聖書の言葉 1:16 私は福音を恥としません。福音は、ユダヤ人をはじめギリシア人にも、信じるすべての人に救いをもたらす神の力です。1:17 福音には神の義が啓示されていて、信仰に始まり信仰に進ませるからです。「義人は信仰によって生きる」と書いてあるとおりです。ローマの信徒への手紙 1章16節~17節 メッセージ 当教会の今年の標語には「キリストの恵みと知識において成長する」とあり、霊的成長を私たちは願っています。そこで、今朝は福音が神の力であることを改めて心に留めたいと思います。 1:13で、使徒パウロは何度もローマに行こうとしたが行けなかったこと、また行きたかった理由として、15節「ぜひ福音を伝え」たいからだと書きます。何故そんなに福音を伝えたかったか。16節「私は福音を恥」としないからだと言います。やや弱く響きますが、これは修辞法の一つであり、パウロは本当は非常に強い確信を持っていました。ローマ書より少し前に書いたガラテヤ書6:14では、「私には、私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが、決してあってはなりません」と書いています。 あるいは、ローマの教会には、ギリシア・ローマ文明の中でキリスト教に少々引け目を感じ、信仰を公に表すことを恥じる者もいたために、こんな言い方をしたのかも知れません。いずれにせよ、彼は「私は福音を最高に誇りとしている。だから、何としても福音を伝えたい」と言うのです。 何故こうまで福音を誇るのでしょうか。それは福音が16節「ユダヤ人を初めギリシア人にも、信じる全ての人に救いをもたらす神の力」だからです。福音は素晴らしい神の力!パウロはこれをよく知っていました。だから、何としてもこれを伝えたい!16、17節はローマ書の核心部分と言えます。 では、福音はどんな点で素晴らしい神の力なのでしょうか。三つばかり見たいと思います。 第一は、福音が私たちに何をもたらすかです。何をもたらすでしょう。「救い」です。16節「福音は、ユダヤ人を初めギリシア人にも、信じる全ての人に救いをもたらす神の力」と言います。 「力」を表すギリシア語は8つ位ありますが、ここではダイナマイトやダイナミック、ダイナモ(発電機)などの英語の語源となるデュナミスが使われています。何かを生み出し、何かを動かし、作り変える。福音はそういう神の力だというのです。福音は私たちに他でもない「救い」をもたらす神の絶大な力だということです。 救いとは何でしょうか。消極的には、罪とその結果である諸々の悲惨からの救いであり、最終的には神の裁き、永遠の死からの救いです。積極的には、罪人の私たちを、全く正しい神と和解させ、神の子とし、神に喜ばれる者へと清め、ついに永遠の命の祝福に与(あずか)らせることです。 この救いをパウロは17節で「神の義」と言います。義は正しさを意味しますが、ここでは神の性質としての義ではなく、神が私たちに下さる義、つまり、神の前に私たちが全く恐れなく立つことのできる資格としての義です。これが福音には示されています。17節「福音には神の義が啓示されて」いる! よく考えたいと思います。全く罪のない神の御子が、私たち人間の罪を全部背負い、私たち罪人が本来受けるべき神の永遠の裁きを私たちに代って十字架で受け、ご自分の命をもって償い、また復活し、今天において御言葉と御霊により常に私たちを生かし、教え、戒め、訓練し、神の子供として成長させ、やがては永遠の命の祝福に入れて下さる!こんな尊い救いが他にあるでしょうか。栄養ドリンクのように、一時私たちを元気づけ、心を癒す、人生哲学や宗教、精神修養、心理学などは沢山あります。しかし、人間の究極の問題である罪とその結果である諸々の悲惨、特に永遠の死、永遠の悲惨から救えるものが、どこにあるでしょうか。福音は私たちに単に道徳的清さや生活の知恵を与えるだけのものとは、全然違います。福音は、今も永遠までも、私たちを人間の究極の問題である罪と滅びから救い、義とし、清め、完成し、ローマ5:2の表現を借りるなら、「神の栄光」に与らせる絶大な神の力なのです。福音は私たちに「救い」をもたらす神の力!これが第一点です。 第二に、福音は信じる「全ての人」(1:16)に救いをもたらす神の力です。何と素晴らしいでしょう!「信じる」という点は後で扱い、今は、信じる「全ての人」に救いをもたらす点に注目します。 これをパウロは「ユダヤ人を初めギリシア人にも」(16節)と言います。神の救いの恵みを最初に受けたのはユダヤ人ですが、イエスが世に来られてからは、福音はユダヤ人以外の世界中の人に提供されています。それをここは「ギリシア人にも」と表現しています。