2024年09月26日「律法の恵み」

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聖句のアイコン聖書の言葉

3:24 こうして、律法は私たちをキリストに導く養育係となりました。それは、私たちが信仰によって義と認められるためです。
3:25 しかし、信仰が現れたので、私たちはもはや養育係の下にはいません。ガラテヤの信徒への手紙 3章24節~25節

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 「人類の最大の悲劇の一つは、道徳が宗教にハイジャックされたことだ」とイギリスのSF作家、アーサー・C・クラークの言葉があるそうです。この言葉の前後がわからないので、このことを深掘りすることはしませんが、この言葉をうけて、あるラジオ番組でラジオパーソナリティーが、興味深い話をしていました。

 彼は、この様なことを話していました。「小中高、大学とカトリック系の学校へ通って、中学の時には洗礼も受けた身なので、キリスト教の道徳教育はずっと受けてきましたけど、この教育が人格形成上、それほど良い影響を与えてくれたとは思っていません。クラスでは、カトリックの戒律である十戒の重要性だとか、地獄に落ちた罪人の苦しみについての説教は、嫌というほど聞かされましたけど、それは、罪と罰という概念を土台にした教訓的なもので、人間同士がいかに健全で快適な共同生活を送っていけるかとか、いかに思いやりと心遣いを持って接していけるかといった、人間の目線から見た道徳のディスカッションといったものは、一切ありませんでした。また、教える側のファーザーやブラザーの態度も大体において、威圧的で、彼らから愛や優しさといったものを感じることは、あまりありませんでした。そんな中、僕に人間としてのあり方や他者を思いやる心の大切さを教えてくれたのは、両親、祖父と祖母、おばなどの親族と近所に住むおじさんやおばさん、そして昭和の日本の社会そのものでした。(中略)道徳というものは、我々一人ひとりが、生涯を通じて、言動、行動、生き方そのもので定義し続けていくものなのではないでしょうか」と話したのです。

 長くなりましたが、私は、この話を聞いた時、カトリックではあるものの、キリスト教の洗礼を受けた彼が、こんな断言をしていることに驚きを隠せませんでした。彼が教えられたカトリックの十戒は、罪と罰を強調されていたのかもしれませんが、今回は、それを深掘りすることはしません。

 では、私たち改革派教会が教える十戒は何なのか、どの様に解釈されているのか、神様からのどの様な幸せが秘められているのかを、皆さんと学びたいと思います。なお、この奨励を準備するにあたり、改革派教会の信仰基準である「ウェストミンスター信仰基準」、「ハイデルベルク信仰問答」、カルヴォンの「キリスト教綱要」などに目を通し、それらから私が教えられたことを分かち合いたいと思います。

 始めに、十戒の理解について見てみたいと思います。「キリスト教綱要」には、十戒の3つの機能、務めがあると書かれています。1つ目が、神の義が示されることで、人に不義を確認させ、罪に定められた状態であることを自覚させ、自分自身の義について絶望させ、イエス・キリストに赴かずにはいられないように導く養育係です。

2つ目に、十戒による罪の宣告、刑罰の恐れによって、強制的に罪を犯せなくさせます。3つ目を、カルヴァンは特に重要視しており、すでに神様によって律法を心に刻まれ、神

様に従順になろうと願い、神様の意志が律法によって示され、日に日に理解を確実にされ、これを繰り返し瞑想することによって従順へと導かれ、罪を犯す道に行かないように引き留めます。この一つひとつの機能を詳しく確認します。

 1つ目の機能である、養育係である十戒について、本日の聖書箇所、ガラテヤ3章24節から教えられたいと思います。

 先ず、ガラテヤ人への手紙は、パウロが、異邦人であったがキリストを信じたガラテヤ人の集う、ガラテヤの教会に宛てた手紙です。彼らは、パウロの説教を聞いて救いを求めてキリストを信じたのですが、一部のユダヤ教化を狙う教師の狡猾な教示である、儀式的道徳的ユダヤ律法(例えば、異邦人がキリスト者になるためには、先ず割礼を受ける)を受け入れて、至極あっさりと「ほかの福音に乗り換え(1章6節)」たのです。その彼らの信仰に、パウロは「あきれ果てていま(1章6節)」した。しかし、パウロは、愛するガラテヤの教会の信徒たちが、ユダヤ教化を狙う教師たちの教えに惑わされたままで終わらないように、一つひとつ、丁寧に教えるために、この手紙を記したのです。

