2024年09月22日「義に飢え渇く者は幸いです」

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義に飢え渇く者は幸いです

日付
説教
田村英典 牧師
聖書
マタイによる福音書 5章1節~10節

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聖句のアイコン聖書の言葉

5:1 その群衆を見て、イエスは山に登られた。そして腰を下ろされると、みもとに弟子たちが来た。
5:2 そこで、イエスは口を開き、彼らに教えて、言われた。
5:3 「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだからです。
5:4 悲しむ者は幸いです。その人たちは慰められるからです。
5:5 柔和な者は幸いです。その人たちは地を受け継ぐからです。
5:6 義に飢え渇く者は幸いです。その人たちは満ち足りるからです。
5:7 あわれみ深い者は幸いです。その人たちはあわれみを受けるからです。
5:8 心のきよい者は幸いです。その人たちは神を見るからです。
5:9 平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるからです。
5:10 義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人たちのものだからです。マタイによる福音書 5章1節~10節

原稿のアイコンメッセージ

 今日の礼拝は伝道礼拝ですので、少し自由に、また多少とも分りやすく聖書からお話出来ればと思います。

 今朗読しました聖書箇所は、約2千年前、全世界の救い主として天の父なる神の御許(みもと)からこの世に来られた神の御子イエスが、群衆に語られた教えの一部です。この3~10節で、イエスは真(しん)に幸いな信仰者の特徴を八つ語られます。3節から少し見てみます。

 真に幸いな信仰者は、第一に3節、心が貧しい、すなわち、神の前で自分の不信仰や罪深いことをよく知っていますので、何より謙虚です。第二に4節、やはり自分自身とこの世に見られる罪深いことを思って悲しむ人です。第三に5節、対人関係で柔和です。そして今朝学ぶのですが、第四に6節、義に飢え渇いています。

 では、義に飢え渇くとは、どういうことでしょうか。

 義は正しさを指します。しかし聖書では何より、万物を造られ、人間を他の動物や植物と違って、愛を込め入念に造られた真(まこと)の神の完全な正しさや真実などの清いご性質の全体を意味します。

 そして次に、その神に応答し、神と親しく交わることが出来るために、神に似る者として造られた私たち人間の内に与えられた正しさや真実などの大切な清い性質を意味します。6節で言われる義はこのことです。

 ところが人間は、聖書が教えますように、神に背き、最初の幸せな状態から転落してしまいました。これが、キリスト教で言ういわゆる堕落です。そのため、人は生れながらに原罪と呼ばれる腐敗した罪の性質を持ち、また現実にも思いと言葉と行いにおいて神の嫌われる自己中心な罪を犯しています。

 私たちが自分の心を正直に見つめると、どうでしょうか。何かを考え、しゃべり、行動する時にも、出来るだけ自分はしんどいことから逃げ、自分が損をせず、むしろ自分が楽で得をするようにと、無意識の内に損得勘定をする自己中心的な点はないでしょうか。また私たちには、人に知られたくない恥ずかしい所はないでしょうか。

 そして利己的な罪は、必ず自分自身に跳ね返って来ます。例えば、幼い頃の純真さや素直さを失い、頑なでイヤな人間になっていきます。人ともよくぶつかり、自分のことは棚に上げ、よく人を批判し傷つけ合い、これが更には家と家、民族と民族、国と国との衝突や戦争に行き着きます。

 神はこういう私たちの罪をよくご存じであり、全てお見通しです。ヘブル4:13は言います。「神の御前(みまえ)にあらわでない被造物はありません。神の目には全てが裸であり、さらけ出されています。この神に対して、私たちは申し開きをするのです。」

 しかし、私たちに申し開きや弁解など出来るはずがありません。情けないことに、私たちは罪深い選択を本能的・自動的にしていて、自分では制御不能だからです。

 このままなら、私たちは皆やがて神の裁きを受け、永遠の滅び、永遠の死に至る。何と惨めなことでしょうか。

 しかし、聖書はここで終りません。こんな私たちを天の父なる神は尚も愛し、憐み、何とご自分の独り子(ひとりご)を私たちの救い主として世に遣わされたのです。それがイエス・キリストです。

 罪は償われなくてはなりません。しかし、生れながらの私たち罪人に、自分で自分の罪を償うことなど、到底、不可能です。

 それなら、私たちは絶望的ではないでしょう。いいえ!こんな私たちが救われるためには、罪も汚れもない全く清いご自分の命で償う以外に方法がないことをご存じのイエスは、自ら進んで十字架で命を捧げて下さったのです!