要するに、民族、言語、文化、血筋の違いを超えて全ての人にということです。ここが素晴らしいですね。福音は信じる「全て」の人に救いをもたらすのです。教養や学歴、社会的地位のあるなし、先天的後天的理由で今どんな性格で、過去にどんな生き方をし、どんな罪深いことをしたかも関係ありません。福音は信じる者「全て」を本当に救う神の力なのです。 しばしば、「あの人は難しい人だから」とか「あんな生き方をして来た人に、救いは無理ではないか」などという声も聴かれます。しかし、聖書は何と言っているでしょう。福音は神の力だと言います。主イエスもルカ18:27で「人にはできないことが、神にはできる」と言われます。 でも、これは本当でしょうか。本当です!現にパウロ自身がそうでした。ユダヤ教徒の頃と比べ、イエスを信じてから彼はどんなに変ったでしょう。本来の強い気質と性格の上に、驚くほど深い愛、謙遜、柔和、思いやりに満ちた人となりました。 讃美歌の『アメイジング・グレイス』を作詞したイギリス人、ジョン・ニュートンもそうです。元は奴隷船の船長で、奴隷貿易をし、すさんだ生活をし、神やキリストについてひどい暴言を吐き、人を金で売り買いすることに何の罪悪も感じず、奴隷船に閉じ込められている女性の奴隷に平気で暴行を働き、とても罪深い人生を送っていました。しかし、イエス・キリストの福音に捉えられると、徐々に変化が起り、罪深い生活から足を洗い、妻を心から愛し、驚くべき救いの恵みを讃える讃美歌を作る牧師に変わりました。『讃美歌21』の 451番(1、5)にある「アメイジング・グレイス」の歌詞はこうです。「くすしき み恵み 我を救い、迷いしこの身も たち返りぬ/ この身は衰え、世を去る時、喜び溢るる 御国(みくに)に生きん」 私が昔、牧師をしていた教会の元教会員で、1982年2月、11歳で天に召されたリリコちゃんは大変利発で元気な女の子でした。しかし、9歳の誕生日の頃、左脚が痛いと言い出し、検査の結果、骨肉腫と分りました。即刻、左脚を股関節の所から切除しなければならない。苦しみ悩んだ挙げ句、ご両親がついに彼女に打ち明けられます。その時の様子を、父親のYさんはのちにこう語られたと聞いています。「語ろうと用意した言葉は全く出て来ないで、『リリの片脚を取らないと、命が危ない』と言ったきり、あとは声になりませんでした。リリコは驚いて泣きわめき、私たちの膝の上を行ったり来たりしましたが、私たちはただ抱きしめ、オロオロするばかりでした。『神に信頼しよう』と用意した言葉は、ついに出て来なかったのです。長い時が経って口を切ったのはリリコの方からでした。『パパもママも、もう泣かないでほしい。リリには神様がついているから怖くない。足がなくなるのは悲しいけれど、これからは、このことで決して泣かないから』と言い、なくなる方の脚を抱きしめ、『神様、9年間もRの足を使わせて下さってありがとうございます』と祈ったのです。」僅か9歳の女の子がこう言える!祈れる!これが福音です。福音は本当に信じる者「全て」に救いをもたらす神の力なのです。 第三に、福音はただ信仰によって救いを人にもたらす神の力なのです!福音は16節「信じる全ての人」に救いをもたらす神の力とあります。「信じる」、つまり、神の御子イエスを救い主として心から信じ依り頼み、イエスに従って歩もうとする信仰こそ、救いをもたらす神の力が私たちに決定的に働く恵みの通路なのです。永遠の救いに与るためには、信仰こそが大事で、行いや生き方や人柄そのものでもありません。ひとえに信仰です。パウロは17節で「福音には神の義が啓示されていて、信仰に始まり信仰に進ませる」と言います。ここの「信仰に始まり信仰に進ませる」を、新共同訳聖書は「初めから終りまで信仰を通して実現される」と訳しています。この翻訳も可能であり、私はこちらの訳の方が良いと思っています。 とにかく、信仰の重要性を強調するために、「義人は信仰によって生きる」という旧約聖書のハバクク書2:4を引用します。細かい説明は省きます。大切なのは信仰です。福音は本当にただ信仰により誰をも救うことの出来る神の力なのです。 しかし、これはそれほど素晴らしいことなのでしょうか。勿論素晴らしいです!もし信仰だけでなく、神の戒めを全て守るとか、立派な行いとか、一切罪や汚れがなく、高潔で愛に満ちた人間性が救いの条件なら、誰が救われるでしょうか。生れながらに原罪という腐敗した性質を持っている私たちは、神の清い戒め、律法を決して完全には守れません。信仰を持っても、なお、罪の残り滓があります。むしろ、3:20が言いますように、「律法を通して生じるのは罪の意識」です。救いの喜びどころか、聖書から神の清さや愛を知れば知る程、私たちは自分の罪と汚れをますます自覚し、絶望的になります。