聖書の言葉 7:14 順境の日には幸いを味わい、逆境の日にはよく考えよ これもあれも、神のなさること。後のことを人に分からせないためである。コヘレトの言葉 7章14節 メッセージ 試練についての学びの今日15回目は、「信仰に立って考える」ということをお話致します。 キリスト教信仰の与える恵みの最大のものは、人間の罪のために壊された創り主なる神と私たちとの関係の回復です。十字架で命を捧げ、私たちの罪を償って下さったイエス・キリストを心から信じ、受け入れ、寄り頼むことで、関係は回復され、私たちは罪を赦され、義と求められ、神の子とされ、神との永遠の交わりに生きることを許されます。ヨハネ3:16に「神は、実に、その独り子をお与えになった程に世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠の命を持つためである」とある通りです。 しかし、恵みはこれだけではありません。大きな困難の中でも、キリスト教信仰には、私たちに物事を考えさせて私たちを支える面があります。信仰は私たちの知性に働きかけます。 人生には予想外のことが起ります。大切な仕事や計画を進めている時にそれが起り、歯車が狂い、しなければならないことは出来ず、私たちは頭を抱え、動転します。 私にもそういうことがあります。今日は、私の体験から少しお話させて頂きますが、そういう時、私は焦って余裕がなくなり、苛々し、逃げ出したくなることがありました。 しかし、こうした中、私は信仰に立ってほぼ次のように考え、危機的状況を神が乗り越えさせて下さったことがありました。その考え方とは、極(ごく)基本的なことですが、御言葉と信仰に立っていると思います。 まず、起った予想外のことが、自分の不信仰や罪、また不注意や愚かさが招いたことなら、仕方がありません。しかしその場合でも、私は、神の憐れみと赦しと助けを真剣に求めます。神の御名を傷つけ、人に迷惑をかけ、人を躓かせ(つまずかせ)、また自分が駄目になってしまうことがないために、真剣に祈ります。その結果、私は神に赦され、助けて頂いて来ました。これは、ただただ感謝でしかありません。 しかし、どう振り返っても、自分が原因で招いたのではないことが起り、私を苦しめることがあります。こういう時は、どう考えたでしょうか。神の御言葉、聖書の教えをまず考えてみます。 第一に、神がこの状況を全てご存じであることをよく心に留めてみます。その時点では、何故、そういうことが起るのを神が許されたのか分らず、心は混乱しています。しかし、神はご存じです。一切は神の支配下にあります。マタイ10:30でイエスは「あなた方の髪の毛さえも、全て数えられています」と言われます。これを思うだけで、気持は落ち着きます。 第二に、Ⅰコリント10:13が「あなた方が経験した試練は皆、人の知らないものではありません。神は真実な方です。あなた方を耐えられない試練に遭わせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練と共に、脱出の道も備えていて下さいます」と言いますように、私たちが経験する試練は、自分だけでなく、他の人も経験していることを心に留めます。すると、それだけでも「あぁ、そうなんだ」と気持が少し楽になります。 第三に、神は耐えられない試練に遭わせることはなさらず、必ず耐えさせ、脱出の道をも備えていて下さることを心に留めます。神は真実な方です。ですから、ご自分がおっしゃったことに、神はいわば責任を取って下さる!それを考えますと、焦りは更に和らぎます。 第四に、ローマ8:28に「神を愛する者たち、すなわち、神のご計画に従って召された人たちのためには、全てのことが共に働いて益となる」とありますように、神を信じているだけでなく、私が神を愛しているなら、今私を苦しめている困難も最終的には神が私のために必ず益として下さることを心で再確認してみます。 御子イエスを賜った程に私たちを愛して下さっている神への自分の愛を、無論、不十分この上ないのですが、改めて自分に問い、確認します。すると「これが何より今一番私自身に問われていることなのだ」と示され、今後のことは神に委ね、神を愛しつつ、私は今自分のすべきことに精一杯に取り組むことに気持を注ぐようにしました。いつしか、主は私を守って下さっていました。 Ⅰテモテ4:8は、「肉体の鍛錬も少しは有益ですが、今の命と来るべき命を約束する敬虔は、全てに有益です」と教えます。「敬虔」とは、神を畏れる真(まこと)の信仰と考えてかまいません。真の信仰は、来るべき世のことは勿論、今私たちが生きているこの世でも絶対有益だということです。そして最初にお読みしました伝道者7:14は「順境の日には幸いを味わい、逆境の日にはよく考えよ」と教えます。ですから、絶対に有益であるキリスト信仰に立ち、御言葉の教えを心に留め、信仰に立って「よく考え」つつ、整理しながら、歩みたいと思います。 関連する説教を探す 2024年の祈祷会 『コヘレトの言葉』
