聖書の言葉 4:19 ですから、神のみこころにより苦しみにあっている人たちは、善を行いつつ、真実な創造者に自分のたましいをゆだねなさい。ペトロの手紙一 4章19節 メッセージ 2022年の3月からご近所の求道者の方と月1回のペースで「聖書を読む会」を行っています。家長婦人会でも現在進行形で学んでいる吉田隆先生の『ただ一つの慰め ー「ハイデルベルク信仰問答』によるキリスト教入門ー』をテキストにして一緒に学んでいます。彼女は、岡山西教会のホームページから田村先生の説教を聞いてくださっているので、時にはそのところから分かち合いもしています。 今年の3月から、せっかく「聖書を読む会」という名前なので、毎日一緒の聖書箇所をそれぞれに読んで、次の会の時に、感想や受けた恵みを語り合う時を先のテキストの学びに加えるようになりました。お互い頑張りすぎないで、続けていけるように、すぐに読める短い章の聖書箇所を、その求道者の方の希望を聞きながら選んでいました(マルコの福音書、ペテロの手紙Ⅰ、Ⅱ)。 インターネットで様々な教会の説教を聞かれていますが、旧約聖書は説教箇所であまり出てこず、自分でサラッと読んだだけと言われるので、次は旧約聖書を読もうということで、田村先生に、お勧めの箇所はどこでしょうか?とお尋ねして、「それはやはり聖書の最初の創世記でしょう!」とアドバイスをいただきました。榊原康夫先生の『創造と堕落』をお勧めいただきました。その本の最初に聖書は万事を「はじめ」から書き、「はじめ」から読ませ、「はじめ」から学んでほしいと書いてありました。私自身が、創世記は50章と長いことと、内容が深くて難しいのではないか、系図が多いなどのために避けたいと思う気持ちが働いていたので、やっぱり~!避けられないか-!と思いながら、単純に50章を半分に分け、2か月かけて取り組みました。そこで、今回は、私自身が創世記から改めて学んだことを通して、奨励とは言えませんが、聖書研究のようなことから、お分かちしたいと思います。 まず、創世記の全体像を知って読むことは、助けになるので、簡単に、いのちのことば社の『新聖書注解』と『ハーレーの新聖書ハンドブック』から著者と流れをつかむと、著者は厳密に問うなら著者不明となると書かれていましたが、編集者として伝統的にモーセと考えられています。モーセが、神からの直接的な啓示+記録物と自己体験をもとにまとめた「モーセ5書」の一部です。 内容は大きく2つ。①この世界の始まり(人類一般の歴史)1~11章 ②アブラハムをはじめとするイスラエル民族の始祖について(イスラエルの歴史)が12章~50章に書かれています。 各章の出来事や説明は、今は長くなるのでできませんが、私が心に留めたポイントだけ見ていくと、 ・一つは、神は人をご自身の形に創造された(1:27)ということは、素晴らしい存在として創られ、それが人間の特徴であったということ。他はすべて許されているが、1つだけ禁止された(2:17)。これが行い(業…わざ)の契約と言われています。守らなければ必ず死ぬと。 しかし、人間はまだ死ぬ人を見たこともないし、死ぬ悲しみも知らない。死ぬことがどういうことなのか知らない。せっかく神様は、わざわざ約束を破って善悪の知識の木から取って食べなくても、善悪をわからせてくださるご計画であったと思います。体験しなくてもそれがわかるようにしてくださるおつもりで、選択する自由をお与えくださったであろうに、人はたった一つのことが守れませんでした。 少し時差があった後に、3章10節で、アダムは神様に応えます。「私は園で、あなたの声を聞きました。それで私は裸なので、恐れて、隠れました。」人間が神との交わりから脱落してしまうという霊的死を体験したのです。この木のネーミングがどうして善悪の知識の木なのかな?と思ったことがありますが、まさに悪を知った瞬間だったのでしょう。その結果、悪、罪、苦しみ、病、死が今も世界を悩ませているのです。 しかしこの時に神様が、蛇の背後のサタンに語るのが原福音(3:15)です。ここにキリストの勝利が約束されているという福音の予表です。神様はすべてをリセットして0(ゼロ)スタートもできたでしょうに、神の愛ゆえ、この状況でもう一度救いの道を用意してくださり、本当の完成を目指されたここのところに、この私のことも最後まで忍耐をもって導かれる神であること強く思いました。 ・また創世記には選びが何度も出てきます。アダムとエバの子、カインとアベルとセツの3人の中から、アベルはカインに殺されました。セツの子孫からノアが生まれ、ノアの一家8人以外の人はみな洪水で滅びました。つまり残っていたカインの子孫も洪水で滅びたわけです。