聖書の言葉 12:28 神を愛する人たち、すなわち、神の御計画に従って召された人たちのためには、全てのことが共に働いて益となる…ローマの信徒への手紙 8章28節 メッセージ 試練についての学びの今日12回目は、神の御心(みこころ)が分らないという試練について考えたいと思います。 ヨブ記の伝えるヨブは、神の御心が分らない辛さを体験しました。自分に思い当る何か罪深いことがあるならともかく、厳しい試練の中、彼を最も困惑させたのは、神の御心が分らないことでした。 またⅡ列王記4章は、ガリラヤ湖から南西2、30kmの所にあるシュネムの一婦人のことを伝えています。子供がなく、彼女の夫は既に歳を取っていました。良くしてくれる彼女に、預言者エリシャは16節「来年の今頃、あなたは男の子を抱くようになる」と言いました。その通り、彼女は妊娠し、翌年、男の子が生れました。どんなに嬉しかったことでしょう。 しかし、大きくなったその子がある日、刈入れをする父親の所へ行きますと、激しい頭痛が起り、従者に抱かれて急いで家に戻り、母親の膝に寝ていたのですが、昼頃死にました。 彼女は急いでロバに鞍を置き、シュネムから北西へ2、30km離れたカルメル山にいるエリシャの許(もと)へ行き、訴えました。28節「私がご主人様に子供を求めたでしょうか。この私にそんな気休めを言わないで下さいと申し上げたではありませんか。」与えられた喜びが大きければ大きい程、それを失うと、つい人や神に恨みを抱く。これは人間の身勝手ですが、私たちにはそういうところがないでしょうか。その時、神の御心が分らず、信仰を激しく試みられ、神から離れる人もいます。大きな試練なのです。 ヨハネ福音書の11章は、マルタとマリアの兄弟ラザロが死んだ時のことを伝えています。ラザロの病気を伝えたのに、イエスは来られず、ラザロは死にました。死んで4日目に、漸くイエスは彼女たちの所に来られました。マルタは21節「主よ、もしここにいて下さったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに」と言いました。口にした言葉は穏やかですが、心の中には「主はラザロを愛しておられたのに、何故すぐ来て下さらなかったのか」という恨みがましい思いがあったとしても変ではないと思います。 神の御心が分らない。何故こんな悲しいこと、ひどいこと、一番起ってほしくないことが起ったのか。何故神は何もして下さらないのか。 もう大分前になりますが、当時、働いていました淀川キリスト教病院のホスピスで私がお世話をした婦人が受洗され、亡くなりました。その時、ご主人は小声で「惨い(むごい)なぁ、神様は」と言われました。信者でない人なら、こういう言葉も出て来るでしょう。しかし、クリスチャンであっても心中は複雑だと思います。信仰そのものが激しく試みられます。 幸い、ヨブは神に平伏し、再び回復され、神の栄光を仰ぐことが出来ました。シュネムの婦人も、またマルタとマリアも、神の憐れみにより、愛する者を生き返らせられました。 しかし、聖書が書かれた特別啓示の時代が終った後、通常、奇跡はありません。現代に生きる私たちに大変な試練が襲い、しかも神の御心が分らないという点でも非常に辛い試練が起った時、私たちはどうすれば良いのでしょうか。 これは難しい問題です。ただ、少なくとも、ヨブ、マルタ、マリアは、起ってしまったことを受け入れています。何故、神はこんな悲しいことが起るのをお許しになったのか。今、その理由の全部が分らなくても、起ってしまった現実を受け入れています。神信仰の優れた点の一つは、そこだと思います。信仰にはそれが可能なのだと思います。 米国の神学者ラインホールド・ニーバーが、マサチューセッツ州西部の山村の小さな教会で1943年夏に説教した時の「静穏の祈り」と呼ばれる祈りを思います。 「神よ、変えることのできるものについて、それを変えるだけの勇気を我らに与え給え。 変えることのできないものについては、それを受け入れるだけの冷静さを与え給え。 そして、変えることのできるものと、変えることのできないものとを、識別する知恵を与え給え。」 特に真中の「変えることのできないものについては、それを受け入れるだけの冷静さを与え給え」という所が、御子を賜った程に私たちを愛して下さっている生ける真(まこと)の神を信じるキリスト教信仰の特徴と言えるでしょう。 神の御心が全部分るなら、困難の中でも頑張って前進していける、というのではありません。そういうことは、現実には極稀(ごく まれ)です。全部は分りません。けれども、冷静に現実を受け入れ、と同時にローマ8:28の御言葉、「神を愛する人たち、すなわち、神の御計画に従って召された人たちのためには、全てのことが共に働いて益となる」を信じ、神を自分が本当に愛しているかどうかを真摯に問い、そこに思いを集中しつつ、最終的には「御心がなりますように」と仲保者、主イエス・キリストに委ねていきたいと思います。 関連する説教を探す 2024年の祈祷会 『ローマの信徒への手紙』
