2024年09月15日「天からの徴(しるし)、イエス」

問い合わせ

日本キリスト改革派 岡山西教会のホームページへ戻る

天からの徴(しるし)、イエス

日付
説教
田村英典 牧師
聖書
マタイによる福音書 12章38節~46節

Youtube動画のアイコンYoutube動画

Youtubeで直接視聴する

聖句のアイコン聖書の言葉

12:38 その時、律法学者、パリサイ人のうちの何人かがイエスに「先生、あなたから徴(しるし)を見せていただきたい」と言った。
12:39 しかし、イエスは答えられた。「悪い、姦淫の時代は徴を求めますが、徴は与えられません。ただし預言者ヨナの徴は別です。
12:40 ヨナが三日三晩、大魚の腹の中にいたように、人の子も三日三晩、地の中にいるからです。
12:41 ニネべの人々が、裁きの時にこの時代の人々と共に立って、この時代の人を罪ありとします。ニネべの人々はヨナの説教で悔い改めたからです。しかし見なさい。ここにヨナにまさるものがあります。
12:42 南の女王が、裁きの時にこの時代の人々と共に立って、この時代の人々を罪ありとします。彼女はソロモンの知恵を聞くために地の果てから来たからです。しかし見なさい。ここにソロモンにまさるものがあります。マタイによる福音書 12章38節~46節

原稿のアイコンメッセージ

 既に見て来ましたように、紀元1世紀のユダヤ教正統派のパリサイ人たちは、神の御子イエスを色々攻撃し、しかし全て論破されました。そこで今度は、38節「律法学者」、つまり、旧約聖書の学者たちと共に来て、イエスに「先生、あなたから徴を見せていただきたい」と言いました。「先生」と丁寧に呼びかけますが、本心はイエスを倒すことにあります。

 「徴」とは、イエスが神からの救い主・キリスト(ヘブル語でメシア)であることの証拠です。12:9以降が伝えましたように、イエスは片手の萎えた人や悪霊につかれて目が見えず口も利けない人を癒し、また5~7章にありますいわゆる「山上の説教」により、イエスは神の御心を見事に示されました。苦しむ大勢の人を愛をもって癒し、神の御心を鮮やかに示され、イエスが神からの救い主・キリストであることは十分でした。

 しかし、ユダヤ教正統派の人たちは、アッと驚く「天からの徴」(マルコ8:11)のようなものを求め、群衆の中にもそれを求める人たちがいました(ルカ11:29)。そこで、イエスは三つの点からお答えになります。

 第一は、やがて起ることですが、十字架の死の後、三日三晩葬られ、しかしその後、ご自分が甦ることこそ、決定的な徴だということです。イエスは言われます。39節「悪い、姦淫の時代は徴を求めます」と。「姦淫」は、神と信仰者の関係を結婚に例えて、神を裏切る罪と不信仰を指します。つまり、不信仰な人程、凄い証拠を神とイエスに求めます。これはいつの時代でも同じです。私も信仰を持つ前、「神について凄い証拠があれば、僕も信じるのに」と思ったものです。

 話を戻します。不信仰な心で徴を求めた律法学者やパリサイ人たちに、イエスは39、40節「但し、預言者ヨナの徴は別です。ヨナが三日三晩、大魚の腹の中にいたように、人の子も三日三晩、地の中にいる」と言われました。

 ヨナ書が伝える預言者ヨナは、紀元前8世紀頃、イスラエルを苦しめていたアッシリアが神に滅ぼされることを強く願っていましたが、何と神は彼にアッシリアの都ニネベへ行って悔い改めを語るように命じられました。しかし、ニネベの人々が悔い改めて助かることがイヤで、ヨナは違う所へ船で逃げました。所が、嵐に襲われ、神から逃げようとしたことがバレて、彼は海に投げ込まれ、しかし大魚が彼を呑み込み、三日三晩、魚の腹の中にいました。やがて吐き出され、死んでいて当然の彼が生きていたという驚くべき出来事がありました。

 それと同じように、40節「人の子」、つまりイエスも、「三日三晩、地の中にいる」ことになると言われます。イエスもやがて十字架で殺され、三日三晩葬られ、その後、甦ることこそ、イエスが神からの救い主であることの決定的徴だということです。事実、数年後、イエスの十字架の死と葬りと復活は起こります。しかし、多くのユダヤ人はイエスを認めず、信じませんでした。人間は、神が働いて下さらなければ、どうしようもなく頑ななのです。

 それはともかく、死と葬りと復活が、イエスが神からの救い主であることの決定的徴だということは大変重要であり、これこそ、他の色々な宗教や哲学との決定的違いです。ですから、後にパウロもⅠコリント15:3で「私があなた方に最も大切なこととして伝えたのは」と言い、イエスの葬りと三日後の復活の事実の重要性を強調したのでした。

 第二点に進みます。ヨナの説教により、異教徒のニネベの人々でさえ悔い改めたのに、ヨナより遥かに優る(まさる)イエスに心を閉ざす人は、何と不信仰か、ということです。

 アッシリアの都ニネベは、現在のイラク北部の町モスルを通るティグリス川の東側にありました。ここは紀元前612年、メディアとバビロンに滅ぼされ、アッシリアは滅びます。しかし、その約150年前、「あと40日すると、ニネベは滅びる」とヨナが叫び回りますと(ヨナ3:4)、人々は悔い改め、滅びを免れたのでした。