そしてそのノアの子孫からアブラハムが生まれます。アブラハムの子もイシュマエルでなくイサクが選ばれ、イサクの双子の子エサウとヤコブも、ヤコブを愛した(ローマ9:13)とあるようにヤコブが選ばれます。事は人間の願いや努力によるのではなく、あわれんでくださる神によるのです(ローマ9:16)。これらのことから、強く神の選びが心に残りました。 ・もう一つ、アブラハム契約(12:1~3)が現在も生きている神との契約です。これは無条件契約で片務契約です。人間がたとえどんなに不忠実であったとしても、神は、約束を守られるというお約束です。神のみが責任を負う契約など、ありえないほどの恵みです。22章のモリヤの山での出来事も、愛するわが子をささげるという、アブラハムにとっては最大の試練でしたが、22:12で、「あなたは自分の子、自分のひとり子さえ惜しまないでわたしにささげた」に、神はこの時すでにひとり子を十字架にかけることを決めておられたのだろうと思うと、初めてここを読んだ時とは比べ物にならない感謝の気持ちがあふれます。神様はご自身で払わない犠牲を私たちに要求されることはないということです。 さらに創世記は、イサク、ヤコブ、ヨセフとイスラエルの歴史が続いていくわけですが、時間の都合で、ヤコブについてご一緒にみたいと思います。後にイスラエルと呼ばれるようになるヤコブです(32:28)。最初は母リベカと共謀し、父をだますことに罪の意識もないようなちゃっかりした自分の利益をまず考えるような人物でしたが、兄エサウから恨まれ(27:41)、殺されないように、叔父のラバンのところに逃げ、義理の父に仕えるために20年間誠実に働きました。ラケルを愛していたのに、だまされてレアと結婚した時、過去の自分の欺きの罪を思い出したことでしょう。神は決して罪をそのままに見過ごしておられる方ではなく、私たちを悔い改めに導き、さらに信仰を深めるために、その罪の結果の苦しみの中を通らされます。その後、神はヤコブに、生まれ故郷に帰るように言われます(31:3)。私はあなたと共にいるとおっしゃる。 このヤコブから4人の妻を通して12人の子が与えられ、イスラエルの12部族となるのです。ヨセフの子、エフライムとマナセが48:5にあるようにヤコブの子とされ、またレビ族は特別な働きに召しだされ、祭司の一族という使命が与えられ(申命記10:9)、相続地の割り当てはなく、主が彼の相続地となったとあります。ヨハネの黙示録7:5~にも12部族が出てきますが、ダンの名はありません。この部族がしばしば偶像崇拝をしたためと注解書にはありました。このカナンの地が現在のイスラエル、パレスチナであることを思うと複雑な思いがします。 この12部族を神は、守るために、カナンの地から一時移住することになるのがエジプトの地です。ヨセフが売られてエジプトに行くことになるのも神の摂理の御業です。ところが400年間も奴隷になるわけです。聖書の歴史は、出エジプト記に続いていきます。 まとめ 天地の始まり、人類の始まり、罪の始まり、殺人の始まり、イスラエル民族の始まり、救済のご計画の始まり、結婚の始まり、労働の始まり、あらゆる始まりが創世記には書かれています。この創世記を通して、女の子孫であるイエス・キリストと出会うことができます。初めて聖書を手に取り、最初の創世記から読み始めた場合はわからないことかもしれませんが、一通り読んだ者が、創世記を改めて読むと、最初のアダムとの関係を断ち切り、最後のアダムにつながるということがクリスチャンになるということだとわかります。 創世記を避けては、新約聖書(たとえばへブル書など)正しく理解できないことがわかりました。世界観、人生観が変わり、歴史観が養われます。創世記を読み学ぶことで、どこから来てどこに行くのか、何のために生きているのかが示されます。聖書全体を流れる内容を知るための感性が与えられます。神様は約束をしてくださっており、それを守られる神であることから、ぶれない信仰が与えられ、神様に期待できること、希望を持つことができます。聖書の最初の書である創世記と最後の書であるヨハネの黙示録が深いかかわりがあることがわかります(黙示22:2、13、14、19)。いのちの木(創世記3:24)から遠ざけられましたが、再び近づくことができるようになり、様々なことが解決される姿を見ることができます。 学びたいと求めている人と一緒に聖書を読むよろこびを感じています。聖書の御言葉に力があるので、いろいろ説明しなければならないという思いより、私自身がまず、御言葉の恵みをいただき、感動し、常に感謝し、謙虚にされ、弱い自分だけに目をとめて生き、いちいちがっかりするのではなく、神の導きを信じて、これからも生かされていきたいと思っています。 関連する説教を探す 2024年の祈祷会 『ペトロの手紙一』