実際、クリスチャンになってからも、私たちはどんなに自己中心でしょう。自分は欠けだらけですのに、何としばしば私たちは傲慢で、すぐ人を裁き、人を傷つけていることでしょうか。本当なら救われません。 しかし、ここに主(しゅ)の計り知れない憐れみに満ちた福音があります!神の力である福音は、ただ真実な悔い改めと表裏一体のイエス・キリストへの信仰により、こんな私たちをも本当に救えるのです!ルカ18:13の取税人のように自分の胸を打ち、「神様、罪人の私を憐れんで下さい」と、自分の罪と不信仰を心底悲しみ、罪を告白し、イエス・キリストを自分のただ一人の救い主と心から信じ依り頼み、存在の根底から自分をイエスに明け渡し、依り頼むなら、私たちは神の恵みによって救われ、清められます。Ⅰヨハネ1:8、9は言います。「もし自分には罪はないと言うなら、私たちは自分自身を欺いており、私たちの内に真理はありません。もし私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、私たちを全ての不義から清めて下さいます。」 まとめます。 福音は第一に、本当に私たちを罪と永遠の滅び、地獄からの救いをもたらします。 第二に、福音は私たちの過去や私たちがどんな種類の人間かをも問わず、信じる者全てを救います。元はガチガチのユダヤ教徒も、奴隷船の船長も、9歳の女の子も救います。 第三に、ただ信仰によって私たちを救います。福音は私たちの能力や性格や資質に依存しない神の力なのです。 福音の持つ神の力を改めて覚え、パウロや全ての聖徒たちと共にイエスの福音に生きる素晴らしさを更に体験させられたいと願います。そして、福音をもっと多くの人に知って頂くために、慈しみに満ちた主イエスが私たちの全生活を祝福し、お用い下さいますように! 関連する説教を探す 2019年の日曜朝の礼拝 『ローマの信徒への手紙』
当教会の今年の標語には「キリストの恵みと知識において成長する」とあり、霊的成長を私たちは願っています。そこで、今朝は福音が神の力であることを改めて心に留めたいと思います。
1:13で、使徒パウロは何度もローマに行こうとしたが行けなかったこと、また行きたかった理由として、15節「ぜひ福音を伝え」たいからだと書きます。何故そんなに福音を伝えたかったか。16節「私は福音を恥」としないからだと言います。やや弱く響きますが、これは修辞法の一つであり、パウロは本当は非常に強い確信を持っていました。ローマ書より少し前に書いたガラテヤ書6:14では、「私には、私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが、決してあってはなりません」と書いています。
あるいは、ローマの教会には、ギリシア・ローマ文明の中でキリスト教に少々引け目を感じ、信仰を公に表すことを恥じる者もいたために、こんな言い方をしたのかも知れません。いずれにせよ、彼は「私は福音を最高に誇りとしている。だから、何としても福音を伝えたい」と言うのです。
何故こうまで福音を誇るのでしょうか。それは福音が16節「ユダヤ人を初めギリシア人にも、信じる全ての人に救いをもたらす神の力」だからです。福音は素晴らしい神の力!パウロはこれをよく知っていました。だから、何としてもこれを伝えたい!16、17節はローマ書の核心部分と言えます。
では、福音はどんな点で素晴らしい神の力なのでしょうか。三つばかり見たいと思います。
第一は、福音が私たちに何をもたらすかです。何をもたらすでしょう。「救い」です。16節「福音は、ユダヤ人を初めギリシア人にも、信じる全ての人に救いをもたらす神の力」と言います。
「力」を表すギリシア語は8つ位ありますが、ここではダイナマイトやダイナミック、ダイナモ(発電機)などの英語の語源となるデュナミスが使われています。何かを生み出し、何かを動かし、作り変える。福音はそういう神の力だというのです。福音は私たちに他でもない「救い」をもたらす神の絶大な力だということです。
救いとは何でしょうか。消極的には、罪とその結果である諸々の悲惨からの救いであり、最終的には神の裁き、永遠の死からの救いです。積極的には、罪人の私たちを、全く正しい神と和解させ、神の子とし、神に喜ばれる者へと清め、ついに永遠の命の祝福に与(あずか)らせることです。
この救いをパウロは17節で「神の義」と言います。義は正しさを意味しますが、ここでは神の性質としての義ではなく、神が私たちに下さる義、つまり、神の前に私たちが全く恐れなく立つことのできる資格としての義です。これが福音には示されています。17節「福音には神の義が啓示されて」いる!