 ヨナ書から分りますように、ヨナは自分の気持を優先して神の命令に従わず、願い通りにならないと腹を立て、「死んだ方がましだ」と言うような預言者でした。しかし、そんな彼の説教でも、ニネベの人々は悔い改めました。それなのに、ヨナに遥かに優り、あくまで父なる神に従順であられた御子イエス・キリストを前にしても悔い改めないユダヤ人たちは、どんなに罪深いでしょうか。ですから、イエスはこう言われたのです。12:41「ニネベの人々が、裁きの時にこの時代の人々と共に立って、この時代の人々を罪ありとします。ニネベの人々はヨナの説教で悔い改めたからです。しかし見なさい。ここにヨナに優るものがあります。」

 これは他人事(ひとごと)ではありません。私たちは恵まれ、毎週、礼拝で神の言葉の説き明かしを聞くことが出来ます。しかし、そんな機会のない人が、ふと誰かや何かを通して触れたイエスの福音に魂を揺さ振られ、悔い改め、イエスを信じて救われることもあります。

 一方、恵まれている者が、「聖書の話など自分はよく分っている」などと思っている内に、神への畏れが薄れ、段々神から離れることが起り得ます。何と怖いことでしょう。ですから、ヘブル10:25の御言葉を、是非、心に留めたいと思います。「ある人たちの習慣に倣って自分たちの集まりをやめたりせず、むしろ励まし合いましょう。その日が近づいていることが分っているのですから、ますます励もうはありませんか。」

 第三点に進みます。昔、南の女王がソロモンの知恵を聞くために地の果てから来たのに、ソロモンより遥かに優るイエスに心を閉ざす人は、何と不信仰かということです。

 イエスは言われます。42節「また、南の女王が、裁きの時にこの時代の人々と共に立って、この時代の人々を罪ありとします。彼女はソロモンの知恵を聞くために地の果てから来たからです。しかし見なさい。ここにソロモンに優るものがあります。」

 「南の女王」とはⅠ列王記10章が伝えるシェバの女王のことです。シェバは、今のアラビア半島の最南端にあるイエメンのことでしょう。イエスは、彼女が「地の果てから来た」と言われます。ユダヤから1900km近く離れ、今から3千年前には、どんなに大変な旅だったでしょう。しかし、大変な困難を押してでも、彼女はソロモンの知恵を知りたくてやって来ました。やがて彼女はソロモンにこう言います。Ⅰ列王記10:9「あなたの神、主がほめ讃えられますように。」

 しかし、ソロモンと比べ、イエス・キリストはどんなに知恵に満ちた方でしょうか。Ⅰコリント1:24、30は「神の知恵であるキリスト」、「キリストは、私たちにとって神からの知恵」と言い、コロサイ2:3は「キリストの内に、知恵と知識の宝が全て隠されています」と言います。

 聖書の言う知恵とは、単にこの世でうまくやるための知恵ではありません。苦難の中でも、神の下さった自分の使命に向って、尚、前進して行ける力です。また、死を前にしても自分を失わず、神にも人にも心から感謝し、主イエスに手を握られ、神の下さる確信と平安をもって栄光の天に召されることの出来る力です。実際、死刑になる可能性のあった牢獄の中でも、パウロはこう言えました。ピリピ1:20、21「私の願いは、どんな場合にも恥じることなく、今もいつものように大胆に語り、生きるにも死ぬにしても、私の身によってキリストが崇められることです。私にとって、生きることはキリスト、死ぬことは益です。」

 話を戻します。人は、神から離れますと、アッと驚くような徴を、つい求めるようになります。私たちも注意する必要があります。聖書が証しするイエス・キリストと教え、あるいは、イエスのご人格と御業(みわざ)では物足りず、驚くような徴に自分の信仰の拠り所を求めるようになりますと、それはとても危険です。

 けれども、実は神は私たちのために最高の徴を下さっていました。そうです!イエスこそ、まさに天からの徴であり、徴の中の徴なのです!その中でも、イエスの十字架の死と葬りと復活程、決定的な徴はありません。イエスの死からの復活がなかったならば、神の存在も永遠の命の確証もなく、真面目に一生懸命生きることも無意味となるでしょう。

 しかし事実、イエスは死の中から復活され、真(まこと)の神のご存在と、永遠の命と、天国の存在を立証されたのです。従って、私たちは、この世で如何に辛くても、尚、神の清い御心に従って生き、神の業(わざ)に励み、いそしみ、またいつどんな形で死を迎えようとも、神と共にある永遠の天国を確信し、安心して世を去ることができるのです。ですから、Ⅰコリント15:58も言います。「私の愛する兄弟たち、堅く立って、動かされることなく、いつも主の業に励みなさい。あなた方は、自分たちの苦労が主にあって無駄でないことを知っているのですから」と。これこそ天からの徴、主イエス・キリストが私たちに与えて下さる最高の知恵なのです。

 御子イエスを通して示された神の計り知れない救いの愛とご計画と知恵の故に、私たちも絶えず自分の信仰とその拠り所を吟味し、イエスへの信仰を皆で励まし合い、天の御国への道を前進したいと思います。

関連する説教を探す関連する説教を探す