2024年07月21日「疲れた人、重荷を思う人よ」

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疲れた人、重荷を思う人よ

日付
説教
田村英典 牧師
聖書
マタイによる福音書 11章28節~30節

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11:25 すべて疲れた人、重荷を負っている人は私のもとに来なさい。私があなた方を休ませてあげます。
11:29 私は心が柔和でへりくだっているから、あなた方も私のくびきを負って、私から学びなさい。そうすれば、魂に安らぎを得ます。
11:30 私のくびきは負いやすく、私の荷は軽いからです。マタイによる福音書 11章28節~30節

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 今お読みしましたイエス・キリストの御言葉(みことば)は、多くの人に慰めや力を与えてきました。しかしそれはそれとして、ここをまず文脈に沿ってきちんと理解したいと思います。

 イエスは言われました。28節「全て疲れた人、重荷を負っている人は私の許(もと)に来なさい。私があなた方を休ませてあげます。」疲れた人、重荷を負っている人とは誰のことなのでしょうか。

 25節でイエスは、父なる神が福音を「知恵ある者や賢い者」、つまり、自分を賢いとしていた当時のユダヤ教指導者や傲慢な人には隠し、一方、「幼子たち」、すなわち、自分の罪や弱さを素直に認める人には現された、と言われました。この両者の対比が28節でも根底にあります。

 ですから、疲れた人、重荷を負う人とは、当時のユダヤ教指導者の作った非常に煩瑣な戒律の下で苦しむ人のことです。マタイ23:4でイエスは、当時の宗教指導者たちは重くて負い切れない重荷を人々の肩に乗せ、しかし、それを動かすのに自分の指一本も貸そうとしない、と非難しておられます。こういう彼らの下で、自分は罪を赦され天国に入れるのか、それとも裁かれて地獄へ行くのかと、不安で疲れていた多くの人に、主イエスは言われたのです。28節「全て疲れた人、重荷を負っている人は私の許に来なさい。私があなた方を休ませてあげ」ると。

 では、イエスの許に行き、救い主として心からイエスを信じ、受け入れ、依り頼むなら、何故魂の休息があるのでしょうか。イエスは29節で「私は心が柔和で謙って(へりくだって)いる」と言われます。もし普通の人が「私は柔和で謙っている」などと言ったならば、そんな人は信用されないでしょう。しかし、イエスにはそう言える資格があります。本当にそういう神の御子なる救い主だからです。

 それにしても、イエスは何故「私は柔和で謙っている」とわざわざ言われるのでしょうか。

 今申しましたように、当時のユダヤ教指導者の多くは権威者ぶって細かい戒律を教えましたが、それを守れずに苦しむ一般の人々に寄り添い、手を貸す愛に欠けていました。

 しかし、イエスは違います。そもそも旧約聖書にある神の戒め、律法以上の煩瑣(はんさ)な戒律など、イエスはお求めになりません。また神の聖い(きよい)戒め、律法を守ろうとしても守れない私たちの罪深さも弱さもよくご存じです。ですから、イエスは永遠の神の御子ですのに、父なる神の許から人間となってこの世に来られ、私たちには到底守れない神の律法を私たちに代って完全に守り、またそのままなら永遠の滅びに至る私たちを救うために、やがて十字架で自分の命を献げられるのでした。

従って、このイエスを心から信じても救われない人など、一人もいません。

 その上、イエスを信じても、なお罪を犯しては悔い、悔いてはまた犯す私たちの弱さも、イエスはよくご存じの柔和で謙った方であり、私たちを常に父なる神に執り成して下さいます。ですから、ヘブル人への手紙4:15、16はイエスについてこう述べて、私たちを励まします。「私たちの大祭司(=イエス・キリスト)は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪を犯しませんでしたが、全ての点において、私たちと同じように試みに遭われたのです。ですから、私たちは、憐れみを受け、また恵みを頂いて、折に適った助けを受けるために、大胆に恵みの座に近づこうではありませんか。」

 情けない罪を犯し、すぐ不信仰になり、愛をもって神と人に仕えるどころか、まだまだ傲慢で自己中心な私たちは、本当に救われるのでしょうか。私たちは勘違いしているのではないでしょうか。いいえ!もし私たちが心底自分の罪を憎み悲しみ、神の前に平伏し、イエスに全く寄りすがるなら、私たちは赦され、永遠の救いに与ります!イエスは完全な、しかも柔和で謙った救い主だからです。「私は心が柔和で謙っているから」とわざわざイエスが言われたのは、ただただ私たちを励ますためなのです。

 ところで、続けてイエスは29節「私の軛(くびき)を負って、私から学びなさい」と言われます。これはどういうことでしょう。戒律を守れば救われるという、当時多くの人が苦しんだ律法主義からは、イエスを信じることで解放されます。けれども、今度はイエスの「軛」、つまり、何か別の新しい戒めを守らなければならないのでしょうか。

