2020年08月16日「クリスチャンの義」

問い合わせ

日本キリスト改革派 岡山西教会のホームページへ戻る

聖句のアイコン聖書の言葉

5:17 わたしが律法や預言者を廃棄するために来た、と思ってはなりません。廃棄するためにではなく成就するために来たのです。
5:18 まことに、あなたがたに言います。天地が消え去るまで、律法の一点一画も決して消え去ることはありません。すべてが実現します。
5:19 ですから、これらの戒めの最も小さいものを一つでも破り、また破るように人々に教える者は、天の御国で、最も小さい者と呼ばれます。しかし、それを行い、また行うように教える者は天の御国で偉大な者と呼ばれます。
5:20 わたしはあなたがたに言います。あなたがたの義が、律法学者やパリサイ人の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の御国に入れません。
    (新改訳聖書 2017年度版)マタイによる福音書 5章17節~20節

原稿のアイコンメッセージ

 かつてイエスは弟子たちに、いわゆる山上の説教をされました。5:3からです。今朝は5:17~20を見ます。17節「私が律法や預言者を廃棄するために来た、と思ってはなりません。廃棄するためではなく成就するために来たのです。」

 「律法や預言者」とは、普通は旧約聖書全体を指しますが、18、19節に「律法」や「戒め」とありますので、ここでは神が人に与えられた特に律法の部分を指すのでしょう。

 律法には三つの内容があります。宗教儀式に関わる祭儀律法、社会生活に関わる市民律法、十戒を代表とする道徳律法で、ここは道徳律法のことです。

 ところで、17~20節のイエスの言葉は結構強いと思います。何故イエスはここで律法を取り上げ、それも強く語られるのでしょうか。直前の13~16節と関係があります。

 

 当時のユダヤ人の多くは、自分の救いには熱心でも、全ての人に真(まこと)の神とその救いの愛を伝え、神と全世界の人に仕えるという神の民としての使命を忘れていました。弟子たちもそういう中で育ちましたので、イエスは13~16節で「あなた方は地の塩…あなた方は世の光」だと述べ、新しい神の民であるクリスチャンの使命を確認されたのでした。

 

 今朝の箇所は16節の「あなた方の光を人々の前に輝かせなさい。人々があなた方の良い行いを見て、天におられるあなた方の父を崇めるようになるため」とあるその良い行いについて教えます。つまり、クリスチャンの良い行いとは、神の律法、戒めを尊び、これに生きることです。そしてこの点を強調するためにイエスは言われます。17節「私が律法や預言者を廃棄するために来た、と思ってはなりません。廃棄するためではなく成就するために来た」と。

 では、律法を成就するとは、どういうことでしょうか。一つは、イエスが自ら律法を完成されることです。つまり、イエスが私たちの罪を全部背負い、十字架で命を献げ、罪を断罪する律法の要求を満たすことです。キリストの消極的服従と呼ばれるものですね。それと、私たちには決して完全に守れない律法を、イエスが私たちに代って完璧に守られることです。キリストの積極的服従ですね。こうして、イエスご自身が律法を全うされることが、一つの意味です。

 しかし、もう一つ意味があります。それは、<私たち信仰者を通して>イエスが律法を全うされることです。クリスチャンが神の律法を愛し、清い戒めに良く生きることを通して、イエスが律法を成就される。17節はあとの方の意味です。

 罪人の私たちに神の律法を全うする力はありません。私たちはクリスチャンになっても罪を犯しています。しかし、こんな私たちをなおも愛し、御霊(みたま)を私たちに遣わし、力付け、その私たちの良い業(わざ)により律法を満たすため、イエスは世に来られたのです。17節「私が律法や預言者を廃棄するために来た、と思ってはなりません。廃棄するためではなく成就するために来たのです。」イエスは、律法に従う人生を私たちに歩ませ、神を証しさせ、そうして多くの人が救われ神を崇めるようになるために私たちを用いられます。また私たちが喜んで律法に生きることで、私たち自身をも一層神に喜ばれる者へと清め、祝福されます。ここに、そのままでは永遠の滅びと悲惨に至る全人類への主イエスの熱いばかりの愛があります。

 そこで、イエスは、私たちが律法に生きる上で、大事な注意を三つお与えになります。

 第一は、律法の<全体>を尊び生きることです。18、19節「まことに、あなた方に言います。天地が消え去るまで、律法の一点一画も決して消え去ることはありません。全てが実現します。ですから、これらの戒めの最も小さいものを一つでも破り、また破るように人々に教える者は、天の御国で最も小さい者と呼ばれます。しかし、それを行い、また行うように教える者は天の御国で偉大な者と呼ばれます。」

 「一点一画」とあります。旧約聖書のヘブル語の22文字の中で、一番小さくて簡単な文字は点のようであり、次に簡単な文字は角(かく)のようです。要するに、律法の中のどんなに小さいと思える戒めでも、決して軽んじてはならず、律法の全体を尊ぶべきだということです。

