聖書の言葉 35: 9 私のたましいは 主にあって喜び 御救い(みすくい)の中にあって 楽しみます。35:10 私のすべての骨は言います。『主よ、誰があなたのようでしょう。苦しむ者を より強い者から救い、苦しむ者 貧しい者を 略奪者から救う方。詩編 35篇9節~10節 メッセージ 試練について続けて学んでいます。今日14回目は「試練の中での信仰告白」という点を学びます。 詩篇35:9、10を読みました。ここには、35篇の作者の前向きな信仰がよく表れています。9節「私のたましいは 主にあって喜び 御救い(みすくい)の中にあって 楽しみます。」10節「私のすべての骨は言います。『主よ、誰があなたのようでしょう。苦しむ者を より強い者から救い、苦しむ者 貧しい者を 略奪者から救う方。」 しかし35篇全体を読むと、どうでしょうか。 詩篇には、作者が最終的に達した思いを、最初に述べたものが少なくありません。例えば、73篇は1節「まことに 神はいつくしみ深い。イスラエルに 心の清らかな人たちに」という言葉で始まります。しかし実は、作者は長く苦しい試練の末に達した結論と境地を最初に述べたのでした。 では、35篇はどうでしょう。1、2節「主よ、私と争う者と争い 私と戦う者と戦ってください。盾と大盾を手に取って 私を助けに来てください」、17節「わが主よ いつまで眺めておられるのですか。私のたましいを彼らの略奪から、私のただ一つのものを 若い獅子から奪い返してください」と、彼を苦しめる者たちからの助けを神に祈り、ほぼ最後までこういう感じが続きます。 とすると、9、10節の神への前向きな信仰の言葉は、どう考えれば良いのでしょうか。 結局、作者は、厳しい試練の続く中、それに完全に絡め取られてしまうことを自分に許さず、主なる神への信仰をここで告白しているのです。辛い状態は尚も続く。ですが、敢えて神に信仰を告白することで、彼は神から離れず、守られ、強められ、やがて試練を乗り越えていった。ですから、この詩篇が残されたのだと思います。 困難な問題の渦中にあって、神に信仰告白をして戦っている様子は、詩篇25:8~10、31:4、15、20~23などにも見られます。これはまた新約聖書にも見られます。使徒16:25は、パウロとシラスがピリピの町で伝道した時、捕えられて鞭打たれ、一番奥の牢に入れられ、足枷までされるという苦痛の中、「真夜中頃、…祈りつつ、神を賛美する歌を歌っていた」と伝えています。「神を賛美する歌」を歌うとは、神の知恵や力、聖、義、愛、真実などをほめ称え、感謝する信仰の告白に他なりません。普通ではない辛さの中、それも真夜中頃、神賛美が出来た二人の信仰に私たちは驚きますが、辛さの中でも必ず存在する神の恵みを覚えて賛美をし、神に信仰を告白することで、一層信仰を強められ、神の力に与り、平安と落ち着きの中で過ごせたとも言えるでしょう。 そう言えば、この先、どうなっていくのか、命すら危険という緊張の続く宗教改革のさ中、多くの信仰の先輩たちは、信条という形で神に信仰告白をしながら、聖書的信仰と聖書的教会の樹立のために戦うことが出来ました。その一例として、殺される危険性のあった厳しい宗教改革運動の中、1563年に作成されたハイデルベルク信仰問答の問1をご一緒に見たいと思います。 問1「生きるにも死ぬにも、あなたのただ一つの慰めは何ですか。」 答「私が私自身のものではなく、体も魂も、生きるにも死ぬにも、私の真実な救い主イエス・キリストのものであることです。 この方は御自分の尊い血をもって、私 の全ての罪を完全に償い、悪魔のあらゆる力から私を解放して下さいました。 また、天にいます私の父の御旨でなければ、髪の毛一本も落ちることができない程に、私を守っていて下さいます。実に万事が私の救いのために働くのです。 そしてまた、御自身の聖霊により私に永遠の命を保証し、今から後(のち)この方のために生きることを心から喜び、またそれにふさわしくなるように、整えても下さるのです。 私自身も今まで何度か辛い試練に遭い、もう駄目かも知れないと思ったこともありました。しかし、無から万物を創造し、古代イスラエル民族をエジプトでの過酷な奴隷状態から救い、強大なアッシリア王の軍から一晩のうちにイスラエルを救い(イザヤ書37:36参照)、何より御子イエスを十字架の死から甦らせられた全知全能の神を、意識的に告白し直しました。そして、いつのまにか問題が過ぎ去っていました。 その時は、聖書や歴史における「試練の中での信仰告白」ということを十分に分っていた訳ではありませんでした。追い込まれ、必死になってそうしただけでした。しかし今、振り返ってみて、そうだったのだと思うのです。 試練の中で信仰を告白することは、無論、簡単ではありません。しかし、聖書が明らかに教えることの一つはこれです。是非、心に留め、聖書も教会の歴史も教えているこの神の知恵とも言える方法を用いることが出来ればと思います。御霊が弱い私たちを、何卒、導いて下さいますように! 関連する説教を探す 2024年の祈祷会 『詩編』
