2024年09月29日「キリストにあって一つ」

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聖句のアイコン聖書の言葉

3:26 あなたがたはみな、信仰により、キリスト・イエスにあって神の子どもです。
3:27 キリストにつくバプテスマを受けたあなたがたはみな、キリストを着たのです。
3:28 ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由人もなく、男と女もありません。あなたがたはみな、キリスト・イエスにあって一つだからです。
3:29 あなたがたがキリストのものであれば、アブラハムの子孫であり、約束による相続人なのです。ガラテヤの信徒への手紙 3章26節~29節

原稿のアイコンメッセージ

 【導入①】ガラテヤ人への手紙の性格

 このたびは岡山西教会におきまして、皆様とともに礼拝をささげ、また御言葉の奉仕に与ることができる恵みを心から主に感謝致します。私は岡山の地に初めて足を踏み入れましたが、(岡山の第一印象など)。私は、東京で生まれ、東京で育ちましたが、あまり東京から外に出るということをしませんでしたので、こうして神学生になって、全く知らなかった町の教会に来ますと、毎回新鮮で、嬉しい気持ちになります。日本各地に同じ主を信じる仲間がいるということは、わたしたちの信仰生活において本当に励みになります。

 今朝、お読みしました御言葉は、そんなわたしたちキリスト者のつながりということを教えてくれている箇所だと思います。特に28節「ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由人もなく、男と女もありません。あなたがたはみな、キリスト・イエスにあって一つだからです」という御言葉は、地域を越えて、国を越えて、時代を超えて、広く愛されている御言葉ではないかと思います。そのまま読むだけでも、ストレートに御言葉の恵みが伝わってくる、そんな力強い御言葉ですが、それには理由がありそうです。

 それは、第一に、ガラテヤ人への手紙という書物が「戦いの書」とも呼ばれるほどに、パウロの感情や熱が全面に出ている書物であるということにあります。ガラテヤの教会には、パウロが伝えたキリストの福音に反する教えを広めようとする敵対者がいて、そしてそれに惑わされている人々がいました。そのことを聞いたパウロは、いてもたってもいられなくなって、自分の伝えたキリストの福音にとどまって欲しいという願いをもって、この手紙を書いたわけです。

 パウロの敵対者たちの特徴を一言でまとめるならば、ユダヤ主義的で、民族主義的であるということです。律法を守らなければ救われない、割礼を受けなければ救われない、という主張です。ガラテヤの異邦人たちは、キリスト教に回心して、異教の様々な伝統や慣習を捨て去ったわけですから、ある意味で律法や割礼といったかたちあるもの、ユダヤ人のアイデンティティが魅力的に映ったのかもしれません。この手紙は、口述筆記つまりパウロが口で話した言葉を、他の人が書き記すというかたちで書かれていますので、こうした動きを受けて、パウロは語気を強めて、必死になって語っているわけです。

【導入②】「あなたがた」に語られているメッセージ

 それを受けて、今朝お読みしました26節からのところを見ていただきますと、「あなたがたは」こうだというように、2人称複数形で語られていることが分かると思います。その少し前のところを見ていただきますと、23節~25節あたりのところでは、「わたしたち」が主語になっていることが分かると思います。このようにガラテヤ人への手紙では、「わたしたち」を主語として中心に語りながらも、ところどころで「あなたがた」はこうだというように、相手に直接語りかけるようにして語られているところがあります。やはり、そこでパウロは語気を強めて、わたしが伝えた本当の福音はこうなんだということを強く訴えているのだと思います。

 そして、もちろん、その「あなたがた」とはガラテヤの信徒たちのことを指すわけですが、そこに今これを読んで、聞いているわたしたちも含まれているということができます。むしろ、パウロが熱い思いをもって、今わたしたちに語っているかのように、この御言葉を受け取りたいと思います。そして、私たち一人一人が、ここで言われている「あなたがた」という存在をどのように見たらよいのか、パウロの敵対者のようにではなく、パウロの語る福音を通して見るとどう見えるのかということを、御一緒に見ていきたいと思います。