2022年の3月からご近所の求道者の方と月1回のペースで「聖書を読む会」を行っています。家長婦人会でも現在進行形で学んでいる吉田隆先生の『ただ一つの慰め ー「ハイデルベルク信仰問答』によるキリスト教入門ー』をテキストにして一緒に学んでいます。彼女は、岡山西教会のホームページから田村先生の説教を聞いてくださっているので、時にはそのところから分かち合いもしています。
今年の3月から、せっかく「聖書を読む会」という名前なので、毎日一緒の聖書箇所をそれぞれに読んで、次の会の時に、感想や受けた恵みを語り合う時を先のテキストの学びに加えるようになりました。お互い頑張りすぎないで、続けていけるように、すぐに読める短い章の聖書箇所を、その求道者の方の希望を聞きながら選んでいました(マルコの福音書、ペテロの手紙Ⅰ、Ⅱ)。
インターネットで様々な教会の説教を聞かれていますが、旧約聖書は説教箇所であまり出てこず、自分でサラッと読んだだけと言われるので、次は旧約聖書を読もうということで、田村先生に、お勧めの箇所はどこでしょうか?とお尋ねして、「それはやはり聖書の最初の創世記でしょう!」とアドバイスをいただきました。榊原康夫先生の『創造と堕落』をお勧めいただきました。その本の最初に聖書は万事を「はじめ」から書き、「はじめ」から読ませ、「はじめ」から学んでほしいと書いてありました。私自身が、創世記は50章と長いことと、内容が深くて難しいのではないか、系図が多いなどのために避けたいと思う気持ちが働いていたので、やっぱり~!避けられないか-!と思いながら、単純に50章を半分に分け、2か月かけて取り組みました。そこで、今回は、私自身が創世記から改めて学んだことを通して、奨励とは言えませんが、聖書研究のようなことから、お分かちしたいと思います。
まず、創世記の全体像を知って読むことは、助けになるので、簡単に、いのちのことば社の『新聖書注解』と『ハーレーの新聖書ハンドブック』から著者と流れをつかむと、著者は厳密に問うなら著者不明となると書かれていましたが、編集者として伝統的にモーセと考えられています。モーセが、神からの直接的な啓示+記録物と自己体験をもとにまとめた「モーセ5書」の一部です。
内容は大きく2つ。①この世界の始まり(人類一般の歴史)1~11章 ②アブラハムをはじめとするイスラエル民族の始祖について(イスラエルの歴史)が12章~50章に書かれています。
各章の出来事や説明は、今は長くなるのでできませんが、私が心に留めたポイントだけ見ていくと、
・一つは、神は人をご自身の形に創造された(1:27)ということは、素晴らしい存在として創られ、それが人間の特徴であったということ。他はすべて許されているが、1つだけ禁止された(2:17)。これが行い(業…わざ)の契約と言われています。守らなければ必ず死ぬと。
しかし、人間はまだ死ぬ人を見たこともないし、死ぬ悲しみも知らない。死ぬことがどういうことなのか知らない。せっかく神様は、わざわざ約束を破って善悪の知識の木から取って食べなくても、善悪をわからせてくださるご計画であったと思います。体験しなくてもそれがわかるようにしてくださるおつもりで、選択する自由をお与えくださったであろうに、人はたった一つのことが守れませんでした。
少し時差があった後に、3章10節で、アダムは神様に応えます。「私は園で、あなたの声を聞きました。それで私は裸なので、恐れて、隠れました。」人間が神との交わりから脱落してしまうという霊的死を体験したのです。この木のネーミングがどうして善悪の知識の木なのかな?と思ったことがありますが、まさに悪を知った瞬間だったのでしょう。その結果、悪、罪、苦しみ、病、死が今も世界を悩ませているのです。
しかしこの時に神様が、蛇の背後のサタンに語るのが原福音(3:15)です。ここにキリストの勝利が約束されているという福音の予表です。神様はすべてをリセットして0(ゼロ)スタートもできたでしょうに、神の愛ゆえ、この状況でもう一度救いの道を用意してくださり、本当の完成を目指されたここのところに、この私のことも最後まで忍耐をもって導かれる神であること強く思いました。
・また創世記には選びが何度も出てきます。アダムとエバの子、カインとアベルとセツの3人の中から、アベルはカインに殺されました。セツの子孫からノアが生まれ、ノアの一家8人以外の人はみな洪水で滅びました。つまり残っていたカインの子孫も洪水で滅びたわけです。そしてそのノアの子孫からアブラハムが生まれます。アブラハムの子もイシュマエルでなくイサクが選ばれ、イサクの双子の子エサウとヤコブも、ヤコブを愛した(ローマ9:13)とあるようにヤコブが選ばれます。事は人間の願いや努力によるのではなく、あわれんでくださる神によるのです(ローマ9:16)。これらのことから、強く神の選びが心に残りました。