試練についての学びの今日15回目は、「信仰に立って考える」ということをお話致します。
キリスト教信仰の与える恵みの最大のものは、人間の罪のために壊された創り主なる神と私たちとの関係の回復です。十字架で命を捧げ、私たちの罪を償って下さったイエス・キリストを心から信じ、受け入れ、寄り頼むことで、関係は回復され、私たちは罪を赦され、義と求められ、神の子とされ、神との永遠の交わりに生きることを許されます。ヨハネ3:16に「神は、実に、その独り子をお与えになった程に世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠の命を持つためである」とある通りです。
しかし、恵みはこれだけではありません。大きな困難の中でも、キリスト教信仰には、私たちに物事を考えさせて私たちを支える面があります。信仰は私たちの知性に働きかけます。
人生には予想外のことが起ります。大切な仕事や計画を進めている時にそれが起り、歯車が狂い、しなければならないことは出来ず、私たちは頭を抱え、動転します。
私にもそういうことがあります。今日は、私の体験から少しお話させて頂きますが、そういう時、私は焦って余裕がなくなり、苛々し、逃げ出したくなることがありました。
しかし、こうした中、私は信仰に立ってほぼ次のように考え、危機的状況を神が乗り越えさせて下さったことがありました。その考え方とは、極(ごく)基本的なことですが、御言葉と信仰に立っていると思います。
まず、起った予想外のことが、自分の不信仰や罪、また不注意や愚かさが招いたことなら、仕方がありません。しかしその場合でも、私は、神の憐れみと赦しと助けを真剣に求めます。神の御名を傷つけ、人に迷惑をかけ、人を躓かせ(つまずかせ)、また自分が駄目になってしまうことがないために、真剣に祈ります。その結果、私は神に赦され、助けて頂いて来ました。これは、ただただ感謝でしかありません。
しかし、どう振り返っても、自分が原因で招いたのではないことが起り、私を苦しめることがあります。こういう時は、どう考えたでしょうか。神の御言葉、聖書の教えをまず考えてみます。
第一に、神がこの状況を全てご存じであることをよく心に留めてみます。その時点では、何故、そういうことが起るのを神が許されたのか分らず、心は混乱しています。しかし、神はご存じです。一切は神の支配下にあります。マタイ10:30でイエスは「あなた方の髪の毛さえも、全て数えられています」と言われます。これを思うだけで、気持は落ち着きます。
第二に、Ⅰコリント10:13が「あなた方が経験した試練は皆、人の知らないものではありません。神は真実な方です。あなた方を耐えられない試練に遭わせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練と共に、脱出の道も備えていて下さいます」と言いますように、私たちが経験する試練は、自分だけでなく、他の人も経験していることを心に留めます。すると、それだけでも「あぁ、そうなんだ」と気持が少し楽になります。
第三に、神は耐えられない試練に遭わせることはなさらず、必ず耐えさせ、脱出の道をも備えていて下さることを心に留めます。神は真実な方です。ですから、ご自分がおっしゃったことに、神はいわば責任を取って下さる!それを考えますと、焦りは更に和らぎます。
第四に、ローマ8:28に「神を愛する者たち、すなわち、神のご計画に従って召された人たちのためには、全てのことが共に働いて益となる」とありますように、神を信じているだけでなく、私が神を愛しているなら、今私を苦しめている困難も最終的には神が私のために必ず益として下さることを心で再確認してみます。
御子イエスを賜った程に私たちを愛して下さっている神への自分の愛を、無論、不十分この上ないのですが、改めて自分に問い、確認します。すると「これが何より今一番私自身に問われていることなのだ」と示され、今後のことは神に委ね、神を愛しつつ、私は今自分のすべきことに精一杯に取り組むことに気持を注ぐようにしました。いつしか、主は私を守って下さっていました。
Ⅰテモテ4:8は、「肉体の鍛錬も少しは有益ですが、今の命と来るべき命を約束する敬虔は、全てに有益です」と教えます。「敬虔」とは、神を畏れる真(まこと)の信仰と考えてかまいません。真の信仰は、来るべき世のことは勿論、今私たちが生きているこの世でも絶対有益だということです。そして最初にお読みしました伝道者7:14は「順境の日には幸いを味わい、逆境の日にはよく考えよ」と教えます。ですから、絶対に有益であるキリスト信仰に立ち、御言葉の教えを心に留め、信仰に立って「よく考え」つつ、整理しながら、歩みたいと思います。