 パウロはここで大きく分けて三つの視点を提供してくれています。第一に、「あなたがたはみな、神の子どもである」ということ、第二に、「あなたがたはみな、キリストを着た」ということ、第三に、「あなたがたはみな、キリストにあって一つである」ということです。

【本論①】神の子どもとして見る

Ⅰ.律法の下にはいない

 第一に、「あなたがたはみな、神の子どもである」と言われています(26節)。「神の子ども」であるとはどういうことでしょうか。皆さまは、こう言われたときにどういうイメージを持たれるでしょうか。イメージしやすいのは、やはり家庭の中にいる「子ども」、父と子、母と子という関係でしょうか。このイメージは、非常に聖書的です。私たちは、聖霊を通して、神様のことを「アバ、父よ」と親しく呼ぶことがゆるされています。そして、神様は、子どもである私たちを、父として守り、育ててくださいます。

 このように、確かに聖書には、神様は私たちの父であり、私たちは神様の子どもであるということが記されていますが、そもそもなぜそう言えるのでしょうか。私たちは、神様の前に罪を犯し、神の子どもではなく、むしろ罪の奴隷の子どもであったはずです。23節の表現を借りれば、律法の下で監視され、罪の中に閉じ込められて、神様と一切触れ合うことができないという状況に置かれていた者であったはずです。

 パウロの敵対者たちは、このような牢獄から脱出するためには、律法を行う必要があると教え回りました。しかし、律法を完全に守ることができる人など一人もいません。パウロは、律法ではなく、信仰によって、そして信仰によってイエス・キリストと結ばれることによって、閉じ込められていた罪の牢獄から解放されるということを語りました。罪から解き放たれて、お父さんである神様のみもとで安らいでいる状態、これが「神の子ども」であるということです。

Ⅱ.「キリストにあって」~エン・クリストー~

 26節では「あなたがたはみな、信仰により、キリスト・イエスにあって神の子どもなのです」とありますが、特に「キリスト・イエスにあって」というところが大切です。ギリシア語原文では、「エン・クリストー」、英語では「イン・クライスト」、つまり「キリストの中で」、「キリストにあって」というパウロ独特の表現です。28節の「キリスト・イエスにあって」というところも同じ「エン・クリストー」が使われています。

 この表現が意味するところは、私たちの救いは徹底的にキリストの中にあるということです。そこに私たち自身の力や知恵が入り込むことはありません。「信仰により」と書いてありますが、信仰とは、私たち自身の内から信じる思いを頑張って引き起こしていくものではありません。信仰とは、聖霊から与えられるプレゼントであって、それによって、自分も、自分の重荷もすべて、キリストの中に置かれるということです。そうして、私たちは、キリストにあって、神の子どもとされているのです。これが、パウロの提示した福音の第一の視点です。

【本論②】キリストを着ている者として見る

1.キリストの衣を指し示す皮の衣

 第二に、「あなたがたはみな、キリストを着た」と言われています(27節)。「キリストを着る」という表現もパウロ独特の表現ですが、同じように「衣服を着る」という表現によって神様からの恵みを表すことは、旧約聖書にもよく見られることです。そのままお聞きいただければと思いますが、イザヤ書61章10節には「主が私に救いの衣を着せ、正義の外套をまとわせ」てくださる、という希望が語られています。そして、何と言っても、これらの表現の原型となったものは、創世記の3章に記されている、「皮の衣」です。

 アダムとエバは、神様から取って食べてはならないと命じられていた木から取って食べたとき、目が開け、自分たちが裸であることを知り、恥を覚えるようになりました。本来、彼らは、神のかたちに似せて造られたものであって、隠す必要のある部分などなかったはずです。しかし、神様の命令に背き、罪が入り込んだことによって、体も心も直視することができないほどに悲惨なものになってしまい、隠さなければならないような事態になってしまいました。二人はいちじくの葉をつづり合わせて、腰を覆うものにしましたが、自分自身の力ではもはや隠しきることはできませんでした。さらに、神様の足音が園の中に聞こえたとき、二人は神様の顔を避けて、園の木の間に隠れました。人間はこのときから、体も心もすべてにおいて汚れ、神様の御前に出ることのできないものとなってしまったわけです。