試練について続けて学んでいます。今日14回目は「試練の中での信仰告白」という点を学びます。
詩篇35:9、10を読みました。ここには、35篇の作者の前向きな信仰がよく表れています。9節「私のたましいは 主にあって喜び 御救い(みすくい)の中にあって 楽しみます。」10節「私のすべての骨は言います。『主よ、誰があなたのようでしょう。苦しむ者を より強い者から救い、苦しむ者 貧しい者を 略奪者から救う方。」
しかし35篇全体を読むと、どうでしょうか。
詩篇には、作者が最終的に達した思いを、最初に述べたものが少なくありません。例えば、73篇は1節「まことに 神はいつくしみ深い。イスラエルに 心の清らかな人たちに」という言葉で始まります。しかし実は、作者は長く苦しい試練の末に達した結論と境地を最初に述べたのでした。
では、35篇はどうでしょう。1、2節「主よ、私と争う者と争い 私と戦う者と戦ってください。盾と大盾を手に取って 私を助けに来てください」、17節「わが主よ いつまで眺めておられるのですか。私のたましいを彼らの略奪から、私のただ一つのものを 若い獅子から奪い返してください」と、彼を苦しめる者たちからの助けを神に祈り、ほぼ最後までこういう感じが続きます。
とすると、9、10節の神への前向きな信仰の言葉は、どう考えれば良いのでしょうか。
結局、作者は、厳しい試練の続く中、それに完全に絡め取られてしまうことを自分に許さず、主なる神への信仰をここで告白しているのです。辛い状態は尚も続く。ですが、敢えて神に信仰を告白することで、彼は神から離れず、守られ、強められ、やがて試練を乗り越えていった。ですから、この詩篇が残されたのだと思います。
困難な問題の渦中にあって、神に信仰告白をして戦っている様子は、詩篇25:8~10、31:4、15、20~23などにも見られます。これはまた新約聖書にも見られます。使徒16:25は、パウロとシラスがピリピの町で伝道した時、捕えられて鞭打たれ、一番奥の牢に入れられ、足枷までされるという苦痛の中、「真夜中頃、…祈りつつ、神を賛美する歌を歌っていた」と伝えています。「神を賛美する歌」を歌うとは、神の知恵や力、聖、義、愛、真実などをほめ称え、感謝する信仰の告白に他なりません。普通ではない辛さの中、それも真夜中頃、神賛美が出来た二人の信仰に私たちは驚きますが、辛さの中でも必ず存在する神の恵みを覚えて賛美をし、神に信仰を告白することで、一層信仰を強められ、神の力に与り、平安と落ち着きの中で過ごせたとも言えるでしょう。
そう言えば、この先、どうなっていくのか、命すら危険という緊張の続く宗教改革のさ中、多くの信仰の先輩たちは、信条という形で神に信仰告白をしながら、聖書的信仰と聖書的教会の樹立のために戦うことが出来ました。その一例として、殺される危険性のあった厳しい宗教改革運動の中、1563年に作成されたハイデルベルク信仰問答の問1をご一緒に見たいと思います。
問1「生きるにも死ぬにも、あなたのただ一つの慰めは何ですか。」
答「私が私自身のものではなく、体も魂も、生きるにも死ぬにも、私の真実な救い主イエス・キリストのものであることです。
この方は御自分の尊い血をもって、私 の全ての罪を完全に償い、悪魔のあらゆる力から私を解放して下さいました。
また、天にいます私の父の御旨でなければ、髪の毛一本も落ちることができない程に、私を守っていて下さいます。実に万事が私の救いのために働くのです。
そしてまた、御自身の聖霊により私に永遠の命を保証し、今から後(のち)この方のために生きることを心から喜び、またそれにふさわしくなるように、整えても下さるのです。
私自身も今まで何度か辛い試練に遭い、もう駄目かも知れないと思ったこともありました。しかし、無から万物を創造し、古代イスラエル民族をエジプトでの過酷な奴隷状態から救い、強大なアッシリア王の軍から一晩のうちにイスラエルを救い(イザヤ書37:36参照)、何より御子イエスを十字架の死から甦らせられた全知全能の神を、意識的に告白し直しました。そして、いつのまにか問題が過ぎ去っていました。
その時は、聖書や歴史における「試練の中での信仰告白」ということを十分に分っていた訳ではありませんでした。追い込まれ、必死になってそうしただけでした。しかし今、振り返ってみて、そうだったのだと思うのです。
試練の中で信仰を告白することは、無論、簡単ではありません。しかし、聖書が明らかに教えることの一つはこれです。是非、心に留め、聖書も教会の歴史も教えているこの神の知恵とも言える方法を用いることが出来ればと思います。御霊が弱い私たちを、何卒、導いて下さいますように!