2024年10月06日「空虚な心の危険性」

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聖句のアイコン聖書の言葉

12:43 汚れた霊は人から出て行くと、水のない地をさまよって休み場を探します。でも、見つからず、
12:44 「出て来た自分の家に帰ろう」と言います。帰って見ると、家は空いていて、掃除されてきちんと片付いています。
12:45 そこで出かけて行って、自分よりも悪い、七つのほかの霊を連れて来て、入り込んでそこに住みつきます。そうなると、その人の最後の状態は初めよりも悪くなるのです。この悪い時代にも、そのようなことが起ります。
マタイによる福音書 12章43節~45節

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 ひと時、御言葉を学びます。

 このマタイ12:43~45の聖書箇所で、イエスは、汚れた霊が人から出て戻り、また出て行き、今度は自分よりも悪い他の七つの霊を連れて来て、元の人も内に住み着くと言われます。イエスは何を教えておられるのでしょうか。「空虚な心の危険性」をお教えになのです。

 少し振り返ります。マタイ3:2が伝えますように、イエスの活動より少し前、洗礼者ヨハネが「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから」と教えますと、人々は6節「自分の罪を告白し、ヨルダン川で彼からバプテスマ(洗礼)を受け」ました。また7節、当時のユダヤ教正統派のパリサイ人たちなども洗礼を受けようと大勢やって来ました。ヨハネは8節「悔い改めに相応しい実を結びなさい」と悔い改めを迫り、彼らは悔い改めました。そのことをイエスは、12:43で「汚れた霊」が「人から出て行」ったと表現されます。

 しかし彼らは、その後もあまり変らない生き方を続けたため、彼らの心は前よりも悪くなり、一層頑なになりました。彼らは洗礼者ヨハネに言われて悔い改め、或いは洗礼を受け、心も多少は整って清くなったことでしょう。しかし、例えば、もっと神の御前にへりくだり、また愛をもって隣人に仕えたりしなかったために、前より悪い状態になったのです。

 事実、約束の救い主イエスが神の御心と御力を鮮やかに示されましても、彼らは心を閉ざし、12:14が伝えますように、イエスを殺す相談さえするようになりました。更に12:22以降で見ましたように、論理的に破綻したことまで言ってイエスを冒瀆し、38節以降では、イエスに神からの救い主である徴、証拠を見せろと迫り、彼らの不信仰と罪深さはますますひどくなりました。細かい説明は省きます。とにかくイエスは、私たち罪人の心が持つこういう危険性を教えるために、43~45節のように語られたのです。

 実はパリサイ人たちは、元は敬虔な人たちであり、神の聖い(きよい)戒めを忠実に守ろうとしたのでした。紀元前200年前後、ユダヤがシリアのセレウコス王朝に支配され、偶像をも拝む、いわゆるヘレニズム文化を取り入れる動きが出た時、これに強く抵抗した人たちの信仰を汲んだのが彼らの先輩たちでした。彼らのお蔭で、ユダヤでは真(まこと)の神のみを信じる信仰が守られたのです。

 しかしその後、特に紀元1世紀頃の彼らの信仰には問題がありました。彼らは偶像や異教的習慣を退け、また洗礼者ヨハネに言われて悔い改め、罪や汚れを自分の外に追い出し、その意味で汚れた霊は出て行きました。しかし、大切なのはその後です。彼らは真(まこと)の神を旧約聖書から正しくかつ十分に学び、喜んで神の清い御心に生き、互いに清く交わり、隣人に仕え、聖霊を求めるなどをして自らを満たすということをしなかったのです。偶像礼拝などは追い出しましたが、後は空虚なままだったのです。

 神の前に自分を知れば知る程、そうなるはずの謙虚な心も求めず、主イエスが神の御心を明確に教え、病気や障害に苦しむ多くの人を憐れまれ、神の力で癒されても、彼らの心は特に感じることもなく、むしろイエスを妬み、ますますイエスを憎みました。以上が43~45節の意味です。

 このことは、今日の私たちにも大いに関係し、特に空虚な心の危険性を教えられます。

 具体的なことを少し申します。一つは昔から言われてきたことですが、一旦信仰を持った人がそれを失うと、非常に厄介な人になるということです。その人は、キリスト教を当然、いくらかは知っています。しかし聖書に基づく十分な神知識も福音理解もないですし、心が信仰で、もう満たされてはいません。その空虚さをサタンに狙われ、変な態度や言葉で、また間違ったことを言って、教会や他のクリスチャンを掻き乱したりします。紀元1世紀の初代教会時代にも、そういう人たちはもういました。ですから、ヘブル6:4~6は警告しました。「一度光に照らされ、天からの賜物を味わい、聖霊に与る者となって、神の素晴らしい御言葉と、来るべき世の力を味わった上で、堕落してしまうなら、そういう人たちをもう一度悔い改めに立ち返らせることはできません。彼らは、自分で神の子をもう一度十字架にかけて、さらしものにする者たちだからです。」この警告を私たちもよく心に留めたいと思うのです。

