教会の目指す姿
- 日付
- 説教
- 田村英典 牧師
- 聖書 エフェソの信徒への手紙 4章11節~16節
4:11 こうして、キリストご自身が、ある人たちを使徒、ある人たちを預言者、ある人たちを伝道者、ある人たちを牧師また教師としてお立てになりました。
4:12 それは、聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストの体を建て上げるためです。
4:13 私たちはみな、神の御子に対する信仰と知識において一つとなり、一人の成熟した大人となって、キリストの満ち満ちた身丈にまで達するのです。
4:14 こうして、私たちはもはや子どもではなく、人の悪巧みや人を欺く悪賢い策略から出た、どんな教えの風にも、吹き回されたり、もてあそばれたりすることがなく、
4:15 むしろ、愛をもって真理を語り、あらゆる天において、かしらであるキリストに向かって成長するのです。
4:16 キリストによって、からだ全体は、あらゆる節々を支えとして組み合わされ、つなぎ合わされ、それぞれの部分がその分に応じて働くことにより成長して、愛のうちに建てられることになります。エフェソの信徒への手紙 4章11節~16節
秋を前にして信仰を振起するための今日の礼拝では、神の御言葉・聖書が教える教会の目指す姿の一つを学びます。
教会の目指す姿を聖書は色々教えています。例えば、この世に対して持つ教会の使命として、主イエスは、マタイ5:13、14で「地の塩、世の光」と言われ、21:13では「祈りの家」と言われました。祈りは教会の使命でもあるのですよね。
しかし今朝、私たちはエペソ4章から幾つかのことを学びたいと思います。
4章に入ってからのテーマは、教会の一致です。使徒パウロは、様々な表現を用いて教会の霊的一致を説いています。
天にある<栄光の教会>に対して、地上にある教会は、昔から<戦闘の教会>と呼ばれて来ました。霊的な戦いのさ中にあるからです。教会自身が不完全ですし、教会を取り巻くこの世が本質的には神に背く罪の世だからです。地上の教会は常に戦闘の教会、苦闘の教会です。
そして、その戦いの一つは、教会内の不一致によるものです。これは紀元1世紀の初代教会時代にもありました。エペソ教会では、意見ややり方が違う信者同士の衝突が見られたのでしょう。そこでパウロは、2節「謙遜と柔和の限りを尽くし、寛容を示し、愛をもって互いに耐え忍び、平和の絆で結ばれて、御霊による一致を熱心に保ちなさい」と教えました。
所が、ここに問題が一つあります。信者夫々の性格や得手不得手の違いです。これが原因で衝突も起ります。一致は大事ですが、皆に夫々異なる点があることも明白な事実です。
そこでパウロは、いわゆる「多様性における一致」を7節以降で教えます。
7節「私たちは一人一人、キリストの賜物の量りに従って恵みを与えられました。」パウロは、夫々の違いを積極的に捉え、それは「キリストの賜物の量り」に従っての違いだと教えます。
信仰と教理における根本的違いは、決定的な溝です。例えば、イエスの十字架の死による罪の赦しの福音を中心とする信仰と、キリスト教的装いをしたヒューマニズムとは、根本的に違います。
しかし、そういう違いではなく、性格や得手不得手の違いは、教会の頭(かしら)イエス・キリストからの賜物の違いである、ということです。不信仰な意見や不作法は元より論外ですが、キリストの血によって贖われた信者同志の色々な違いは、キリストからの賜物の多様性なのです。
私たちはそういう中で霊的一致を計るのですが、心に留めたいことは、11 節が言いますように、教会役員がキリストにより立てられていることです。紀元1世紀のことですので使徒や預言者なども入っていますが、今ならば、牧師や長老などの教会役員のことです。彼らは、信者の賜物の多様性における一致を推進するためにも、イエス・キリストによって立てられているのです。
では、その最終目的は何でしょうか。パウロは、教会をキリストの霊的な体に例えて、12節「キリストの体を建て上げる」と言います。これは教会を真(しん)に教会として形成することです。そうやって、皆が13節「神の御子に対する信仰と知識において一つとなり、一人の成熟した大人となって、キリストの満ち満ちた身丈にまで達」し、16節「体全体は、あらゆる節々(ふしぶし)を支えとして組み合わされ、つなぎ合わされ、夫々の部分がその分に応じて働くことにより成長して、愛の内に建てられることに」なるのです。
体には色々な部分があり、形も機能も違います。しかし、夫々がよく働く時、体は健全に成長します。
