2024年07月28日「悲しむ者は幸いです」

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聖句のアイコン聖書の言葉

5:1 その群衆を見て、イエスは山に登られた。そして腰を下ろされると、みもとに弟子たちが来た。
5:2 そこで、イエスは口を開き、彼らに教えて、言われた。
5:3 「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだからです。
5:4 悲しむ者は幸いです。その人たちは慰められるからです。
5:5 柔和な者は幸いです。その人たちは地を受け継ぐからです。
5:6 義に飢え渇く者は幸いです。その人たちは満ち足りるからです。
5:7 あわれみ深い者は幸いです。その人たちはあわれみを受けるからです。
5:8 心のきよい者は幸いです。その人たちは神を見るからです。
5:9 平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるからです。
5:10 義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人たちのものだからです。マタイによる福音書 5章1節~10節

原稿のアイコンメッセージ

 イエス・キリストは言われました。4節「悲しむ者は幸いです。その人たちは慰められるからです。」

 これはどういうことでしょう。悲しみなんて、皆、イヤです。それなのに、それが幸いだなんて、どういうことなのでしょうか。

 実は、3~10節で「~は幸いです」と続く一連の教えは、天地の創り主、唯一・真(まこと)の神を心から信じる信仰者の特徴を、神の独り子(ひとりご)イエスが語られたものです。そしてその一つが今朝学ぶ4節です。

 しかし、天地を造られた真の神を信じる信仰者・クリスチャンの特徴の一つが悲しみであり、しかもそれが幸いであるとは、一体、どういうことなのでしょう。でも、確かに主イエスによれば、真に幸いな信仰者は悲しみのある人なのです。

 では、それはどんな悲しみなのでしょうか。イエスはここで悲しみの内容を特にはおっしゃっていませんが、聖書全体から見て二つの点が考えられます。

 一つは、この社会と人間の罪ゆえの問題です。このことに、信仰者は悲しまないではおられません。

 無論、楽しいことや心励まされる嬉しいことも、この世には沢山ありません。それは素直に喜び、神に感謝したいと思います。しかし他方、この世を真剣に見つめますと、悲しいことが何と多いでしょうか。

 日本でもそうですし、世界に目を向けますと、悲しいことが世界中の至る所でどんなに起っているでしょうか。今この瞬間も多くの人が苦しみ、呻き、悲しみ、涙を流しています。世界には、悲しい問題が山積みです。民族と民族の果てしない抗争、暴力、流血、差別が絶えません。また金銭や権力、快楽を初め、飽くなき欲望を追求する醜い罪と、それがもたらす悲惨なことが何と多いでしょう。

 また神を見上げ、神の正しい御心に従って誠実に生きようとしますと、周囲から疎(うと)まれ、辛い目に遭うことも少なくありません。ですから、かつてある信仰者は神にこう祈りました。「私の目から涙がとめどなく流れ落ちます。彼らがあなたの御教え(みおしえ)を守らないからです。」(詩篇119:136)

 実は、父なる神の正しさや聖さ、愛と憐みを豊かに現された神の独り子、イエス・キリストご自身、悲しみの人でした。救い主を預言したイザヤ書53:3は言いました。「彼は蔑まれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人」だと。

 しかし、これだけではありません。第二に、真の信仰者には自分自身のことでも悲しみがあります。どういうことでしょうか。それは、自分自身の罪深さや不信仰についての悲しみです。

 確かに、イエスを救い主として心から信じる人は、あらゆる罪を赦され、神の子という最高の身分・特権を頂いています。これは間違いありません。とはいえ、罪の古い性質はなおも残っていて、それがしばしば頭をもたげ、真の信仰者も情けないことをします。しかも信仰がありますから、自分の罪と不信仰を省みますと、自分が呪わしいぐらい悲しい。ですから、使徒パウロでさえ、こう告白しました。ローマ7:15、19、24「私には、自分のしていることが分りません。自分がしたいと願うことはせずに、むしろ自分が憎んでいることを行なっているからです。…私は、したいと願う善を行なわないで、したくない悪を行なっています。…私は本当に惨めな人間です。」

 ご自分の御子イエスを、罪と滅びからの救い主・キリストとして世に遣わし、十字架につけられた程に、神が私たちを愛して下さっている。これを思いますと、いまだに自己中心で嘘やごまかしやずるい所もある自分が情けないです。信仰が成長する程、自分の罪深さ、汚れ、醜さ、ずるさなどが一層よく分り、悲しい。

 信仰者は、イエス・キリストのお蔭で救われています。これはどんなに感謝しても足りません!しかし、この世はまだ天国ではありません。従って、この世にある間、信仰者には必ず悲しみがあるのです。

 けれども、感謝なことに、主イエスの言葉は更に続きます。「悲しむ者は幸いです。その人たちは慰められるからです」と。そこで第三に、その幸いな理由を五つばかり見たいと思います。

