聖書の言葉 130:5 私は主を待ち望みます。私の魂は待ち望みます。主の御言葉を私は待ちます。130:6 私の魂は、夜回りが夜明けを、まことに夜回りが夜明けを待つのにまさって、主を待ち望みます。詩編 130篇5節~6節 メッセージ 試練について学んでいます。今日の10回目は、信仰による希望という点を学びます。 詩篇130は、1、2節「主よ、深い淵から私はあなたを呼び求めます。 /主よ、私の声を聞いて下さい。私の願いの声に耳を傾けて下さい」と悲痛な叫びから始まります。「深い淵から」とあります。作者は絶望的な状況にいました。 ところで、3、4節では罪と赦しへの期待があり、7、8節では自分の属するイスラエルの民への呼び掛けもあります。作者は、古代イスラエルにおいて、多分、責任ある立場の人だったのでしょう。神の民とされたイスラエルの罪が招いた神の刑罰故の苦悩を、自分にも責任のある痛みとして受け止め、かつ、皆の叫びをも代弁して1、2節を書いたようです。 ここに私たちは、教会や社会が苦しんでいる時、自分だけをその苦悩や原因となった罪と無関係な者として外に置くことはできないことを教えられます。自分のこととして受け止め、皆と共に、また皆に代って神に叫び祈り、問題解決に努める者でありたいと思います。 ところで、今日、特に注目したいのは、絶望的な状況で作者が、尚、希望を抱いていることです。5、6節「私は主を待ち望みます。私の魂は待ち望みます。主の御言葉を私は待ちます。 /私の魂は、夜回りが夜明けを、まことに夜回りが夜明けを待つのにまさって、主を待ち望みます。」 ここにとても大切なことを教えられます。それは、現在の状態だけを見るなら、深い淵の中にいるようで、これから先、何もいいことを期待できそうもない絶望的な状況でも、私たちは神に希望を持って良いことです。クリスチャンの特権の一つは、どんな状況であれ、イエス・キリストの故に、全知全能の父なる神の前に希望を持って良く、持つことを許されていることです。 私たちに分る情報だけを見るなら、将来的に良くなる期待は一つも持てないようなことが、時としてあります。しかし、何も良いことなど起きず、期待出来ない、と最初からガックリ絶望してしまったならば、そこで私たちは本当に終ってしまいます。 アウシュビッツ強制収容所での過酷な体験を生き抜いたV.フランクルは、著書『夜と霧』の中で、多くの中産階級のユダヤ人がガス室へ送られる前に死んでしまったことに触れ、その理由として、彼らが早々と希望を失ってしまったことを挙げています。 逆に、人間の考えからはどんなに絶望的と思われても、尚、希望を抱くことを忘れなかった人たちの多くが、あの残酷で地獄のような苦難、試練を乗り越え、生き抜いたと述べています。「もう駄目だ」と自分で頭から決めてかかり、諦めて希望を持つことを断念するのと、「いや、そうではない。神に期待し、神故に希望を失わないでおこう」と考え、意識的に希望を持つのとでは、大きな違いがあるのです。 アウシュビッツを生き抜いたポーランド人のスタシャックという人もこう述べています。「人間は鋼鉄のように強い神経を持っています。その神経に絶えず希望という小川が流れている限り、人間は耐えられるのです」と。 現実は非常に困難でも、尚、希望を持つことを忘れず、持ってみようと考え、実際に希望を持つことの大切さ、素晴らしさがよく分ると思います。 実は、信仰の父と呼ばれるアブラハムの最も大きな特徴も、信仰故の希望を忘れなかったことでした。ローマ書4:17、18は、アブラハムについてこう述べています。「…彼は、死者を生かし、無いものを有るものとして召される神を信じ、その御前(みまえ)で父となったのです。彼は望み得ない時に望みを抱いて信じ、『あなたの子孫は、このようになる』と言われていた通り、多くの国民の父となりました。」 常識的には希望を持てなくても、私たちは、無から有を生じさせ、死者を復活させることのお出来になる天地の造り主、生ける真(まこと)の神を知っており、絶望的な状況でも希望を持って良く、そうすることを励まされているのです。 しかし、希望を持つと、それが駄目だった時の落胆が大きいので、最初から望まない方が楽だという考えもあります。主イエスはどうであられたでしょうか。主は十字架の前夜、「父よ、御心なら、この杯を私から取り去って下さい」と祈られました。しかし、続けて「私の願いではなく、御心がなりますように」と祈り、最終的には天の父に委ねられました。この点があれば、極端な落胆もなく、仮に希望が叶えられなくても、これも神の御心だったのだと、受け入れられるのだと思います。 希望を捨てるなら、その時点で、事は終ります。しかし、神故に希望を持ってみますと、実際、元気も湧いて来ます。どちらを選ぶかは、私たち自身にかかっています。この特権を用い、希望を持ち、その時に自分の出来ることをして行きたいと思います。 関連する説教を探す 2024年の祈祷会 『詩編』