試練についての学びの今日12回目は、神の御心(みこころ)が分らないという試練について考えたいと思います。
ヨブ記の伝えるヨブは、神の御心が分らない辛さを体験しました。自分に思い当る何か罪深いことがあるならともかく、厳しい試練の中、彼を最も困惑させたのは、神の御心が分らないことでした。
またⅡ列王記4章は、ガリラヤ湖から南西2、30kmの所にあるシュネムの一婦人のことを伝えています。子供がなく、彼女の夫は既に歳を取っていました。良くしてくれる彼女に、預言者エリシャは16節「来年の今頃、あなたは男の子を抱くようになる」と言いました。その通り、彼女は妊娠し、翌年、男の子が生れました。どんなに嬉しかったことでしょう。
しかし、大きくなったその子がある日、刈入れをする父親の所へ行きますと、激しい頭痛が起り、従者に抱かれて急いで家に戻り、母親の膝に寝ていたのですが、昼頃死にました。
彼女は急いでロバに鞍を置き、シュネムから北西へ2、30km離れたカルメル山にいるエリシャの許(もと)へ行き、訴えました。28節「私がご主人様に子供を求めたでしょうか。この私にそんな気休めを言わないで下さいと申し上げたではありませんか。」与えられた喜びが大きければ大きい程、それを失うと、つい人や神に恨みを抱く。これは人間の身勝手ですが、私たちにはそういうところがないでしょうか。その時、神の御心が分らず、信仰を激しく試みられ、神から離れる人もいます。大きな試練なのです。
ヨハネ福音書の11章は、マルタとマリアの兄弟ラザロが死んだ時のことを伝えています。ラザロの病気を伝えたのに、イエスは来られず、ラザロは死にました。死んで4日目に、漸くイエスは彼女たちの所に来られました。マルタは21節「主よ、もしここにいて下さったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに」と言いました。口にした言葉は穏やかですが、心の中には「主はラザロを愛しておられたのに、何故すぐ来て下さらなかったのか」という恨みがましい思いがあったとしても変ではないと思います。
神の御心が分らない。何故こんな悲しいこと、ひどいこと、一番起ってほしくないことが起ったのか。何故神は何もして下さらないのか。
もう大分前になりますが、当時、働いていました淀川キリスト教病院のホスピスで私がお世話をした婦人が受洗され、亡くなりました。その時、ご主人は小声で「惨い(むごい)なぁ、神様は」と言われました。信者でない人なら、こういう言葉も出て来るでしょう。しかし、クリスチャンであっても心中は複雑だと思います。信仰そのものが激しく試みられます。
幸い、ヨブは神に平伏し、再び回復され、神の栄光を仰ぐことが出来ました。シュネムの婦人も、またマルタとマリアも、神の憐れみにより、愛する者を生き返らせられました。
しかし、聖書が書かれた特別啓示の時代が終った後、通常、奇跡はありません。現代に生きる私たちに大変な試練が襲い、しかも神の御心が分らないという点でも非常に辛い試練が起った時、私たちはどうすれば良いのでしょうか。
これは難しい問題です。ただ、少なくとも、ヨブ、マルタ、マリアは、起ってしまったことを受け入れています。何故、神はこんな悲しいことが起るのをお許しになったのか。今、その理由の全部が分らなくても、起ってしまった現実を受け入れています。神信仰の優れた点の一つは、そこだと思います。信仰にはそれが可能なのだと思います。
米国の神学者ラインホールド・ニーバーが、マサチューセッツ州西部の山村の小さな教会で1943年夏に説教した時の「静穏の祈り」と呼ばれる祈りを思います。
「神よ、変えることのできるものについて、それを変えるだけの勇気を我らに与え給え。
変えることのできないものについては、それを受け入れるだけの冷静さを与え給え。
そして、変えることのできるものと、変えることのできないものとを、識別する知恵を与え給え。」
特に真中の「変えることのできないものについては、それを受け入れるだけの冷静さを与え給え」という所が、御子を賜った程に私たちを愛して下さっている生ける真(まこと)の神を信じるキリスト教信仰の特徴と言えるでしょう。
神の御心が全部分るなら、困難の中でも頑張って前進していける、というのではありません。そういうことは、現実には極稀(ごく まれ)です。全部は分りません。けれども、冷静に現実を受け入れ、と同時にローマ8:28の御言葉、「神を愛する人たち、すなわち、神の御計画に従って召された人たちのためには、全てのことが共に働いて益となる」を信じ、神を自分が本当に愛しているかどうかを真摯に問い、そこに思いを集中しつつ、最終的には「御心がなりますように」と仲保者、主イエス・キリストに委ねていきたいと思います。