 本日の聖書箇所の少し前、15節から20節で、律法について説明されています。19節で、「律法とは一体何か」と教えています。ここでは、律法は、人間の罪をより明らかに現わし、人の心に罪の意識を深めるために与えられたとしています。24節では、律法の働きを教えています。律法は養育係として、私たちをキリストに導くのです。養育係とは、家政婦というよりは、家庭教師や指導者の方がしっくりくるようで、聖書の書かれた当時の家庭教師は、子どもの学校への送り迎え、監督、悪友からの不道徳な影響から守る働きを任されていたのです。そのため、教育するというよりは、教えを受けさせるだけでなく、何よりも贖いを受けられるように、私たちをキリストの元に置く役目を果たしているのです。

 カルヴァンは、道徳律法について次のように教えています。道徳律法よって、自らが言い逃れられないものであると教えられ、罪責に駆り立てられて赦しを求めずにおられない状況を知るのです。律法を完全に守ることが、完全な義として認められるのですが、律法の教えは私たち人間の能力を遥かに越えているため、私たちは誰一人として律法を完全に守ることができないので、永遠の生命の約束から排除されて、神の呪いを一身に受ける者です。

 そのような人間にただ一つ残っているのは、律法の善に照らして、自分自身の悲惨をいよいよ良く知ること、また救いの望みが断ち切られて自己の上には死が確実に迫っているのを悟ることだけなのです。人間は、自己の力と義についてあまりにも自信に満ちているため、先ず裸にされなければキリストの恵みを受けるに相応しくありません。律法が、自己の悲惨さを認識させて謙虚にし、先には自らに欠けていると考えもしなかったものを求めるように備えさせます。そのための養育係として、律法が私たちに与えられています。

 2つ目の機能である、強いられて罪を犯さないように働く十戒については、Ⅰテモテ1:9~10にある様に、律法そのものを最も激しく憎み、立法者たる神様を呪い、もしできるならば、何よりも神様を取り除いてしまいたいと欲する思いに満たされた人間が、律法に心から従うのではなく、嫌々ながら抵抗しつつ、ただ恐怖の力に抑えつけられて律法を守ろうと努める様に、強いられる様に機能するのです。しかし、この強いられ押しつけられた義は、人間の公共の社会には必要であり、社会生活が平穏であるために、万事が混乱の中に巻き込まれないように、神様の配慮がなされています。

 3つ目の機能である、律法によって神様の意志を知り、律法への従順へと導かれ、罪を犯さないように働く十戒については、詩篇19:8や119:105にある様に、クリスチャンは、御霊に従って神様の義に適うように、どんなに勤しみ励んでも、罪を常に負わされており、正当に進むことができないので、律法への従順に導かれ、強められ、罪を犯さない様に守るのです。

 まとめると、十戒は、私たち罪人が罪による報酬である死を意識させ、その刑罰による恐怖によって、罪を犯したい放題にはさせず、けれども、自分自身の罪を嫌と言うほど自覚させ、イエス・キリストの十字架と復活の救いの事実に向かわせ、律法への従順に導き、強め、罪を犯さない様に守るのです。私たちが自分自身を吟味し、本性、心、生活が罪に汚れていること、その罪ゆえに謙虚になり、罪を憎む時に、キリストをどれ程必要としている状態か、そして、キリストへの完全な従順(キリストを信じ、愛し、全き良心をもって歩もうと努める)の必要が一層明確になります。私たちは、常に養育係の示すキリストへ導かれ、あらゆる罪に心から敵対して、あらゆる義を慕い求める者に変えられることを祈り求めたいと思います。

 

 最後に、私たちは、十戒の機能を知りながらも、この世においては十戒を完全に守ることができない状態であるのに、神様は私たちに繰り返し十戒の説教を必要となさっておられるのは何故なのでしょうか。それは、ハイデルベルク信仰問答の問115にあります。

私たちキリスト者は、救われてからも、罪の性質を持っているので、成長の完成が一気には訪れません。むしろ、罪との戦いや忍耐を要することが多いのです。けれども、少しずつ少しずつ、私たち一人ひとりの力に応じて、信仰に応じて、精一杯、少しずつだけれども、御国への歩みをするという、キリスト者の成長が生き生きと表現されています。問115を読んで終わりたいと思います。

 問115 この世においては、誰も十戒を守ることができないのに、なぜ神はそれほどまでに厳しく、わたしたちにそれらを説教させようとなさるのですか。

 答 第一に、わたしたちが、全生涯の間、わたしたちの罪深い性質を次第次第により深く知り、それだけより熱心に、キリストにある罪の赦しと義とを求めるようになるためです。

   第二に、わたしたちが絶えず励み、神に聖霊の恵みを請うようになり、そうしてわたしたちがこの生涯の後に、完成という目標に達する時まで、次第次第に、いよいよ神のかたちへと新しくされて行くためです。

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