2024年08月01日「試練 9 信仰による主体性」
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試練 9 信仰による主体性
- 日付
- 説教
- 田村英典 牧師
- 聖書
哀歌 3章28節~33節
聖書の言葉
3:28 それを(=くびき 27節参照)を負わされたなら、ひとり静まって座っていよ。
3:29 口を土の塵につけよ。もしかすると希望があるかも知れない。
3:30 自分を打つ者には頬を向け、十分に恥辱を受けよ。
3:31 主は、いつまでも見放してはおられない。
3:32 主は、たとえ悲しみを与えたとしても、その豊かな恵みによって、人を憐れまれる。
3:33 主が人の子らを、意味もなく、苦しめ悩ませることはない。哀歌 3章28節~33節
メッセージ
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試練について聖書から学んでいます。今日は「信仰による主体性」という点を学びたいと思います。
改めて言うまでもなく、聖書には、人間の様々な苦難と、それをどう受け止め、乗り越えるかという点で、多くの御言葉(みことば)が見られます。それ位、これは大きな課題であり、旧約聖書の哀歌にもこれが見られます。
哀歌は「エレミヤの哀歌」と呼ばれることもあり、著者を預言者エレミヤと考える人もいます。その点は分りませんが、不信仰で罪深かったユダ王国の都エルサレムへの、紀元前586年のバビロン軍による情け容赦のない徹底的な攻撃と破壊の後、間もなく書かれたようです。悲惨な体験と人々の魂の激しい苦悩、悲嘆が背景にあり、神への叫びや訴えが随所に見られます。
しかし、作者はあくまでも信仰に立ち、先程お読みしたような魂の底からの言葉を語ります。もう一度読んでみます。28~22節です。
「それを(=くびき 27節参照)を負わされたなら、ひとり静まって座っていよ/ 口を土の塵につけよ。もしかすると希望があるかも知れない/ 自分を打つ者には頬を向け、十分に恥辱を受けよ/ 主は、いつまでも見放してはおられない/ 主は、たとえ悲しみを与えたとしても、その豊かな恵みによって、人を憐れまれる/ 主が人の子らを、意味もなく、苦しめ悩ませることはない。」
苦悩と悲嘆の中にあり、あまりの悲劇的現実に、信仰があっても言葉を失いそうになります。けれども、なおもこういう言葉を、エルサレムに残った他の信仰者たちに対しても自分自身に対しても語る著者の姿から、大切なことを教えられます。何でしょうか。それは、神信仰に基づく私たちの主体性の大切さです。信仰は、様々なことに対するこの主体性を私たちに与えます。
上智大学で長年、死生学や悲嘆について教えられたA.デーケン氏(2020年9月に88歳で天に召されたイエズス会司祭。上智大学名誉教授)は、2003年の定年退職後、ドイツへ戻られました。しかし再び、日本に来られ、色々活動を続けられました。
愛する者を亡くしますと、残された者は皆、大きな悲嘆と深い心の傷を体験し、時間をかけてそこから少しずつ回復していきますが、それに関してデーケン氏はこう述べておられます。
「心の傷が癒えるとは、単に健康な状態に復元することではなく、人格的に大きな成長を遂げることを意味する。悲嘆のプロセスを創造的に乗り越えた人は、以前にもまして円熟した人格者となり、他者の苦しみにより深い理解と共感を示し、時間の良さを認識し、人間関係の素晴らしさとその限界を知り、人間の生命とその可能性、また死後の問題などにも前より深い関心を抱くようになる。
悲劇的な体験は、人から人生の希望を奪い、残りの一生を恨みの中に過させることもあるが、同じ体験を貴重な成熟の道とすることもまた可能である。ウィル・デューラントの優れた洞察-『大きな苦しみを受けた人は、恨むようになるか、優しくなるかのどちらかである』-が示すように、悲劇から何を引き出すかは、究極的には各自の主体性にかかっていると言えよう。」
深い悲しみと試練にも、必ず私たちの人格の成長と成熟にとって大切な意味があるのですが、それを意味あるものにするか否かは、私たちの主体性にかかっているという指摘です。本当にその通りだと思います。そしてここで、私たちのために十字架で命を捧げ、かつ復活された主イエス・キリストへの信仰が大きな意味を持ってきます。
私たちは、愛する人の死を初め、人生で様々な挫折や試練、悲嘆を味わい、周りの人や社会、また自分の人生や神をさえ恨みたくなることもあるかも知れません。しかしその時こそ、信仰により、この否定的・破壊的気持と戦いたいと思うのです。そして、いつまでもこの否定的・破壊的な気持に振り回されて自分自身を失い、駄目にするのではなく、「そうだ、このことにも必ず意味があり、神は大切なことを私に教えようとしておられるのだ。だから、哀歌にある約束、3:31「『主は、いつまでも見放してはおられない/ 主は、たとえ悲しみを与えたとしても、その豊かな恵みによって、人を憐れまれる/ 主が人の子らを、意味もなく、苦しめ悩ませることはない』を堅く信じて生きよう」と、主体性をもって選び取りたいと思います。
すると私たちは、必ず円熟した、すなわち、人の苦しみにもより深い理解と共感を示し、しかも永遠の御国(みくに)をますます爽やかな期待と確信をもって仰ぐことのできる、真(しん)に豊かな人格へと成長させられ、神に感謝を覚えつつ、人生を完成することを許されるでしょう。