よく考えたいと思います。全く罪のない神の御子が、私たち人間の罪を全部背負い、私たち罪人が本来受けるべき神の永遠の裁きを私たちに代って十字架で受け、ご自分の命をもって償い、また復活し、今天において御言葉と御霊により常に私たちを生かし、教え、戒め、訓練し、神の子供として成長させ、やがては永遠の命の祝福に入れて下さる!こんな尊い救いが他にあるでしょうか。栄養ドリンクのように、一時私たちを元気づけ、心を癒す、人生哲学や宗教、精神修養、心理学などは沢山あります。しかし、人間の究極の問題である罪とその結果である諸々の悲惨、特に永遠の死、永遠の悲惨から救えるものが、どこにあるでしょうか。福音は私たちに単に道徳的清さや生活の知恵を与えるだけのものとは、全然違います。福音は、今も永遠までも、私たちを人間の究極の問題である罪と滅びから救い、義とし、清め、完成し、ローマ5:2の表現を借りるなら、「神の栄光」に与らせる絶大な神の力なのです。福音は私たちに「救い」をもたらす神の力!これが第一点です。
第二に、福音は信じる「全ての人」(1:16)に救いをもたらす神の力です。何と素晴らしいでしょう!「信じる」という点は後で扱い、今は、信じる「全ての人」に救いをもたらす点に注目します。
これをパウロは「ユダヤ人を初めギリシア人にも」(16節)と言います。神の救いの恵みを最初に受けたのはユダヤ人ですが、イエスが世に来られてからは、福音はユダヤ人以外の世界中の人に提供されています。それをここは「ギリシア人にも」と表現しています。要するに、民族、言語、文化、血筋の違いを超えて全ての人にということです。ここが素晴らしいですね。福音は信じる「全て」の人に救いをもたらすのです。教養や学歴、社会的地位のあるなし、先天的後天的理由で今どんな性格で、過去にどんな生き方をし、どんな罪深いことをしたかも関係ありません。福音は信じる者「全て」を本当に救う神の力なのです。
しばしば、「あの人は難しい人だから」とか「あんな生き方をして来た人に、救いは無理ではないか」などという声も聴かれます。しかし、聖書は何と言っているでしょう。福音は神の力だと言います。主イエスもルカ18:27で「人にはできないことが、神にはできる」と言われます。
でも、これは本当でしょうか。本当です!現にパウロ自身がそうでした。ユダヤ教徒の頃と比べ、イエスを信じてから彼はどんなに変ったでしょう。本来の強い気質と性格の上に、驚くほど深い愛、謙遜、柔和、思いやりに満ちた人となりました。
讃美歌の『アメイジング・グレイス』を作詞したイギリス人、ジョン・ニュートンもそうです。元は奴隷船の船長で、奴隷貿易をし、すさんだ生活をし、神やキリストについてひどい暴言を吐き、人を金で売り買いすることに何の罪悪も感じず、奴隷船に閉じ込められている女性の奴隷に平気で暴行を働き、とても罪深い人生を送っていました。しかし、イエス・キリストの福音に捉えられると、徐々に変化が起り、罪深い生活から足を洗い、妻を心から愛し、驚くべき救いの恵みを讃える讃美歌を作る牧師に変わりました。『讃美歌21』の 451番(1、5)にある「アメイジング・グレイス」の歌詞はこうです。「くすしき み恵み 我を救い、迷いしこの身も たち返りぬ/ この身は衰え、世を去る時、喜び溢るる 御国(みくに)に生きん」
私が昔、牧師をしていた教会の元教会員で、1982年2月、11歳で天に召されたリリコちゃんは大変利発で元気な女の子でした。しかし、9歳の誕生日の頃、左脚が痛いと言い出し、検査の結果、骨肉腫と分りました。即刻、左脚を股関節の所から切除しなければならない。苦しみ悩んだ挙げ句、ご両親がついに彼女に打ち明けられます。その時の様子を、父親のYさんはのちにこう語られたと聞いています。「語ろうと用意した言葉は全く出て来ないで、『リリの片脚を取らないと、命が危ない』と言ったきり、あとは声になりませんでした。リリコは驚いて泣きわめき、私たちの膝の上を行ったり来たりしましたが、私たちはただ抱きしめ、オロオロするばかりでした。『神に信頼しよう』と用意した言葉は、ついに出て来なかったのです。長い時が経って口を切ったのはリリコの方からでした。『パパもママも、もう泣かないでほしい。リリには神様がついているから怖くない。足がなくなるのは悲しいけれど、これからは、このことで決して泣かないから』と言い、なくなる方の脚を抱きしめ、『神様、9年間もRの足を使わせて下さってありがとうございます』と祈ったのです。」僅か9歳の女の子がこう言える!祈れる!これが福音です。福音は本当に信じる者「全て」に救いをもたらす神の力なのです。
