という気持もあったでしょう。

 しかし、イエスへの愛からにせよ、疑問や心配、世間体(せけんてい)からにせよ、彼ら家族のしようとしたことは、結果的には、人類の救いのために全身全霊を傾けられるイエスの働きを妨げるものでした。イエスはこのことを既にマタイ10:36で「家の者たちがその人の敵となる」と言っておられました。

 さて、家族のことを伝えてくれた人に、イエスはどうお答えになったでしょうか。48節「私の母とは誰でしょうか。私の兄弟たちとは誰でしょうか。」これはやや冷たい言葉に聞こえますが、無論そうではありません。イエスは、母や弟たち、妹たちを心から愛しておられました。しかし、家族であるが故に生じやすい、つまり、神への思いからではなく、ただ肉親としての思いから来る弱さもよくご存じです。そして、何よりご自分が人間となって世に来られた目的、すなわち、父なる神による救いの計画をこそ遂行するというそのご自分の使命を覚え、毅然として言われたのでした。ここに私たちも様々な折に貫くべきクリスチャンとしての根本姿勢を教えられます。

 そしてこれを良い機会として、イエスは真実な意味でご自分の家族とはどういう者かをお教えになりますので、それを学びたいと思います。49、50節「それから、イエスは弟子たちの方に手を伸ばして言われた。『見なさい。私の母、私の兄弟たちです。誰でも天におられる私の父の御心を行う人なら、その人こそ、私の兄弟、姉妹、母なのです。』」

 ここの弟子たちには、12使徒だけでなく、他の弟子たちも含まれていたでしょう。イエスが彼らの方へ優しくわざわざ手を伸ばし、「見なさい。私の母、私の兄弟たちです」と言われた光景が目に浮かびます。

 では、50節「誰でも天におられる私の父の御心を行う人なら、その人こそ、私の兄弟、姉妹、母なのです」とは、どういう意味でしょうか。

 イエスは、「私の父の御心」と言われます。神の御心にも二種類あります。旧約聖書の申命記29:29から分りますように、私たち人間に隠されている御心と、私たちにも分る現された御心があります。マタイ12:50でイエスが言われますのは、現され啓示された神の御心であり、今ではその全てが聖書に記されています。

 イエスは、父の御心を「行う人なら」と言われます。聞くだけとか知っているだけでなく、「行う」ことの大切さをお教えになります。

 では、具体的にはそれはどんなことでしょうか。私たちは、神から信仰を頂いても、罪の性質が残っているために、神の御心を完全に行うことは決して出来ません。そうだとすると、イエスの言われる神の御心を行うとは、どういうことなのでしょう。神の御心の中心点を本当に生きるということです。

 それを、イエスの教えの全体から簡潔に三つばかり上げます。

 第一は、思いと言葉と行いによる自分の罪と不信仰を心底悲しみ、憎み、神の御前(みまえ)に平伏す、つまり、悔い改めです。

 第二は、神の独り子(ひとりご)イエスを「自分の」救い主として心から信じ、受け入れ、とことん寄り頼むことです。

 第三は、聖霊を祈り求め、ただ神への感謝の思いから、神の栄光のために喜んで御言葉に生きることです。

 無論、これらの点も誰一人完全には行えません。けれども、神の一方的な憐れみと忍耐、愛と赦しと恵みの故に、本気になって誠実にこれらに生きることこそ、神の御心を行うことと言えるでしょう。

 

 そして私たちがそうであるなら、今、肉体の目には見えませんが、イエスは私たちに手を差し伸べ、しっかり私たちを見てこう言われます。「見なさい。私の母、私の兄弟たちです。誰でも天におられる私の父の御心を行う人なら、その人こそ、私の兄弟、姉妹、母なのです。」

 私たちには、家族への様々な思いがあると思います。「この人が自分の家族だなんて、恥しい」と思うこともあるかも知れません。では、一点の罪も汚れもない全く聖い(きよい)イエスからご覧になって、私たち自身はどうでしょうか。私たちは、どこまで自己中心で不信仰な罪人でしょうか。他の人の不信仰や罪や欠点にはやたらうるさいですが、神と人に対する自分の愛の欠如や不作法には、どんなに鈍感で甘いでしょうか。

 私たちは本当は神の前に顔も上げられず、ただイエス・キリストにすがる以外、全く希望のない罪人です。悪霊に取りつかれた息子を助けて頂きたく、しかしイエスに不信仰を指摘され、必死に叫んだ、ある父親同様、「信じます。不信仰な私をお助け下さい」(マルコ9:24)としか言えない者ではないでしょうか。

 しかしそうやって、第一に心底謙って(へりくだって)悔い改め、第二にひたすら救い主イエスを仰ぎ、寄り頼み、第三に聖霊を切に祈り求めて生きることが、大切なのです。

 特に第三の点を更に具体的に七つばかり上げてみます。第一に安息日、すなわち日曜日の礼拝を尊び、第二に繰り返し御言葉を聞き、第三に不十分ではあっても神の聖い戒めを日々心に留めて従い、第四にイエスに倣い、イエスに似ること、第五に絶えず謙ってイエスに堅く繋がり、第六に神をほめ讃え(たたえ)、第七に神と隣人への愛に進んで生きることが、神の御心を行うことと言えるでしょう。

 そういう者にイエスは手を差し伸べ、「私の兄弟、姉妹、母です」と喜んで言って下さいます。ヘブル2:11に「イエスは彼らを兄弟と呼ぶことを恥とせず」とある通りです。

 自分が、ただ父なる神の愛と主イエス・キリストの導きの故に、イエスの家族とされている!何という光栄、また幸いでしょうか。ですから、私たちも自分に与えられている知識や体験や力を生かし、ますます喜んで神と隣人に仕え、イエスの家族であることの幸せを、皆で一層分ち合う者にされたいと思います。

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