試練について学んでいます。今日の10回目は、信仰による希望という点を学びます。
詩篇130は、1、2節「主よ、深い淵から私はあなたを呼び求めます。 /主よ、私の声を聞いて下さい。私の願いの声に耳を傾けて下さい」と悲痛な叫びから始まります。「深い淵から」とあります。作者は絶望的な状況にいました。
ところで、3、4節では罪と赦しへの期待があり、7、8節では自分の属するイスラエルの民への呼び掛けもあります。作者は、古代イスラエルにおいて、多分、責任ある立場の人だったのでしょう。神の民とされたイスラエルの罪が招いた神の刑罰故の苦悩を、自分にも責任のある痛みとして受け止め、かつ、皆の叫びをも代弁して1、2節を書いたようです。
ここに私たちは、教会や社会が苦しんでいる時、自分だけをその苦悩や原因となった罪と無関係な者として外に置くことはできないことを教えられます。自分のこととして受け止め、皆と共に、また皆に代って神に叫び祈り、問題解決に努める者でありたいと思います。
ところで、今日、特に注目したいのは、絶望的な状況で作者が、尚、希望を抱いていることです。5、6節「私は主を待ち望みます。私の魂は待ち望みます。主の御言葉を私は待ちます。 /私の魂は、夜回りが夜明けを、まことに夜回りが夜明けを待つのにまさって、主を待ち望みます。」
ここにとても大切なことを教えられます。それは、現在の状態だけを見るなら、深い淵の中にいるようで、これから先、何もいいことを期待できそうもない絶望的な状況でも、私たちは神に希望を持って良いことです。クリスチャンの特権の一つは、どんな状況であれ、イエス・キリストの故に、全知全能の父なる神の前に希望を持って良く、持つことを許されていることです。
私たちに分る情報だけを見るなら、将来的に良くなる期待は一つも持てないようなことが、時としてあります。しかし、何も良いことなど起きず、期待出来ない、と最初からガックリ絶望してしまったならば、そこで私たちは本当に終ってしまいます。
アウシュビッツ強制収容所での過酷な体験を生き抜いたV.フランクルは、著書『夜と霧』の中で、多くの中産階級のユダヤ人がガス室へ送られる前に死んでしまったことに触れ、その理由として、彼らが早々と希望を失ってしまったことを挙げています。
逆に、人間の考えからはどんなに絶望的と思われても、尚、希望を抱くことを忘れなかった人たちの多くが、あの残酷で地獄のような苦難、試練を乗り越え、生き抜いたと述べています。「もう駄目だ」と自分で頭から決めてかかり、諦めて希望を持つことを断念するのと、「いや、そうではない。神に期待し、神故に希望を失わないでおこう」と考え、意識的に希望を持つのとでは、大きな違いがあるのです。
アウシュビッツを生き抜いたポーランド人のスタシャックという人もこう述べています。「人間は鋼鉄のように強い神経を持っています。その神経に絶えず希望という小川が流れている限り、人間は耐えられるのです」と。
現実は非常に困難でも、尚、希望を持つことを忘れず、持ってみようと考え、実際に希望を持つことの大切さ、素晴らしさがよく分ると思います。
実は、信仰の父と呼ばれるアブラハムの最も大きな特徴も、信仰故の希望を忘れなかったことでした。ローマ書4:17、18は、アブラハムについてこう述べています。「…彼は、死者を生かし、無いものを有るものとして召される神を信じ、その御前(みまえ)で父となったのです。彼は望み得ない時に望みを抱いて信じ、『あなたの子孫は、このようになる』と言われていた通り、多くの国民の父となりました。」
常識的には希望を持てなくても、私たちは、無から有を生じさせ、死者を復活させることのお出来になる天地の造り主、生ける真(まこと)の神を知っており、絶望的な状況でも希望を持って良く、そうすることを励まされているのです。
しかし、希望を持つと、それが駄目だった時の落胆が大きいので、最初から望まない方が楽だという考えもあります。主イエスはどうであられたでしょうか。主は十字架の前夜、「父よ、御心なら、この杯を私から取り去って下さい」と祈られました。しかし、続けて「私の願いではなく、御心がなりますように」と祈り、最終的には天の父に委ねられました。この点があれば、極端な落胆もなく、仮に希望が叶えられなくても、これも神の御心だったのだと、受け入れられるのだと思います。
希望を捨てるなら、その時点で、事は終ります。しかし、神故に希望を持ってみますと、実際、元気も湧いて来ます。どちらを選ぶかは、私たち自身にかかっています。この特権を用い、希望を持ち、その時に自分の出来ることをして行きたいと思います。