2024年08月29日「試練13 喪失の意味」
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試練13 喪失の意味
- 日付
- 説教
- 田村英典 牧師
- 聖書
ヨブ記 1章20節~22節
聖書の言葉
1:20 このとき、ヨブは立ち上がって上着を引き裂き、頭を剃り、地にひれ伏して礼拝し、
1:21 そして言った。
「私は裸で母の胎から出て来た。
また裸でかしこに帰ろう。
主は与え、主は取られる。
主の御名はほむべきかな。」
1:22 呼ぶはこれらすべてのことにおいても、罪に陥ることなく、神に対して愚痴をこぼすようなことはしなかった。ヨブ記 1章20節~22節
メッセージ
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試練についてのお話の今日13回目は、喪失の意味について考え、学びたいと思います。
私たちの人生には、仕事や勉強、色々な活動や人との出会いを通じて、物質的・外面的にも精神的・内面的にも自分を豊かにされる面がある一方で、自分の大切なものを失い、自分という存在そのものが削られ、失われていくような辛い面もあると思います。これも何と大きな試練でしょうか。
失う辛さや痛みを味わった信仰者を、聖書は、多くはありませんが伝えています。詩篇73の作者は言います。14節「私は休みなく打たれ、朝ごとに懲らしめを受けた。」真面目な信仰者であったこの詩篇作者は、ある時からうまく行かなくなりました。病気で健康を失ったようです。またそれに伴い、自信や誇りも失うなど、辛い体験をしました。「朝ごとに懲らしめを受けた」とまで言うのですから、信仰的にも相当試みられました。幸いにも、神の憐れみにより、この人は立ち直ることができました。
ヨブもそうでした。ある日、ヨブは、牛、ろば、羊や羊飼い、らくだや牧童たちを次々失い、更に息子と娘10人も一挙に失いました。これはどんなに大きな打撃だったでしょうか。自分自身の一部を失った程の痛みであり、言葉にできない程の喪失感を味わったと思います。しかし彼は、先程お読みしましたように、21節「私は裸で母の胎を出て来た。また裸でかしこに帰ろう。主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな」と言いました。つまり、「元々、自分は何も待たずに裸で生れてきた。何もない私が本来の私だ。だから、一時貸して下さっていたものを、主はまた取られたのだ」と言うのでした。
この時のこういうヨブの信仰を思いますと、スイスの法律家でクリスチャンの哲学者であったカール・ヒルティが、著書『幸福論』の中でこう述べたこともよく分ります。
「何事につけても、自分はそれを失ったと言ってはならない。自分はそれを返したと言うべきである。」
無論、神にお返ししたという意味です。失ってしまったというより、神にお返ししたと考えると、何か区切りというか、整理がつくように思われます。
それともう一つ、私たちにとって辛い喪失の痛みには、今まで見えず、聞こえず、気付かなかったより大切なものに、新たに気付かされるという恵みもあるのではないでしょうか。これも失うこと、喪失という試練に神が与えておられる大切な意味ではないかと思います。
2005年4月25日、死者107名、重軽傷者562名を出したJR福知山線脱線事故で奇跡的に助かった女性の一人が、こんな詩を書いておられます。
「あの日 右脚を犠牲にして 私が 知りえたもの それは かけがえのない 命の大切さである あの日 左腕を 犠牲にして 私が 触れえたもの それは 助け合える 人の 優しさであ る」
24歳の時、中学校の体育教師をし、器械体操の模範演技をしていた時に失敗し、一瞬にして首から下の機能を全て失い、今年の4月に78歳で天に召された星野富弘さんは、こんな詩を書いておられます。
「命が一番大切だと思っていた頃、生きるのが苦しかった。
命より大切なものがあると知った日、生きているのが嬉しかった。」
首から下の機能を全部失うという大変な試練を通じ、星野さんは命より大切な永遠の神とその愛を知ることができたのでした。
先程のヨブ記に関連して、浅野順一牧師は著書『ヨブ記』の中でこう書いておられます。「人間一人一人の生活や心の中には、大なり小なり穴の如きものが開いており、その穴から冷たい隙間風が吹き込んでくる。…その穴を埋め、隙間風が入り込まないようにすることも大事である。…しかし同時にその穴から何が見えるか、ということがもっと大事なことではないであろうか。穴の開いていない時に見えないものが、その穴を通して見える。…どんなに苦しいこと、辛いこと、いやなことがあってもそれを通して、健康な時、幸福な時、平安な時には解らなかったことが解り、知られなかったことを知るようになる。」
こうも書いておられます。「神は我々に真実なもの、永遠なるものを与えんとして、空虚なもの、過ぎ去るものを奪うことがあるのではないか。地位、名誉、財産、学識、健康、そのような人間の地上生活に必要なるもの、従って必ず我々に付きまとって来るものが無残に奪い去られることによって、かえって永遠の世界、真実の世界に目を開かれるのではないか。」
大切な物や大切な人を失い奪われるという試練に遭う時、私たちも主から与えられた信仰により、痛みの中から、真に尊い永遠的なものに少しでも目を開かれたらと思います。