体を統括するのは頭(あたま)ですが、教会ではキリストが頭(かしら)として、特に牧師や長老などを通して統括されます。その最終目的は、キリストの体である教会全体が健全に成長し、神の栄光が表されることですが、それは同時に、色々な賜物を与えられている信者一人一人も13節「神の御子に対する信仰と知識において一つとなり、一人の成熟した大人となって、キリストの満ち満ちた身丈にまで達」し、祝福に与ることになるのです。
「多様性における一致」を絶えず教会が目指すのは、この目的のためであり、そのためにキリストは教会役員を置かれました。教会員の選挙を通して、キリスト御自身が彼らを任命されるのです。
そこで、この一致した霊的成長と完成のために、続いて具体的な点を三つ学びます。
第一は学びです。13節に「神の御子に対する信仰と知識において一つとなり」とあります。信仰も人格も、知識がありませんと健全に成長しません。ですから、使徒ペテロはⅡペテロ3:18で「私たちの主であり救い主であるイエス・キリストの恵みと知識において成長しなさい」と命じます。
そこで、クリスチャンは皆、常に、礼拝や聖書研究・祈祷会は勿論、教会の諸集会を通して、神の御子イエスを学び続けるのです。皆が13節「神の御子に対する信仰と知識において一つ」となるためです。
学びには実際的な益もあります。
イエス・キリストを知れば知る程、神の素晴らしさが分り、私たちは確信や勇気、希望、平安を増し与えられます。
それと、14節「人の悪巧みや人を欺く悪賢い策略から出た、どんな教えの風にも吹き回されたり、弄ばれたりすること」もなくなります。聖書と教理をよく知れば知る程、何が神から来たものであり、何がそうでないかを、よく識別出来ます。ですから、皆で学び続け、イエス・キリストの恵みと知識において、絶えず成長したいと思います。
第二は奉仕です。キリストが教会役員を立てられた目的の一つとして、12節「聖徒を整えて奉仕の働きをさせ」とある通りです。
無論、皆が同じ奉仕を、同じだけ出来るのではありません。しかし、必ず一人一人にイエス・キリストから賜物を与えられ、マタイ25章の表現を使うならば、「タラント」を与えられています。力仕事、細かい作業、音楽、文章、語る事や祈りの賜物の人もいます。
大切なことは、16節「夫々の部分がその分に応じて」働くことです。もし右手が「自分は特別だから、こんなことはしない」と言って、何もしなければ、必ず負担が左手にかかり、ひいては体全体に負担が及びます。しかし、右手が分に応じて働けば、他の部分を助け、体全体が健康を保ち、右手自身も力や機能を増します。
同じように、信者も自分に与えられている賜物を捧げることで、教会全体が活性化し、自分自身も霊的に成長し、祝福されます。一部の人にだけ負担がかかるのではなく、愛する主イエス・キリストの御体(みからだ)が造り上げられるために、皆が計画的に時間を捧げ、積極的に自分を献げる。そのような教会を、是非、皆で目指したいと思います。
最後、三つ目は交わりです。15節に「愛をもって真理を語り」とあり、16節には「キリストによって、体全体は、あらゆる節々(ふしぶし)を支えとして組み合わされ、つなぎ合わされ、夫々の部分がその分に応じて働くことにより成長して、愛の内に建てられる」とあります。これは、交わりなしにはあり得ません。学びも奉仕も、教会では常に交わりの中でのものです。
交わりは、ギリシア語では「コイノーニア」と言います。これは「何かを分かち合う」、「共有する」というのが元々の意味です。教会の交わりは、根本的にはイエス・キリストの様々な恵みを分かち合うためのものなのです。
そしてピリピ1:29は「キリストを信じることだけでなく、キリストのために苦しむこと」をも、恵みとして私たちは賜っていると言います。また、ローマ12:15には 「喜んでいる者たちと共に喜び、泣いている者たちと共に泣きなさい」とあります。喜びも悲しみも、お互いの交わりの中で、しかも主イエスの福音の真理と光の中で分かち合い、主にある愛によって支え合い、祈り合い、固く結び合わされて行く。
こうしてエペソ4:13「私たちは皆、神の御子に対する信仰と知識において一つのものとなり、一人の成熟した大人となって、キリストの満ち溢れる身丈にまで達する」のです。
振起礼拝の今朝、私たちは、第一に、賜物の多様性を互いに再度認識し、第二に、学びと奉仕と交わりにおいて霊的一致と成長をハッキリ目指し、そのために、特に助け合いの言葉がいつも行き交う教会でありたいと思います。