 ですから、このイエスを自分の救い主として心から信じ、受け入れ、寄り頼むなら、私たちは罪を全て赦され、神との親しい関係に回復され、神の子供として永遠に生きることを許されます。これが救いです。洗礼を受けてクリスチャンになるとは、愛と慈しみに満ちた神とのこの素晴らしい関係に入れられることを指します。

 しかし、ここで問題が一つあります。何でしょう。それは、たとえ信仰を持っても、私たちには腐敗した罪の性質がまだ残っていることです。

 聖書はよく鏡に喩えられます。詰まらないことや愚かなことを考える自分の心、自分が口にした無益で愚かな、それどころか、人を傷つけ躓かせる有害な言葉、更に自分の行いを一つ一つ聖書に照らして点検するとどうでしょうか。人に見せる表(おもて)の姿とは違い、自分の情けない裏の姿に、愕然としないでしょうか。また、天の父なる神と御子イエスの計り知れない赦しの愛や決して偽ることのない正しさや真実を知れば知る程、信仰者は自分がまだまだ罪深い汚れた者であることを思わないではおられません。

 そこで、清い神に似て、自分ももっと清くなりたいと激しく祈り願わずにはおれません。「どうして私はいつまでもこうなのか。情けない。神様、私を憐れんで下さい。私を根底から洗い清め、あなたに喜ばれ、あなたの子供と呼ばれるに相応しい清い者にして下さい。」これが6節「義に飢え渇く」ということです。

 こういう呻きや求めを、今から3前年前の信仰者ダビデも神にこう祈り伝えた。詩篇51:2「私の咎(とが)を、私からすっかり洗い去り、私の罪から私を清めて下さい。」8節「ヒソプで私の罪を除いて下さい。そうすれば私は清くなります。私を洗って下さい。そうすれば、私は雪よりも白くなります。」10節「神よ、私に清い心を造り、揺るがない霊を、私の内に新しくして下さい。」

 これが、ありのままの自分を知り、心から神に祈り求める真(まこと)の信仰者、真(まこと)のクリスチャンの姿であり、心の貧しさ、悲しさ、柔和さを経た人が、次にどうしても示す姿なのです。しかし正に(まさに)そこでイエスは言われます。マタイ5:6「義に飢え渇く者は幸いです。その人たちは満たされるからです。」

 使徒パウロは、信仰により自分が救われていることを当然確信していました。しかし自分が完全でないこともよく知っており、義に飢え渇いていました。ですから、こう言いました。ピリピ3:12~14「私は、既に得たのでもなく、既に完全にされているのでもありません。ただ捕えようとして追及しているのです。そして、それを得るようにと、キリスト・イエスが私を捕えて下さったのです。兄弟たち、私は、自分が既に捕えたなどと考えてはいません。ただ一つのこと、後ろのものを忘れ、前のものに向って身を伸ばし、キリスト・イエスにあって神が上に召して下さるという、その賞を頂くために、目標を目指して走っているのです。」

 これが真の信仰者なのです。

 「飢え渇く」とイエスは言われます。食物、飲物がないと人は飢え渇いて死にます。ですから、真の信仰者も必ず必死になって義を求めます。またルカ福音書18章のたとえたとえ話の取税人のように、自分の胸を打ち叩き、「神様、罪人の私を憐れんで下さい」と呻き、義に飢え渇いています。しかし正に(まさに)こういう人が幸いだと主は言われます。「その人たちは満ち足りるから」と。

 これは、ご自分の命まで献げて下さった神の御子イエス・キリストの約束であり保証です。この約束と保証をイエスはマタイ7:7でも下さっています。「求めなさい。そうすれば与えられます」と。またイエスは、ヨハネ6:37で、ご自分の許に来る者を決して追い出したりはしないと言われます。ですから、義に飢え渇いてご自分の許に来る者をイエスは必ず満たして下さいます。イエスこそ、ヨハネ6:35「命のパン」であり、同4:10「生ける水」を下さる方であり、御言葉と聖霊により、ご自分のきよい性質を信仰者の内に満たして下さるのです。

 飢え渇きがなく、自己満足している人は変りません。何と不幸でしょう。人は、自分が真剣に祈り求めているものに近づけられるのです。実際、パウロなどは、何と謙虚で、人のことでよく悲しみ、柔和で、憐み深く、喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣く清い人になっていったことでしょう。

 しかし実際のことを言いますと、如何に優れた信仰者でも、この世にあっては、完全に罪から解放されることはありません。ですから、イエスは、主の祈りの中で「我らに罪を犯す者を我らが赦す如く、我らの罪をも赦し給え」と、全てのクリスチャンに全生涯を通して真剣に祈るようにお教えになります。

 そうだとすると、私たちがどんなに義に飢え渇いていても、義に満たされることはないのでしょうか。イエス・キリストの約束は嘘なのでしょうか。いいえ!違います!世を去る瞬間、義に飢え渇いて生きてきた信仰者を、慈しみ深いイエスは完全に清め、ご自分の義で満たして下さいます。そして信仰者は、天の国で、同じように義に飢え渇いて生きて来た全ての誠実な信仰者と手を取り合い、思い切り、とびっきりの笑顔で神を賛美している自分自身を発見することを許されるでしょう。

 「義に飢え渇く者は幸いです。その人たちは満たされるからです!」

 イエス・キリストのこの最高の恵みに、是非、ご一緒に与りたいと思います。

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