 しかし、神様は、罪にまみれ、汚れに満ちた人間を見捨てることはなさいませんでした。そのことが、創世記3章21節の「神である主は、アダムとその妻のために、皮の衣を作って彼らに着せられた」という一文によくあらわされています。これによって、人間は、服を着て、生身の恥をさらすことなく生き続けることがゆるされたわけですが、それ以上に、この「皮の衣」というものは、終末にまで目を向けさせてくれるものです。

 最後の審判の時に神様の御前に恐れず出て行くことができるように、救いの衣、すなわちキリストの衣をあなたがたに着せるという、その約束がここに込められています。イザヤ書では、「正義の外套」とありましたが、その衣はまさに、キリストの義の衣です。私たちは神様の御前に罪深く、汚れた存在であるにもかかわらず、キリストは十字架の死によって私たちのすべての罪を赦し、汚れを清めてくださいました。そして、それだけではなく、キリストが律法を全うしてくださったことによって獲得された義が、義の衣として私たちに着せられることによって、私たちは神様の御前に正しい者としてみなされるのです。

Ⅱ.洗礼の本来の意味

 ですから、パウロは「あなたがたはみな、キリストを着た」ということによって、旧約時代から待ち望まれていた「皮の衣」・「救いの衣」・「正義の外套」を今あなたがたは着ているんだということを伝えたかったのです。自分でつくったいちじくの葉のようなものに頼るのではなく、ただキリストの衣を着ているという、そのことだけであなたがたは神の子どもとされているんだということです。

 従って、ここで注意したいことは、27節の冒頭に「バプテスマを受けた」とありますが、洗礼という行為自体によって救われるのではないということです。確かに、洗礼は、イエス様によって定められたもので、決しておろそかにしてはいけないものです。しかし、洗礼はそれ自体に救いの効力があるのではなく、聖霊が信仰を通してイエス様と結び合わせてくださったことのしるしであるということを覚えたいと思います。聖霊は、洗礼を通して、「キリストを着た」ことによる大きな恵みをわたしたちに与えてくださいます。ですから、まだ洗礼を受けておられない方も、すでに受けられた方も、わたしたちはすでに「キリストを着た」ことによって、救われ、神様の御前に出ることができるんだということを覚えて、洗礼の恵みに与っていただきたいと思います。これがパウロの提示した福音の第二の視点でした。

【本論③】キリストにあって一つの者として見る

Ⅰ.「一人」~キリストの体としての教会~

 第三に、「あなたがたはみな、キリスト・イエスにあって一つ」(28節)である、と言われています。この「一つである」という表現は、この世でも様々な場面で使われます。困難なことが起こったときに、「われわれは一つになってこの困難を乗り切ろう」と言ったり、あるいは何かコンテストや発表会があるときに、「みんなで一つになって、一致団結して頑張ろう」と言ったりすることがあります。こうして、みんなで心を一つにして、協力して物事に取り組んでいきます。

 しかし、パウロが言う「一つである」とは、さらに深い意味があります。この言葉は、「あなたがたはキリストにあって一人である」とも訳すことができます。つまり、心を一つにするとか、団結するということを越えて、一人の人として分かちがたく結びついているということです。私たちの心の思いは一つになろうとしても、それぞれが自分中心の思いに駆られて、すぐにばらばらになってしまいますが、ここで言われている一人の人としての結びつきは決してほどけるものではありません。なぜなら、この一人の人こそ、イエス・キリストというお方であるからです。そして、この一人の人、イエス・キリストがあらわされているところが教会です。教会は「キリストの体であり、一人一人はその部分である」とパウロは別の手紙で語っています。

Ⅱ.差別はなくなり、役割となる

 では、その教会には、どのような人たちが含まれるのでしょうか。パウロの敵対者たちは、アブラハムの子孫であるユダヤ人と、割礼を受けたものだけであると主張しました。しかし、パウロは、信仰によってキリストにあって神の子どもとされ、キリストを着た者こそが教会の一員であって、そこには「ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由人もなく、男と女もありません」と、キリストにあってはいかなる差別も認められないということを力強く宣言しています。もちろん、それぞれの区別がなくなるわけではありません。国籍の違い、身分の違い、性別の違いはあります。しかし、キリストにあって一つにされるときに、その違いは差別の元になるのではなく、むしろキリストの体の部分部分として、それぞれに与えられた役割・目的となるのです。