 もう一つは、折角イエス・キリストを信じ、空しい罪の生活を離れ、新しくクリスチャン生活を始めましたのに、相変らず初歩の信仰のままであることの問題です。信仰を捨てて教会を離れるまではしません。けれども、神と救いを喜ぶことがどうしても少ないために、心は空ろです。満たされていません。そのため、つい神以外のことに満たしを求め、再び空しい生き方や考え方に捉われます。今は読みませんが、ヘブル5:12や6:1、2は、その辺りの問題を指摘しています。

 以上から分りますように、ただ罪や悪を遠ざけ追い出すだけでは、十分ではありません。それだけでは空虚な状態であり、心の深い充足はなく、より悪い状態になる危険性があるのです。私たちの心と生活は、御子イエスを賜った程に私たちを極みまで愛して下さっている父なる神の御心に適った(かなった)真(しん)に尊いもの、聖い(きよい)もので満たされる必要があるのです。

 ではそれは、どんなものでしょうか。

 宗教改革者カルヴァンが1542年に作りましたジュネーブ教会信仰問答の問1が言いますように、「私たちを創られた神を知ること」、知的にも、また生活において経験的にも、造り主なる生ける真の神を、ますます知ることです。

 また1648年に作られましたウェストミンスター小教理問答の問1が言いますように、「神の栄光を現し(あるいは「神の栄光をたたえ」)、永遠に神を喜びとすること(英語の原文では「神をエンジョイすること」)です。Ⅰコリント10:31「あなた方は、食べるにも飲むにも、何をするにも、全て神の栄光を現すためにしなさい」と言う通りですね。私たちの心を、神と無関係な空虚な状態にしていてはなりません。

 無論、私たちは神の下さった色々な良いものを楽しみ、エンジョイしてかまいません。美しい景色、音楽、美味しい食べ物、飲み物、旅行、レジャーなど沢山あります。しかし、「あぁ、良かった。楽しい」だけで終らず、ただイエス・キリストへの信仰だけで私たちに永遠の命を与え、ご自身の子供にして下さる神に、何より感謝し、神を喜ぶのです。すると、サタンの付け入る隙はありません。

 こうして私たちは何にも振り回されず、天の国というゴールを見つめ、自分の賜物も発揮できる真に(しんに)価値ある生涯を送れます。

 少し具体的なことを言います。

 教会では、私たちの霊的成長と完成のために、よく三つのことが言われます。学びと奉仕と交わりです。

 第一に、神の栄光を現し、神を喜ぶ者へと成長し、自分でも充足感で満たされるためには、神の霊的な宝で満ちている聖書とその教理の「学び」が不可欠であり、大変祝福されます。

 第二に、「奉仕」に具体的に与り励むことで私たちは、神の御子でありながら私たち罪人に極みまで仕えて下さった主イエス・キリストの「心」を実感できます。何と感謝なことでしょう。

 

 第三に、互いの「交わり」により、私たちは神の豊かな愛と憐みを実感させられます。交わりを通して、私たちは他の兄弟姉妹たちの良いところを知って謙虚にされ、しかしそんな私たちをも神が人の救いのために、また人への励ましや慰めのためにお用い下さることも具体的に分ります。本当に感謝なことです。そうやって、私たちは本当に成長させられます。

 自分の罪や不信仰に気付き、悔い改め、それらとキッパリ縁を切ることは、非常に大切です。しかしそれだけで良しとせず、ことある毎に主イエス・キリストを見上げ、自分の心と生活に何度でも主イエスをお迎えし、聖霊によって住んで頂き、神に喜ばれることが何かを考えて生きるのです。すると、私たちは悪の霊に付け込まれることなく、ますます霊的に豊かな者とされるでしょう。

 使徒パウロは、エペソ3:17~19で、手紙の読者のために祈りました。今朝、その祈りを私たち一人一人のための祈りとして受け止めたいと思います。そこをお読みして説教を終ります。

 「信仰によって、あなた方の心の内にキリストを住まわせて下さいますように。そして、愛に根ざし、愛に基礎を置いているあなた方が、全ての聖徒たちと共に、その広さ、長さ、高さ、深さがどれ程であるかを理解する力を持つようになり、人知を遥かに超えたキリストの愛を知ることができますように。そのようにして、神の満ち溢れる豊かさにまで、あなた方が満たされますように。」アーメン!

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