第三に、福音はただ信仰によって救いを人にもたらす神の力なのです!福音は16節「信じる全ての人」に救いをもたらす神の力とあります。「信じる」、つまり、神の御子イエスを救い主として心から信じ依り頼み、イエスに従って歩もうとする信仰こそ、救いをもたらす神の力が私たちに決定的に働く恵みの通路なのです。永遠の救いに与るためには、信仰こそが大事で、行いや生き方や人柄そのものでもありません。ひとえに信仰です。パウロは17節で「福音には神の義が啓示されていて、信仰に始まり信仰に進ませる」と言います。ここの「信仰に始まり信仰に進ませる」を、新共同訳聖書は「初めから終りまで信仰を通して実現される」と訳しています。この翻訳も可能であり、私はこちらの訳の方が良いと思っています。
とにかく、信仰の重要性を強調するために、「義人は信仰によって生きる」という旧約聖書のハバクク書2:4を引用します。細かい説明は省きます。大切なのは信仰です。福音は本当にただ信仰により誰をも救うことの出来る神の力なのです。
しかし、これはそれほど素晴らしいことなのでしょうか。勿論素晴らしいです!もし信仰だけでなく、神の戒めを全て守るとか、立派な行いとか、一切罪や汚れがなく、高潔で愛に満ちた人間性が救いの条件なら、誰が救われるでしょうか。生れながらに原罪という腐敗した性質を持っている私たちは、神の清い戒め、律法を決して完全には守れません。信仰を持っても、なお、罪の残り滓があります。むしろ、3:20が言いますように、「律法を通して生じるのは罪の意識」です。救いの喜びどころか、聖書から神の清さや愛を知れば知る程、私たちは自分の罪と汚れをますます自覚し、絶望的になります。実際、クリスチャンになってからも、私たちはどんなに自己中心でしょう。自分は欠けだらけですのに、何としばしば私たちは傲慢で、すぐ人を裁き、人を傷つけていることでしょうか。本当なら救われません。
しかし、ここに主(しゅ)の計り知れない憐れみに満ちた福音があります!神の力である福音は、ただ真実な悔い改めと表裏一体のイエス・キリストへの信仰により、こんな私たちをも本当に救えるのです!ルカ18:13の取税人のように自分の胸を打ち、「神様、罪人の私を憐れんで下さい」と、自分の罪と不信仰を心底悲しみ、罪を告白し、イエス・キリストを自分のただ一人の救い主と心から信じ依り頼み、存在の根底から自分をイエスに明け渡し、依り頼むなら、私たちは神の恵みによって救われ、清められます。Ⅰヨハネ1:8、9は言います。「もし自分には罪はないと言うなら、私たちは自分自身を欺いており、私たちの内に真理はありません。もし私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、私たちを全ての不義から清めて下さいます。」
まとめます。
福音は第一に、本当に私たちを罪と永遠の滅び、地獄からの救いをもたらします。
第二に、福音は私たちの過去や私たちがどんな種類の人間かをも問わず、信じる者全てを救います。元はガチガチのユダヤ教徒も、奴隷船の船長も、9歳の女の子も救います。
第三に、ただ信仰によって私たちを救います。福音は私たちの能力や性格や資質に依存しない神の力なのです。
福音の持つ神の力を改めて覚え、パウロや全ての聖徒たちと共にイエスの福音に生きる素晴らしさを更に体験させられたいと願います。そして、福音をもっと多くの人に知って頂くために、慈しみに満ちた主イエスが私たちの全生活を祝福し、お用い下さいますように!