・もう一つ、アブラハム契約(12:1~3)が現在も生きている神との契約です。これは無条件契約で片務契約です。人間がたとえどんなに不忠実であったとしても、神は、約束を守られるというお約束です。神のみが責任を負う契約など、ありえないほどの恵みです。22章のモリヤの山での出来事も、愛するわが子をささげるという、アブラハムにとっては最大の試練でしたが、22:12で、「あなたは自分の子、自分のひとり子さえ惜しまないでわたしにささげた」に、神はこの時すでにひとり子を十字架にかけることを決めておられたのだろうと思うと、初めてここを読んだ時とは比べ物にならない感謝の気持ちがあふれます。神様はご自身で払わない犠牲を私たちに要求されることはないということです。
さらに創世記は、イサク、ヤコブ、ヨセフとイスラエルの歴史が続いていくわけですが、時間の都合で、ヤコブについてご一緒にみたいと思います。後にイスラエルと呼ばれるようになるヤコブです(32:28)。最初は母リベカと共謀し、父をだますことに罪の意識もないようなちゃっかりした自分の利益をまず考えるような人物でしたが、兄エサウから恨まれ(27:41)、殺されないように、叔父のラバンのところに逃げ、義理の父に仕えるために20年間誠実に働きました。ラケルを愛していたのに、だまされてレアと結婚した時、過去の自分の欺きの罪を思い出したことでしょう。神は決して罪をそのままに見過ごしておられる方ではなく、私たちを悔い改めに導き、さらに信仰を深めるために、その罪の結果の苦しみの中を通らされます。その後、神はヤコブに、生まれ故郷に帰るように言われます(31:3)。私はあなたと共にいるとおっしゃる。
このヤコブから4人の妻を通して12人の子が与えられ、イスラエルの12部族となるのです。ヨセフの子、エフライムとマナセが48:5にあるようにヤコブの子とされ、またレビ族は特別な働きに召しだされ、祭司の一族という使命が与えられ(申命記10:9)、相続地の割り当てはなく、主が彼の相続地となったとあります。ヨハネの黙示録7:5~にも12部族が出てきますが、ダンの名はありません。この部族がしばしば偶像崇拝をしたためと注解書にはありました。このカナンの地が現在のイスラエル、パレスチナであることを思うと複雑な思いがします。
この12部族を神は、守るために、カナンの地から一時移住することになるのがエジプトの地です。ヨセフが売られてエジプトに行くことになるのも神の摂理の御業です。ところが400年間も奴隷になるわけです。聖書の歴史は、出エジプト記に続いていきます。
まとめ
天地の始まり、人類の始まり、罪の始まり、殺人の始まり、イスラエル民族の始まり、救済のご計画の始まり、結婚の始まり、労働の始まり、あらゆる始まりが創世記には書かれています。この創世記を通して、女の子孫であるイエス・キリストと出会うことができます。初めて聖書を手に取り、最初の創世記から読み始めた場合はわからないことかもしれませんが、一通り読んだ者が、創世記を改めて読むと、最初のアダムとの関係を断ち切り、最後のアダムにつながるということがクリスチャンになるということだとわかります。
創世記を避けては、新約聖書(たとえばへブル書など)正しく理解できないことがわかりました。世界観、人生観が変わり、歴史観が養われます。創世記を読み学ぶことで、どこから来てどこに行くのか、何のために生きているのかが示されます。聖書全体を流れる内容を知るための感性が与えられます。神様は約束をしてくださっており、それを守られる神であることから、ぶれない信仰が与えられ、神様に期待できること、希望を持つことができます。聖書の最初の書である創世記と最後の書であるヨハネの黙示録が深いかかわりがあることがわかります(黙示22:2、13、14、19)。いのちの木(創世記3:24)から遠ざけられましたが、再び近づくことができるようになり、様々なことが解決される姿を見ることができます。
学びたいと求めている人と一緒に聖書を読むよろこびを感じています。聖書の御言葉に力があるので、いろいろ説明しなければならないという思いより、私自身がまず、御言葉の恵みをいただき、感動し、常に感謝し、謙虚にされ、弱い自分だけに目をとめて生き、いちいちがっかりするのではなく、神の導きを信じて、これからも生かされていきたいと思っています。