 第一に、信仰者は、悲しみに遭って初めて真剣に物事を考えるようになるから、幸いです。

 人間は、悲しみを体験しませんと、表面的で薄っぺらな生き方を続け、どんどん自分の人生を浪費しかねません。しかし、悲しみを体験することで、私たちは立ち止り、神の前で、自分と自分の生き方を深く、よく考え、時間の使い方を初め、物事を大切にし、より深く生きることが可能となります。

 第二に、人との関係も深められるから、幸いです。

 悲しみを知りませんと、今も申しましたが、私たちは相変らず表面的な生き方を続けます。すると、互いに心に留め、支え、励まし合うように神が作られた他の人との関りが深まりません。しかし、この世のことでも自分自身のことでも、神の前に悲しみを体験しますと、私たちは、同じ弱さや悲しみを持つ者同士として、より誠実で温かい真実な交流が可能となります。幸いですね。

 第三に、私たちは、悲しみを体験することで、真実の世界に目を開かれます。

 前にもお話したことがありますが、星野富弘さんをご存じでしょうか。この4月28日に78歳で天に召された星野さんは、24歳の時、中学校の体育教師として器械体操の模範演技をされた際、失敗して首の骨を折り、首から下が全く不随になりました。心もひどく荒れ、お母さんに強く当たったこともありました。24歳の身で、星野さんはどんなに苦しく、悲しかったことでしょう。

 しかし、やがてクリスチャンになられ、口にくわえた筆で描いた美しい絵と詩で、多くの人に感動や希望を与えて来られました。

 その彼が、以前を振り返ってこう述べておられます。「体が丈夫で、しかも自分が自信に満ち溢れていた時には、見えない世界がある。けれども自分の弱さを知り、否、弱さそのものとなった時、見えてくる世界がある。」

 それはどんな世界だったでしょうか。人の優しさがありました。しかし何より、神の実在の世界でした。

 祈祷会でも紹介したことがありますが、イギリスの文学者C.S.ルイスは62歳の時、最愛の妻ジョイを骨髄癌で亡くしました。後に、人間の苦痛と悲しみについてこう書いています。「神は楽しみにおいて私たちに囁き(ささやき)かけ、また良心において語られる。しかし苦痛においては、神は私たちに向かって激しく呼びかけられる。苦痛は耳の聞こえない世界を呼び覚まそうとされる神のメガフォンである。」

 全てが順調な時、私たちはつい傲慢になり、人のことも神のことも、そして自分のことも分らなくなります。けれども、悲しみを知ることで、真実の世界に目を開かれ、神の声に耳を開かれるのです。やはり幸いだと思います。

 第四に、こうして神を知ることから、更に色々な幸いが伴います。

 例えば、この世の大きな問題と正面切って取り組みますと、問題の複雑さや大きさに、私たちは絶望的になりかねません。しかし、悲しみを通して神を見上げる時、私たちは悲しみつつも最終的には全知全能の神に一切を委ね、諦めずに、なおも全身できます。ですから、詩篇126:5は「涙と共に種を蒔く者は、喜び叫びながら刈り入れる」と言い、詩篇30:5は言います。「夕暮れには涙が宿っても、朝明けには喜びの叫びがある。」

 また私たちは、自分の罪や弱さや失敗の悲しみに自我を砕かれて謙虚にされ、神の御心をより深く学ぶ幸いにも与ります。詩篇119:71は神に言います。「苦しみに遭ったことは、私にとって幸せでした。それにより、私はあなたの掟を学びました。」

 更に私たちは、自分の罪や不信仰を知る悲しみを通して、イエス・キリストによる救いの恵みが如何に絶大かをますます知り、神への信頼を一層確かにされ、励まされます。何という幸いでしょう!

 最後ですが、五番目に最高の慰めがあります。何でしょうか。この世と自分自身のことで悲しみつつも、主イエスを信じて人生を終え、天国に入れられた時の幸いです。黙示録21:3、4は言います。「見よ、神の幕屋が人々と共にある。神は人々と共に住み、人々は神の民となる。神ご自身が彼らの神として、共におられる。神は彼らの目から涙をことごとく拭い取って下さる。もはや死はなく、悲しみも、叫び声も、苦しみもない。以前のものが過ぎ去ったからである。」究極の慰めがここにあります。何という幸いでしょうか。

 神に従順であり、この世と自分自身の問題に誠実に向き合い、悲しみの大きかった人程、天国における慰めはひときわ大きいのです。そして神の下さる慰めの大きさに驚き、「神様、どうしてこんなに私に良くして下さるのでしょうか。あぁ、神様、ありがとうございます!」と、同じように悲しんできた他の誠実な信仰者たちと共に、最高の笑顔で、神を思いっ切り賛美している自分自身を発見することでしょう!

 イエスは言われます。「悲しむ者は幸いです。その人たちは慰められるからです。」

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