 無論、クリスチャンはイエスの戒めに生きます。私たちは、いわゆる律法主義者ではありませんが、無律法主義者でもありません。イエスの戒めを大切にします。

 では、そのイエスの戒めとは何でしょう。ヨハネ福音書15:12でイエスは言われます。「私があなた方を愛したように、あなた方も互いに愛し合うこと、これが私の戒めです。」そうです。神を愛し、また私たちが互いに愛し合うことが、イエス・キリストを信じるクリスチャンが生きる戒めの中心なのです。

 しかし、私たちはこう思うかも知れません。「何だ。それならクリスチャンになる前と、余り変らないではないか。愛し合うなんて、自分には難しくてできそうにないもの」と。

 無論、イエスがこう言われるのは、私たちを新しく苦しめるためではありません。29節の後半で「そうすれば、魂に安らぎを得ます」と言われることからも、それは分ります。しばしば自分の罪深さが重荷となって苦しむそんな私たちが「安らぎを得る」ために、イエスはこう言われるのです。

 確かに、人を愛することは何と難しいでしょう。これが新たな重荷になりかねません。しかし、二つの理由で、やはり私たちは幸いだと思います。

 第一に、イエスは30節「私の軛は負いやすく、私の荷は軽い」と言われるからです。

 私たちが自分の頑張りだけで人を愛そうとしても、それは無理です。罪の性質が一杯残っているからです。しかし、十字架で私たちの罪を全部償い、また復活し、私たちのために、詩篇121:4が言いますように、まどろむことも眠ることもなく、天において24時間執り成し続けて下さっているイエス・キリストを思うなら、感謝と平安で胸が一杯にならないでしょうか。

 また、私たちを天地が造られる前から御子イエスにあって一方的に選び、イエスの恵みに満ちた教会に聖霊によって結び付けて下さっている神の絶大な愛を覚えるなら、私たちの心は喜びに震えないでしょうか。

 この幸せをよく覚える時、私たちの信仰は励まされ、人を愛することが多少とも可能になり、それがまた私たちの嬉しい目標になると思います。そういう意味で、イエスは30節「私の軛は負いやすく、私の荷は軽い」と言われるのです。そして僅かでも愛のある行いが自分にできたことを知るなら、29節、私たちは自ずと「安らぎ」を得るでしょう。

 第二に、私たちがイエスに倣って柔和で謙遜であるなら、少しでも愛に生きることが可能となるからです。

 私たちが傲慢であるなら、人を真(しん)に愛することはできません。すぐ人の欠点に目が行き、批判的で見下した思いが生れやすいからです。

 しかし、私たちが柔和で謙遜ならどうでしょう。確かに、私たちがイエスに倣って柔和で謙遜なら、より寛容で優しい気持で人に接することができ、イエスの期待される愛に多少とも近づけると思うのです。

 それと、私たちが柔和で謙遜であるなら、人から学ぶことが多いですね。すると、ますます神の素晴らしさが分って喜びと感謝が増え、信仰が励まされて、平安になります。

 更に言いますと、私たちは人間関係で傷つくことも多いですが、私たちが柔和で謙遜ですとダメージは少なく、回復も早いです。宗教改革者のカルヴァンは、「倒れている人は、それ以上倒れることがない」というような言い方で、謙遜な人の幸いについて語っています。本当にその通りだと思います。

 現代社会に生きる私たちは、昔のユダヤの人たちのような点もあるかも知れませんが、正しく信仰に生きるための霊的な戦いが常にあります。また色々なことで、それどころか、自分自身を持てあまして疲れ、重荷やストレスを負う者に、大なり小なりなっていると思います。それをどう解決するのでしょうか。

 イエスは言われます。「全て疲れた人、重荷を負っている人は私の許に来なさい。私があなた方を休ませてあげます。私は心が柔和で謙っているから、あなた方も私の軛を負って、私から学びなさい。そうすれば、魂に安らぎを得ます。私の軛は負いやすく、私の荷は軽いからです。」

 遊びや何かでいくらか気晴らしはできても、根本的解決にはなりません。霊的にも人間としても成長しません。そうではなく、私たちを極みまで愛して下さっている神の御子イエスの救いの愛を幼子のように本当に素直に信じ、また主イエスに倣い、特に柔和で謙遜な者とされ、愛において成長を許され、そうして、この世が与えることも奪うこともできない神の平安に、繰り返し与(あずか)る者とされたいと思います。

 最後に、詩篇55:22を読んで終ります。「あなたの重荷を主に委ねよ。主があなたを支えて下さる。主は決して正しい者が揺るがされるようにはなさらない。」重荷や疲れは、なお続くかも知れません。でも「主」が、つまり神が、イエス・キリストが、「あなた」を、つまり「私たち自身」を支えて下さる!これが福音です!

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