 それは、神様の約束を受け継いできた、アブラハムに始まる聖書の人物一人一人に神様から与えられた目的があったことと同じです。彼らには、イエス・キリストによる救いを成就させるための目的がそれぞれ与えられていましたが、私たちにはその成就した救いを全世界に宣べ伝え、救いを完成させるための目的が与えられています。私たちは、キリストのものとされているがゆえに、割礼の有無や血縁に関係なく、アブラハムの子孫であり、約束による相続人なのですから、必ず一人一人に神様から与えられている目的があります。そのことがはっきりするときに、神様にとって、また教会にとって、だれ一人として必要とされていない人はいない、こう確信することができるのです。これがパウロの提示した福音の第三の視点でした。

【結論】自分だけではなく教会へ、岡山西教会だけでなく世界の教会へ

 こうして、パウロは、「あなたがたはみな、神の子どもである」、「あなたがたはみな、キリストを着た」、「あなたがたはみな、キリストにあって一つである」と相手に直接語りかけるようにして語ることによって、まことの福音に立ち帰るように強く訴えました。私たちは、このパウロの訴えを聞くとき、教会につながっているすべての人を、「神の子ども」として、「キリストを着た」者として、「キリストにあって一つ」である仲間として見る、その視点を持ち続けていたいと思います。

 「神の子ども」として見るということは、父である神様のみもとで、皆が兄弟姉妹として安らいでいるということを見るということです。そのとき、自分を他人より上に見たり、下に見たりすることなく、相手を敬い、自分自身をも大切にするという生き方へと変えられていきます。

 「キリストを着た」者として見るということは、皆キリストというおそろいの服を着て神様の御前に出ることができている喜びをもって見るということです。そのとき、たとえ皆が罪人であったとしても、キリストによる罪の赦しを身にまとっているのだから、互いに赦し合おうとする生き方へと変えられていきます。

 そして、「キリストにあって一つ」である仲間として見るということは、皆がキリストの体の部分部分であり、それぞれに目的が与えられているということを見るということです。そのとき、私たちはキリストという一人のお方のものであると同時に、お互いのものでもあるということが分かります。そして、互いに足りないところを補い合い、助け合う生き方へと変えられていきます。

 この素晴らしいキリストにある教会の交わりに、まず自分が入れられているという喜びがあります。そして、自分が通っている教会、全国にある改革派教会、全国各地にある他教派の教会、世界中の教会、さらには旧約時代に生きた神の民たち、すでに神様の御許に召された方々、まだ神様のことを知らないけれども神様から救いに招かれている方々、そしてこれから生まれてくる神の民たちが、何の差別もなくキリストにあって一つであるという、神様の救いのスケールの計り知れない大きさを知ることができます。ですから、わたしたちも、自分の救いということだけでなく、キリストにあって一つにされているこの大きな神の民の存在を心に留めて、神様の救いの喜びをより多くの人と、より深く味わっていきたいと思います。

お祈り

 主イエス・キリストの父なる神様、生まれながらに罪人であったわたしたちに、キリストという服を着せ、罪を赦し、神様の御前に出ることができるようにしてくださったことを感謝致します。今、このようにして、あなたの御前に出て、礼拝をすることができているのも、あなたがわたしたちにキリストを着せてくださったからです。そして、時を同じくして、世界中の教会で、キリストにあって一つにされたあなたの民がともに礼拝をささげています。どうか、すべての教会でささげられている礼拝を守り、祝福してください。わたしたちは、自分と他者との違いばかりが目に入り、他者を遠ざけて生きてしまうものです。どうか、そのような私たちの罪を赦し、キリストの救いの広さ、深さに目を留めていくことができるように導いてください。主の御名によってお祈りいたします。アーメン。

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