 イエスがこういう注意をされたのには、わけがあります。当時、あるラビ(教師、先生)は、律法は613個あり、その内248個は積極的で、365個は消極的としました。別のラビは、申命記22:6の「たまたま道で木の上か地面に鳥の巣を見つけ、それにひなか卵があり、母鳥がひなか卵を抱いている場合、その母鳥を子と一緒に捕ってはならない」を最も小さい掟とし、つまり、あまり守る必要がないと考え、律法<全体>への意識が希薄でした。

 また当時のユダヤ教指導者たちの姿勢も問題でした。マルコ7:8でイエスは「あなた方は神の戒めを捨てて、人間の言い伝えを堅く守っている」と言い、「あなたの父と母を敬え」という戒めを軽んじる彼らの不信仰を指摘されます。つまり、律法に抜け道、抜け穴を作る不信仰をイエスは禁じ、律法全体を尊ぶべきことをお教えになります。申命記4:2でモーセは言いました。「私があなた方に命じる言葉につけ加えてはならない。また減らしてはならない。」Ⅱテモテ3:16、17は「聖書は<全て>神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練のために有益」で、「神の人が<全て>の良い働きに相応しく、十分に整えられた者となる」と言います。

 神の戒め、御言葉の中の自分好みの一部だけではなく、全部を大切にしたいと思います。すると、神の素晴らしさが一層良く表され、私たちも必ず豊かに祝福され、整えられた者とされるでしょう。

 第二は、律法に従うクリスチャンの良い行いは、神への感謝と喜びから出る自発的なものであるべきだということです。20節「私はあなた方に言います。あなた方の義が、律法学者やパリサイ人の義にまさっていなければ、あなた方は決して天の御国に入れません。」

 当時の宗教指導者である律法学者やパリサイ人は、律法に抜け穴を作り、律法全体を守らなかっただけでなく、慈善や施しなどの良い行いを、永遠の救いに入るための救いの手段としました。行いによる救いという考え方です。そこで、彼らは善行に励み、沢山の細則を作っては、民衆にもそれを求めました。

 しかし、人はただ信仰によって救われ、義とされるのであり、決して行いによりません。創世記15:6はこう述べていました。「アブラハムは主を信じた。それで、それが彼の義と認められた。」エペソ2:8、9は言います。「この恵みの故に、あなた方は信仰によって救われたのです。それはあなた方から出たことではなく、神の賜物です。行いによるのではありません。誰も誇ることのないためです。」

 救いは、神の御子イエス・キリストへのただただ信仰によります。クリスチャンが律法を尊び良い業に励むのは、この神への感謝と喜びからに他なりません。

 20節の「義」という言葉には、救いを得る資格という意味と、清い生活や良い業の意味もありますが、ここではあとの方の意味です。そしてクリスチャンの義は、律法学者やパリサイ人の義とは根本的に性質が違います。救いを得るための交換条件や取引のような義とは根本的に異なり、はるかにまさった、すなわち、信仰により神から与えられる永遠の救いへの心からの感謝と喜びからの自発的行いであり義なのです。

 第三に、律法を守り良い業(わざ)を行うクリスチャンの義は、決して偽善的であってはなりません。前にも申しましたが、パリサイ人の良い行いは、しばしば偽善的でした。イエスは言われます。マタイ6:1「人に見せるために人前で善行をしないように気をつけなさい。そうでないと、天におられるあなた方の父から報いを受けられません。」

 偽善的な義とは何でしょうか。神が崇められるためではなく、<自分>が人に注目され、<自分>が崇められることが目的であることです。しかし、クリスチャンの義の目的は決してそうであってはなりません。あくまで神の栄光のためであり、隣人の魂の救いと彼らによる神賛美に仕えることが目的です。

 そして、自分が注目され、自分が褒められることが目的の偽善的な行いや奉仕の大きな問題点は、それが人間だけでなく、神をも欺く行為であることです。ですから、イエスは厳しく言われます。20節「私はあなた方に言います。あなた方の義が、律法学者やパリサイ人の義にまさっていなければ、あなた方は決して天の御国に入れません。」事実、のちに使徒の働き5章が伝えますように、初代教会のアナニアとサッピラ夫妻は、偽善的な行為のために神に裁かれました。

 当時のパリサイ人だけでなく、誰もが陥りやすい偽善の罪の危険性を主がお教え下さったことは、本当に感謝だと思います。私たちの信仰を根本から正されるからです。

 今朝は、地の塩、世の光として世に置かれているクリスチャンが、第一に、神の戒め・律法の全体を重んじ、それに生きることの大切さ、第二に、神への感謝と喜び、また人への真実な愛から出る自発的な良い行いとしての義の大切さ、第三に、決して偽善的にではなく、隣人の救いと彼らによる神賛美に仕えるという目的でなされるクリスチャンの義の大切さを学びました。

 主は、私たちを愛するが故に、私たちを守り、成長させ、また私たちを通して神の愛と救いが更に多くの人に広がることを熱く願っておられます。

 神の御言葉、その清い律法と戒めに喜びと感謝をもって、日毎に私たちが生きることが出来ますように!主が恵みと慈しみをもって、弱い私たち一人一人を大いに励まして下さいますように!アーメン

関連する説教を探す関連する説教を探す